別人


「……はっ?」


 ライナスは思わず聞き返した。言葉は聞き取れた。だが、あまりにも理解が及ばなかったので暗殺者は思わず聞き返した。


 次の瞬間。


 ガッと、首根っこを捕まれ、ライナスは「かはっ」っと呻く。油断した訳ではない。暗殺者にとって、アシュの動きは捉えきれぬものではない。しかし、微動だにすることもできなかった。


。嬉しいよ。」


  呼吸ができず、身動きも取れぬまま、瞳だけを下に動かすと、もう片方の指先が微妙に揺れている。


「……っ」


 まさか、その微細な動きだけでシールを。しかし、詠唱チャントは行われていないのに、なぜ。


「ああ。手のひらに直接触れたものに対しては、直接魔力を流し込むことができるのだよ。君の全身に行き渡らせることによって、魔法と同等の効果を発揮する。未だ世に出回っていない事実ではあるが、正直、もう一人の僕がこんな手に引っかかるとは思わなかったよ」


 アシュは勝ち誇ったように笑う。その漆黒の瞳は、ライナスの全身をくまなく観察する。それは、人を見るそれでなかった。子どもの頃、昆虫を解剖した時の無邪気なる悪意。


「手荒な真似をして済まないね。だが、。まさかその問いかけに応じてくれるとは。こんな機会はそうそう訪れないが、故に図った無礼だ。どうか、許して欲しい」

「……がっ」


 許しを請うておきながら、相手の許可を求めないそれは、あまりにも理不尽だった。強者が弱者を喰らうときの儀式。弱肉強食。自然界にそびえ立つ圧倒的な摂理の前に、ライナスは為す術がない。


 ガンっ。


 アシュはそのままライナスを床に叩きつけて気絶させた。その裾を掴んでズルズルと引きずって、カウンターに戻る。この時、エロールは、一向に出てこないアシュに対し、なにかよからぬことをトイレで行っているのではないかと警戒していたが、それ以上の事態に目を丸くする。


「あ、あの……その方は?」

「すまない。君の求婚は凄くありがたいのだが、もう一人の僕を見つけたのでね。今日はこれで失礼するよ」

「……は?」


 全ての意味がわからない。求婚。と言うか、そいつ、誰? 空き巣? で、それがもう一人の僕? エロールは、熱心な読書家である。大抵の事柄を理解しているという自負はあったが、目の前で起きている事象はまったくと言っていいほど理解に及ばなかった。


 ただ、目の前の魔法使いが異常であることだけは理解した。


 そのまま、大人の図書館を後にした彼は、自分の宿泊しているホテルへと到着した。すでに、帰宅していたミラは、当然のようにアシュを出迎える。いつも通り、彼のコートを脱がし、いつものようにダージリンティーをカップに注ぐ。


「お帰りなさいませ」

「ああ。ただいま。遅くなってすまないね。少し本屋に行っていたもので」

「……そうですか」


 ミラは、アシュに引きずられた男をチラ見しながら答える。なぜ、本屋に行って、本を買ってこずに、人を引きずってくるのか。なにからなにまで意味不明だったが、彼女にとっては日常だった。異常なことが正常である、アシュ=ダール。もはや、彼女にとっては、疑問すら湧かない。


「ちょっと、実験をするので適当な道具と場所を用意してくれ」

「はい」

「しかし……もう一人の僕はこんな感じなんだね。それとも、周囲からはこう見えているということなのか……」

「……私には、まったく別人にしか見えませんが」

「ほぉ。やはり、君にもそう見えるか。とすれば、まったく異なる外見の者が僕の中に住んでいることになるな。それは、興味深い」

「……」


 ミラは、これ以上の説明をあきらめ、執事としての仕事に徹した。























 それから、6時間後、圧倒的に別人であることが判明した。

 


 

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