アートの楽園

小村ユキチ

一章 楽園ガイダンス

第1話 目覚め

 ひどい疲れを抱えたままベッドに倒れ込み、次に目覚めた朝というのは、口の中からドブ川のようにえた匂いがするものだ。目を覚ましたタイミングがいつなのかよくわからないし、微睡まどろむにはやかましすぎる夢の残滓ざんしが小さかった頃の思い出のようにダラダラと巡るしで、寝苦しくて仕方がない。ただ、それでも起き上がれないくらい体に血が巡らないから、死んだような眠りという表現を使いたくなる。実際はちゃんと起きてるくせに、気分だけは寝てるつもりで考えてしまう。

 でも……今日みたいに、自分がなんで疲れているのか、まるで見当がつかないのは珍しい。

「そりゃあそうさ」これまで素敵な笑顔で僕の話を聞いていた白い服の女の子が、クスクスとおかしそうに肩を揺らす。「生まれたての赤ちゃんに、自分がなんで疲れてるかなんてわかるわけないよ」

「はぁ」不明瞭に呟きつつ、僕はゆっくりと体を起こした。「赤ちゃん……ですか」

 目をこすり、自分が寝ていたベッドを……質のいい、ホテルのように柔らかな毛布をぼんやりと眺める。脇には質素ながらもデザインの凝らされた椅子が置かれていて、そこに先ほどらい、見た目の年齢にそぐわない言葉遣いと余裕を見せている女の子が座っている。

 よく見れば、息を呑むほど美しい女の子だった。日本人じゃないせいで、年齢は中学生くらいかそれとも小学生くらいなのかはわからないけれど、ともかく、顔の造りが並どころじゃなかった。キレイすぎる。こんな人形のような人間が実在していたのかと笑っちゃうくらいに半端じゃない。朝日を透き通す長い黒髪の下に、子供らしからぬスッキリとした眉毛に飾られた切れ長でありながら大きくて丸っこい垂れ目。薄く開かれたまぶたの裏に光るイタズラっぽい黒の瞳からは、いかにもワガママで遊び好きな茶目っ気が感じられる。それでいてどこか知的で、上品で、また妙にあでやかなのは、ピンク色の小さな唇のせいか。

 少し笑えば頬にぷっくりと笑窪が生まれ、瞬きするたびまつ毛が揺れる……そんな、やりすぎなくらいに出来過ぎた美少女が、白い寝間着っぽいワンピースを着て僕のそばに座っているのだ。

 なんだか妙な気分になった。

 うーん……子供がどうこうという趣味はないのだけれど、でも、ここまで桁外れな美貌であれば、誰だって少しは感心してしまうものだろう。いやはや、ビックリするなぁ。

 辺りを見回す。天井の高い、豪華な部屋だ。僕のいるベッドは、右手が大きな窓に面していて、ガラス越しにきれいな青空が光っている。朝日が差し込んでこないのは、もう昼を過ぎているせいなのか、それとも間取りの問題か。

「ところで、名前は?」

 きれいな声に振り返る。人形みたいな女の子が、僕に向けて指をピンとさしていた。少女の理想形みたいな見た目からくる印象よりも、ずっと少年っぽい声だ。

「名前……あ、水野勇巳いさみです。それで、えっと……」目をこすり体を起こし、ペコペコしながら彼女に向き直る。「あの、どちら様でしょうか?」

「それは後」僕なりに重大な思いを込めた質問は、残念ながらあっさりと受け流される。「私が誰かより、ミズノが何者なのかの方が今はよっぽど重要だからね」

「僕……ですか?」

「ミズノか。その名前は、えっと……どこのお国出身?」

「それは、日本なんじゃないかな」僕は思わず笑った。「日本語でしゃべってるし」

「ふむ。ミズノの正体は、ま、ぶっちゃけニホンに住んでるミズノとやらのクローンだ」

「クロ……え?」

「その証拠に、親兄弟でも恋人でも、誰か知り合いの顔が思い浮かべられるか試してごらん」

 …………。

 おや?

「クローンだからね、記憶のコピーが不完全なのさ」彼女は言う。「知識は完全だけど記憶は欠如している。ミズノはミズノの世界の誰かさんの情報を元に、この世界に作り出されたクローン体というわけ。話、ついてきてる?」

「……後味の悪い映画みたいな設定だね」僕は少し笑いながら、あくびをする。「記憶喪失だと見せかけて実はクローンだったって、それなりに衝撃的な話だと思いますけど。僕ならオチに持ってきたくなるな」

「なかなか面白いこと言うじゃん」彼女もフフッと笑いながら、白く細っこい足を組み替えた。「そりゃ創作シナリオ・ワークならオチにしてビックリを誘うのもアリだけど、ありもしない記憶を探させるのは流石に可哀想すぎるかな。ミズノ、ミズノは誰かのクローンだ。でも別に悩むことなんてない。なぜならこの世界にはニホンなんて国はないし本物オリジナルもいない。そもそも命は生まれた瞬間から完全に本人のものだ。アイデンティティに悩むありがちな展開もいらないってわけ」

「クローンか……その手の話って、これは夢か現実かっていうのと同じくらい証明できないから……それにしても、すぐに喋れるクローンの製作なんてすごい技術だなぁ」

「ま、クローンって言っても、ただの仮説なんだけどね」彼女は肩をすくめる。「本当はそっちで死んだ人間の無念がこっちの世界で化けて出てるのかもしれないし」

「こっちの、世界?」

「うん、この世界。魔法の世界」

「魔法?」

「魔法」コクンと愛らしく少女が頷く姿を見て、僕は吹き出した。

「あぁそうか、なるほどなるほど」

「はっはっは、信じないよね。まだ何も見る前から信じられるなんてよっぽどのバカか……もしくはすっごい天才くらいか」

「はあ」

「では、証明しよう」

 すっと少女は立ち上がり、右手をゆったりと真横に広げた。

 手品でも見せてくれるのかな?

