004

 結局、ひもじさには勝てなかった。

 西武新宿線の下り、急行本川越行に乗って、1時間ほどかかって川越市へ帰還する。西武新宿線は西武池袋線と比べて圧倒的に速さが足りない。

 歩いて歩いて、日本のビッグベンと名高い時の鐘――マユリが勝手に呼んでいる――を横目に、蔵づくりの街並みを抜け、新河岸川を越え、山田方面へ。まさかこんなに歩かされるとは思わなかった。股がこすれてマユリはもう限界だ。「あっ、あっ、あっ!」

「オイ、何度も訊くが、ホントにダイジョーブなのか? なんか今にもションベンもらしそうなツラしてるんだが」

「んふっ、んはぁ――」

「返事もマトモにできねえ、だと――ッ!」

「へ、ヘーキですよォ……最初はわりと痛かったけど、だんだんチョット気持ちよくなって……」

「あ、コイツは本格的にやべえな。もう少しだけがんばれ。あと少しで着くから。もちろんうちの便所はウォシュレット完備だ。――ホラ、見えてきたぜ」

 田んぼの真ん中にポツンとたたずむその屋敷は、想像していたよりずっと大きかった。周囲を重厚な塀に囲まれて、内側には広い庭もある。絵に描いたような地主豪邸だ。

「オラ、お兄さまが帰ったぞォ!」

 玄関でニブズが呼びかけると、奥からおしとやかそうな美少女が迎えに出てきた。いかにも大和撫子といった風情。

「おかえりなさいませゴクツブシ――じゃなくてお兄さま」

「おう、ただいま。客にアイサツしろ。後輩の花崎マユリだ」

「いらっしゃいませ花崎センパイ。ようこそおいでくださいました。センパイのおうわさはかねがね。わたしはそこのロクデナシ――もとい篠崎三鳥の妹で、萌芽と申します。親しみを込めてハジメちゃんとお呼びください。あと、コードネームは〈リリー〉です♪」

「バカヤロー、勝手にコードネーム名乗ってんじゃねえ。もう警備班に入ったつもりか、いや三高に受かったつもりか。悪いこたァ言わねえ、おまえにゃムリだからやめとけやめとけ。おふくろの言うとおり、素直に三女にしとけよ」

「イヤよ女子高なんて。女同士でやたらベタベタしたり、後輩にお姉さまって呼ばせたり、バラ園でお茶会したり、J・A・シーザーの作曲のBGMで決闘したりする、スカした連中の巣窟でしょう?」

「おまえは女子高を何だと思ってんだ……」

 三芳野高校が共学化する際、近所の三芳野女子高校と合併する案があった。しかし、たがいの伝統を途切れさせるのはもったいないというコトで立ち消えになり、なぜか今でも三女は女子高のままだ。

「つーか、そもそも、新入りのコードネームはその年の実委会長が決めるんだ。つまりおまえに名付けるのは、次期会長の俺様だ。おまえなんかナナで充分だ」

「えー、ナナってアレでしょう? 置いてけぼりにされてネバーランド行けない犬でしょう? お兄さまってホント陰険だわ。というか、次期会長はノロちゃんか大友センパイあたりじゃなくて?」

