世界が重なる前に、心が揺らぐ前に

期待の新筐体

第一部

一章 夜が明ける前に

第1話 煙草の火は微かに灯る

 眩しい、そう呟く。日も照っているわけでもないのに、真っ暗闇の夜の中、一つ、ちかちかと光る街頭を見て、僕は言葉を発した。見なければ済む話だと、頭では納得しつつも、人が群がっている場所には好奇心が働くように、虫たちが街頭の明かり近くで飛び回っている光景を、特に意味もなく眺める。虫と僕はまったく違う存在だと、月とすっぽんという言葉以上にかけ離れている存在だと認識しているのに、一人で夜の公園にいて、ふと、自分というものについて冷静に考えてみると、言われたことを自分の意思を持たずにやっていた僕が、ただ明かりにつられる虫たちと、どこが違うんだろうとも思えてくる。


 思春期の少年が周りに構ってほしくて吐く溜息のような、ねっとりとした蒸し暑い夜の空気にさらされながら、僕は溜息ではなく煙を吐く。体に悪いということは知っている。けれど、煙草を吸うときはそんなことは考えず、ただ上手いと、そう思うことにしている。僕は、喫煙所で赤の他人と一緒になって吸うよりも、一人で、しかも外で、落ち着いて吸う方が断然と好きだった。煙草の煙が、世の中にあるどんなに高級なご馳走よりも美味しく感じて、ほんの少しの時間ではあるが、何だか、幸せだな、と、ふと思うからだ。


 僕という街頭にさそわれたのか、食事の匂いに誘われる食いしん坊のように、煙の臭いに誘われたのか、それは定かではないが、ある知人が暗闇の中から僕に迫ってきた。

「・・・ここにいたのか」

「・・・健二」

僕は、何度も繰り返し呼んだことのあるその名を、自分にも言い聞かせるかのように述べた。結婚式のスピーチを、何度も何度も練習して、自分の中にも染みこませるときのように。


 どうしてここに?と、僕が聞こうとするよりも早く、健二はおもむろに右手をポケットに入れながら、火、くれるか?と頼んできた。僕はライターをズボンのポケットから取り出し、そのライターを彼に渡さず、そのまま僕の手で煙草に火をつけてやった。

「何年ぶりだ?」

「さぁ。随分と久しぶりではある」

僕が複数で煙草を吸うのを好まないせいか、健二といっしょになって煙を吸うのはご無沙汰していた。暗がりの中、街頭の光でうっすら見える健二の顔は、息子が二十歳になったとき、いっしょに酒を飲めることに喜ぶ父親みたいな、嬉しそうな顔をしていた。

「旨いな」

ああ。僕は頷いた。


「何しに来たんだ?」

煙草を吸い、一段落して、僕はさっきしようとした質問を若干変えて投げかけた。自分でも少し意地の悪い質問だと思っている。その証拠に、健二も若干呆れた小さな笑いを発して、分かってるだろ、と言った。

「こうしてお前と話せるのも、今日で最後になるかもしれないんだから。それとも何か?こんな日くらい、一人でいたかったか?」

「いや」

僕はすぐに否定した。健二が来てくれて嬉しかったと、お見舞いされた患者のような台詞を吐いた。

「時間はないだろうが、俺と話す時間は、ほんの少しはあるだろ」

「そうだな」

確かに、少しではあるが、僕と健二は多分、二人きりで話す必要があった。


「・・・まだ」

時間がないことは健二も把握している。だが、健二が発したまだ、という言葉は、僕が応えたそうだな、という返しから、一分くらい間を開けて宙に飛び出した。その事実で、ああ、健二が言いたいことはあのことかと、僕が察するには難しくなかった。

「まだ、千尋のこと、悔いてるか?」

一言一句、僕が想像していた質問とずれはなかった。

「・・・」

ずれはなかった。つまり、質問内容はあらかじめ認識していたのに、僕はすぐに回答できなかった。

「・・・どうかな」

結果、曖昧な返事を返した。ばつの悪いことではなく、本当に自分でも、分かっていなかった。

「・・・そうか」

健二はそんな僕の、普通ならもっと追究されておかしくない答えに、終止符を打った。健二なりに納得してくれたのかと思った。そして、その後に、健二は言葉をつづけた。

「適当に聞き流してくれていい」

しっかり聞いて欲しいんだな。僕じゃなくても、誰にも分かることだ。

「誰が何と言おうと、俺は、お前は悪くないと思ってる」

「・・・ありがとな」

僕は礼を言った。本気が慰めか、僕に確認する手段は無かったが、それでも礼を言った。


「・・・本当はな」

健二は帰って行った。煙草の吸殻をその辺の草むらに投げ捨てて、また、暗闇の中に消えて行った。その途中、僕の方を振り向いて、今日ここに来た理由を、最後に語りだした。

「本当は、お前を止めようと思ってここに来た。でも、お前のその顔、すっきりとした、覚悟を決めた顔、それを見たら、止めることが馬鹿らしく思えちまったよ」

ここに鏡は無い。あったとしても、その鏡で自分の顔を確認しようとは考えなかっただろうけど、一体どんな顔を僕がしていたのかは、分からなかった。

「・・・行くんだろ」

「・・・ああ」

「だよな」

今は夜中。街頭の光で、何とか姿を把握している状況だった。だから、僕から少し離れただけで健二の表情はほとんど見えなくなった。

「・・・今日は邪魔して悪かった。じゃあな」

でも、健二の表情は、何だかどうしようもなく切ない顔をしていた気がしてならなかった。


 健二がいなくなって、また僕は一人になった。僕もそろそろ帰らなければと、手に持っている煙草を処理することにした。草むらに投げ捨てるのもどうかと思ったので、特に大きな意味、もしくは理由があったわけではないが、虫たちが上で蠢いている街頭の根本まで進み、墓にたてる線香のように、まだ先が赤く光っている煙草をそこに置いた。公園から離れ、僕も暗闇の中に溶け込もうとしたとき、ふと後ろを振り返ると、遠くからでも煙草の火が確認できた。ただ、ほんのちょっとしたら、その火は役目を終えたかのように、ふっと消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る