-1- 既得権益を取り戻せ!


「うぅううう、悪夢の日々です……」


 ミスリルは半泣きになりながらも、鏡台に向かって身を翻した。


 背を向け、ばさっと黒地のロングスカートをまくる。スカートの裾を口で咥え、自由にした手でショーツを下にずらすと、白く艶やかだった尻は赤いミミズ腫れだらけになっていた。

 鏡越しに惨状を確認し、はふぅーっと盛大に嘆息する。


 すべて、アクネロの仕置きのせいである。

 あのDV男が帰還してからというもの、気が休まる日はない。


 ミスリルは職場のぬるい環境が気に入っていた。前の主人である老人スルードが優しさに満ち溢れた地母神の如き老人ということもあって、今まではちゃらんぽらんなメイドとしても生きてこれたのだ。


 しかし、主人が変われば待遇も変わる。


 アクネロは礼儀作法にはうるさいし、メイドとしての働きも注意深く観察している。おかげで、息をつく暇のない悲惨な状況になってしまった。


「うっかり人参を皮つきでスープ鍋に放りこんだくらいで、怒らなくていいのに」


 悪態をつきながら、ミスリルは薬瓶の蓋を開けた。指先にねちゃっとした粘り気のある濃緑色の軟膏を乗せ、痛々しい尻たぶにぬりぬりする。


 主人への遠慮のない悪口は自室だからこそ、つぶやける。


 一階に宛がわれた使用人の部屋はベッドと衣服箱、化粧台にローチェストが並んでいる。ミスリルは物臭なので、部屋の隅の日陰になる場所にお菓子の箱やジャム瓶など、間食用の備蓄が蓄えられていた。


 まだギリギリ、居心地はいい。

 一室を自由にできるし、真夜中に食料庫を忍び込み、勝手にお菓子を作ってもバレないのだ。


「一人息子がいるとは聞いていましたけど……全然、父親と似ても似つかないです。でも、馬鹿っぽい人ですから、シゴトはしやすいかな」


「あなたの仕事はまだ始まったばかりですよ、ミスリルさん」

「ふわっ!」


 前触れもなく、唐突に出現したルルシー――ミスリルの先輩メイドは両手を下腹部で組み合わせ、楚々そそとした佇まいで冷ややかな視線を向けてくる。


 実のところ、彼女のことはミスリルは苦手であった。


 無感情かと思うほど感情が現れず、腹の中がまったく読めない――前領主であるスルードに献身的に尽していたは知っている。けれど、私生活は謎に包まれており、仕事人間のようにも思えた。


「朝食の席でのお坊ちゃまの叱責を忘れてはいけません。それと、スープはきちんと温めてからお出しするのです。できてから、時間の経って冷めたものを出すなど言語道断です。さぁ、身だしなみも直しなさい」


「はっ、はい」


 鏡台を身姿を映し、頭上のホワイトブリムをくいっと両手で整える。


 目線を下げ、肩を左右に回して自らの着衣の乱れも確認した。


 理路整然として凛としたルルシーには、ミスリルは頭が上がらなかった。

 単純に高身長による威圧感もあり、怖いということもある。


「お尻に塗るお薬もよいのがあります。これから先、たくさん必要になるでしょうから用意しましょう」


「ルルシーさん。ご、ご主人様は……なぜ、私の尻を叩くのですか? 過ちは認めますけど、あんまりです」


「尻叩きはご趣味です。受け入れてください」


 嫌な趣味だ。

 いやらしい性格と邪悪さが入り混じっている。


 口を尖らせ、態度で不平を表したミスリルは心底そう思ったが、ルルシーはにべもなかった。


「さぁ、参りますよミスリルさん。お坊ちゃまがお呼びです。そう嫌な顔をしてはなりません。尻を叩かれたくなければ、せめて口の端を緩め、常に微笑を浮かべなさい。このようにして、笑顔の鎧を被るのです」


 ルルシーは花開くように微笑をたたえた。

 美しい造花のような印象を抱き、あまりの薄気味悪さにミスリルは背筋に冷汗を流した。





 ∞ ∞ ∞




「なんで、俺の家にはこんなに金がねえんだ」


 書斎の最奥にある執務机に両足をどかりと乗せ、椅子の背に後頭部を預けたアクネロは二人の従者を呼び出したものの、気だるそうな顔でうめいた。


 三人だけのささやかな葬儀が終わってから、既に三日が経過している。


 その間、アクネロは屋敷内を見回り、受け継ぐ財産がどの程度か調べていたが、ついにお手上げとなったようだ。

 

 辺境伯としての財産を期待していたようだが、がっくりきているのが暗い表情ではわかる。


 ミスリルの記憶によれば、確かにめぼしいものなどない――数十万の領民を抱えた地方領主とは思えないほど質素な貧乏暮らしだ。


 古ぼけた絵画や壺に価値などはなく、スルードが体裁のためだけに絵筆を振るったり、陶芸で自作したものばかりだ。


 ミスリルは横目でルルシーに視線を送った。


 彼女がもっとも、ファンバード家の財政事情に詳しい。


「なんだってんだよ。父上は腐っても地方階級ジェントリだ。統治者だ。俺がこの家に居た頃はもう少しマシだったぞ」


「僭越ながら」


 肩のラインを越えないくらいの控えめな挙手をしたので、アクネロは居住まいを正し、碧眼をギラッと輝かせる。


「言ってみろ」


「お父上様は税を取ることをあくと考えていた節がございました。産業法や農地法を改定し、商組合からの税収を軽減し、農地を農夫に取得させ、誰でも自由に商売をすることを許可し、人々にやりがいをお与えになったのです」