「うるせえバカ。――おっと、そうだ。忘れるトコだったぜ。オイ、クソッタレ。こちらのレディーを便所に案内してやれ。ガチでションベンもれそうみたいだ」

「エッ! そういうコトはもっと早く言ってください!」萌芽はマユリの手をつかんでなかば強引に、「ホラ、こっちですこっち。急いで」

 もう弁解するのも面倒なので、マユリは素直に従った。

 トイレのドア越しに、「それにしても、あの童貞――じゃなくて硬派なお兄さまが女子を家に連れ込むなんて、めずらしい。それこそ幼稚園以来かしら?」

「そういえば、わたしのうわさって何を聞いてたの?」

「貧乳だそうですね」

「よけいなお世話よ!」貧乳をなめるな。おかげでブラなしでも何とかなったのだ。

「あとは女子のくせにナマイキだとか、さっさとカレシ作れとか、だがあの脚は悪くないとか、おおむねそんなカンジでしたね」

「ハジメちゃん、あのクソヤローの弱点って何? よければ教えて」

「その美脚でシゴいてやればイチコロだと思いますわ」

「いや、そういうのじゃなくて」

 というか、深窓の令嬢っぽい見た目とは裏腹に、さっきから何というか、ときどき口が悪い。

「あいにくですが、教えてあげられませんね。うちのお兄さまは控えめに言ってクソッタレですけれど、腐ってもわたしのお兄さまなので」意外や意外。どうやら思いのほか、妹にしたわれているらしい。ひとは見かけによらないものだ。「……ただし、わたしのおねがいを訊いていただけたら、教えるのもやぶさかでもないのですけれど」いや、そうでもなかった。

「おねがいってどんな?」

「――マユリお姉さまって呼んでいいですか? 初めて見た瞬間ビビッとキちゃいましたァ!」

「ヤッパリ女子高のほうが向いてるんじゃないッ?」

 リリーはタイガー・リリーではなくて、百合リリーのほうだったようだ。

 興奮して、カギをこじ開けてトイレのなかへ押し入ろうとする初に抵抗しているうち、遅いので様子を見に来たニブズのおかげで、何とかマユリは貞操の危機をまぬがれたのだった。

 篠崎家の家政婦である春木が作ったカレーは、ビックリするくらいおいしかった。決め手は各種スパイスを混ぜたヨーグルトに、鶏肉を半日漬け込むコトだという。食事のあいだじゅう、ニブズが篠崎家の歴史について語り続けなければ、なおよかったのだが。

 食後のアイスコーヒーまでいただいていると、「ところでマユリお姉さま、今夜は泊まっていかれてはいかが? 夜道は危のうございます」

「ごめん頼むからお姉さまはホントやめて」

「でもォ、お姉さまはァ、お姉さまなワケですしィ?」

 ニブズが耳打ちしてくる。「おまえ、うちの妹に何をしたんだ?」

「責任をなすりつけないでください。篠崎家の教育が問題でしょッ」

「明日は学校もお休みですし、べつに泊まってもかまわないでしょう? ね? ね? ふたりいっしょにお風呂入って、同じ布団で寝ましょう? ゲヘヘヘ」口からヨダレがこぼれる。

 マユリはニブズに『助けて!』とアイコンタクト。『俺様にどうしろと?』困惑しながらも家政婦の春木へ目くばせ。

 春木はやれやれと肩をすくめて、「ワタクシがマユリさまをクルマで送りましょう。本川越駅でよろしいですか?」

「ぜひおねがいします!」

 すると萌芽はカセットテープの巻き戻しみたいな声で笑い出した。

 ニブズは戦慄して、「おお狂ったか、わが妹よ」

「キュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルルルルルルルルルルルルルルルル――おっと手がすべったァーッ!」

 萌芽はイキナリ、自分の分のアイスコーヒーをぶちまけた。マユリはかわしきれず、マトモにアタマからかぶってしまう。「うお、冷たァっ!」

「あらあら大変! でもダイジョーブですからお姉さま! うちの最新式洗濯機は、コーヒーのシミだって一瞬で落ちちますしィ! 服を洗い終わるのを待つあいだ、シャワーでも浴びてきたらよろしいのでは的な? 何ならお背中でも流しましょうか、みたいな? キャハ!」

 マズイ、とマユリは思った。萌芽の暴走っぷりに貞操の危機もヒシヒシと感じていたが、それ以前に着ている服を洗濯に出したりしたら、自分がノーパンノーブラなコトが確実にバレてしまう。そうなったらメチャクチャ恥ずかしいし、何か特殊な性癖でもあるのかと誤解されたらイヤだ。

 どうする? どうする!

 ふと、ニブズが顔を真っ赤にして、こちらを凝視しているのに気づく。マユリの胸のあたりを――コーヒーで濡れて張りついたシャツに、乳首が浮き出てていた。

「うっ――うぎゃあああああああああああああああああああああ!」

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