 寝ぼけまなこにそう思った僕の目の前に、突然……本当に全くの唐突に、恐竜の頭が現れた。

 たまげて軽く飛び上がった僕をあざ笑うかのように、小さな恐竜は翼を広げてふわりと室内を……この、驚くほど天井の高い部屋の内部で大きく縦にひるがえり、少女の後ろに羽ばたくこともなく静止した。

 ……ドラゴン?

 それは、翼を広げたドラゴンの、大人の男よりやや大きいくらいのサイズの模型だった。よくできているが、生き物でないことはわかるような、そんな程度にはツヤツヤの質感で構成された空を飛ぶ模型。

 なんだろう、これ。

 少女はそれを背後にともなったまま、僕の寝ていたベッドへと飛び乗って、近くの大きな窓を開け放つ。気持ちのいい風がブワッと顔を撫でたのも束の間に、模型の竜が、音もなく外へと飛び出した。

「うわっ!?」

 あとを追うように窓から顔を出した少女は、ニンマリと笑いながら、ぽかんと口を開けている俺を手招きをする。「ほら、ここから見てなミズノ。面白いもの見せてやるよ」

 正直何が何だかわからないままオズオズと布団から這い出て、少女の隣に顔を出す。髪の毛から凄くいい匂いがしたけれど、さすがにそれどころじゃないんだろうなっていうのは理解していた。

 小さな竜はなんの支えもなく、5メートルほど先のところで浮いていた。

「あれは私の使い魔。天井から吊ってないことは理解してくれた?」

 使い魔?

 とりあえずは頷く。

「じゃあ、ちゃんと見てな……すげえから」

 彼女の笑い声と共に、カラカラと鐘のように美しく、それでいてどこか軽快な音が使い魔と呼ばれた竜の模型から響き始めた。聞いてるだけで目が冴える爽やかな音色に、眠気や疑問さえも吹き飛ばされる。

 音に合わせて空を飛ぶそいつの三角の鱗が、植物の成長の早回し映像のようにメキメキと増殖を始めた。あまりにも非現実的で壮大な光景に、思考を忘れた僕はただただ息を呑んで成り行きを見守っていた。 

 鱗は増え、重なり、凄まじい速度で成長し、使い魔は太い足と長い尻尾、蛇のように滑らか頭を持つ、大きな翼を広げた赤い竜へと変貌を遂げた。

 鼓動が早鐘を打っていた。

 大きな竜……ファンタジーではありきたりな存在の実際のサイズ感を目の当たりにすると、模型とは言え、その迫力は桁外れのものがある。何より、これほどの重量感のある存在が平然と宙を浮けるものなのか。

「すごい……」思わず、声が漏れる。

 が、驚くのは、ここからだった。

 赤く変色し、目に見えないほど密に重なり合った鱗を持つ竜は、長い首をくるりと回したかと思うと、そのままあっという間もなく高空に飛び上がった。

 巻き起こった突風から体をかばいながらも、急いでその行方ゆくえを見上げる。

 竜は遥かな空でぐるりと旋回し、またまっすぐに舞い降りてきたかと思うと、今度はくうを尻尾で弾くようにして音を鳴らし、その反力で縦へと旋回軌道を変えて、その後もビュンビュンと自由自在に空を飛び回り続けていた。

 あまりにも現実離れした光景だった。

 例えるなら、戦闘機がサイズはそのままテニスボールのように空を駆け回っているかのような狂気のスピードと、旋回力。

 竜は白い雲に向かって、点になるほどに遠く離れて行って、見えなくなるか? という辺りでどうやら向きを反転したらしく、ゴーッとまっすぐにこの窓へとミサイルのように落下を始める。

 そして、僕がビビって腰を浮かしかける寸前に、フワッと、風だけを残して忽然と姿を消してしまった。

 カーテンが翻り、雲の上から運ばれてきた冷たい空気が渦を巻く。

 ……かと思ったのも束の間に、目と鼻の先に、そいつのライオンほどに大きな頭が浮いているのだった。

 目まぐるしい。

 とにかく、そう思った。

「これで少しは信じる気になったか?」

 はっとして、隣で窓辺に肘をかけながら、俺を見て笑っている少女の方を振り返る。

「あ、そういえば、私の名前はパレードだ。よろしくなニホン人」

「パレード……」

 ただただ圧倒され、名前と言われた単語をオウム返しにしかできなかった僕を面白がるように、彼女は人差し指を立てて、投げキッスのようなジェスチャーをする。

「ま、何はともあれだ」

 少女の人差し指が、僕の唇にそっと触れて、愛らしくクリクリと円を描いた。

「アートの楽園へようこそ、チキュウ人」

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