「父上がやりそうなことだ。自らの既得権益を手放すとは愚か者めが……つまり、本来なら支払われるべき税金を領主である俺はもらってないのだな」


「いえ、そういうことではありません。法にのっとり、税収につきまして正当に租税機関に支払われているかと思われます」

 

 アクネロはドガンッと両拳で執務机を叩いた。木っ端が周囲に散り、コーティングされた表面が剥げ、机はへこんで白い地肌を覗かせた。


 わなわなと唇を震わせるアクネロは、急に立ち上がってえた。


「法律なんて、関係ねえんだよっ! いいかルルシー! 俺は俺が儲けるのは大好きだけど、他人が儲けるのは大嫌いなんだ! そういう不正は絶対に許さねえ! ぶん取りにいくぞっ!」


 つんざく怒号は書斎をびりびりと伝播する。ミスリルは身体を斜めにのけ反らせ、「やっぱりヤバい人だ」と小声でつぶやいて主人を理解した。


 ルルシーだけは眉ひとつ動かさず、こくりと頷いて主人の意をくむ。


「では領地の見とり図をご用意致しましょう。どちらから略奪に参りますか、お決めくださいませ」


「よしっ、いいぞ。俄然がぜん、楽しくなってきた。俺様が領主になった以上は、領民どもにたっぷりと奉仕することの喜びを叩き込み、熱い涙を流させてやりたいからな」


「ミスリルさん。お坊ちゃまの英気を養う紅茶を淹れてください」

「はっ、はい」


 命じられ、ミスリルはスカートをひるがえした。

 ぱたぱたと書斎から出て、通路を移動して屋敷の東側にあるキッチンへと向かう。


 スリッパから防火用の皮靴に履き替え、手慣れた動作で換気用の出窓を開け、備え付けの火打石を叩き、鍋に火をくべて紅茶の準備を始める。


「しゃがむと、お尻がひりひりする……うぅ。あの人、絶対に頭おかしいです。権力を握っちゃいけない人です。やばいですよぉ、気まぐれで手込めにされそうですぅ」


 両手で頭を抱えて懊悩おうのうしつつ、ミスリルはてきぱきと仕事を進めた。


 そうして、ティーポットとカップをトレイに乗せ、書斎に戻るとルルシーが黒板を背にして状況説明をしていた。


「支配下の領地には、七つの都市と二十の村がございます。地図に登録されていない集落などは百十数。それらを含めれば総人口は二十万を越えます。金銭を奪取するのが目的であれば、村落を狙うのは最適ではございません」


「都市がいいな。七つもあるなら、一個ぶっ壊したところで誰も気にならないはずだ」


然様さようでございましょう。この屋敷から近い場所では港湾都市ファルクスでございます。海の向こうの帝都との交易が盛んで、金も物も集まっております」


「いいぞ。段々、よくなってきた。まずはそのファックっていうところから、金を支払ってもらおう」


「ファルクスでございます。しかし、お坊ちゃま。申し訳ありませんがファンバード地方に駐屯する西方黄金鳳凰軍は使えません。指揮系統から外れた名誉職しかスルード様はお持ちでございませんでした」


 舌打ちが響いた。

 苛立ちを現す癖なのか、頬を親指でなでつける。


「父上の負の財産だな。構わねえ。俺は元近衛騎士だ。戦争で罪もない人々を千人くらいこんがり丸焼きにしたことがある。心配するな。逆らう奴は殺す。貴族は平気な顔で平民を足蹴にできるから貴族なんだ。なんの問題もない」


 会話は物騒極まりなく――怯えるミスリルはガタガタと手先を震わせながら机の上に紅茶のカップを置いた。


 アクネロは無造作にそれをグゥーッと飲み「おっ」と目を丸くした。


「うまいな。お前は紅茶は淹れるのはとても上手だな」

「あ、ありがとうございます。えへへっ……」

「でも――茶葉混じってるぞ。尻を向けろ」


 予想外に褒められて喜んだのも束の間。

 アクネロがべっと突き出した舌先。その上に乗った数ミリの茶葉のカケラ――ミスリルは逃げ場を探すように視線をさまよわせたが、観念して背中を向けた。仕置きにも慣れてしまっている。


 罪が軽いせいか、アクネロは執務机から立ち上がるとノーモーションキックでミスリルの尻をすえた。


 それでも人を転倒させるほどの威力はあったし、彼女は「ふぎゃんっ!」と言いながらカーペットに倒れた。


 うるうると涙を溜めながら這いつくばる。


 よほど悔しいのか、拳を握ってぶるぶるとさせる。

 紅茶にかけては、ミスリルは密かに自信を持っていた。だが、プレッシャーのせいで日ごろの実力が出せなかったのだ。


 アクネロはルルシーに目配せする。

 彼女は主人から決して目を離さず、忠実に職務を保っている。


「行くぞ。お前ら。誰がファンバード地方の盟主か世間に知らしめる必要がある」

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