第21話 霊獣討伐

 巨大な岩塊を積み上げた防波堤に守られた港の奥には、石製の頑丈な桟橋が突き出ていた。カエトスたちの乗る輸送船は、直角に折れ曲がった桟橋の先端部分に左舷側を接舷させて、すでに係留されている。

 ここはビルター湖の中央付近にある島ウルトスの港だ。

 石畳で舗装された広場のやや奥まった場所に、数百人規模の兵士が駐屯できそうな頑健な砦がある。それを囲むなだらかな丘は丈の低い雑草で一面覆われており、止むことのない風が緑の波を生み出していた。

 

「よし、それでは班ごとに速やかに下船し、港湾砦前の広場に集合!」


 指揮官バリオの号令が響き渡る。それを合図に、甲板上に集った兵士たちおよそ二百人が規律正しく下船を始めた。

 湖面の波や風は穏やかで、行動するのに大きな支障はない。しかしこのウルトスに来るまでの道程は、凄まじく過酷な環境だった。島に近づくほどに大気と湖が荒ぶり、大型船であっても転覆しかねないほどの猛威となって襲いかかってきたのだから。

 船が無事にウルトスに辿り着いたのは、それらへの対策を講じていたからに他ならない。

 大気と湖水が動くのは運動エネルギーを付与されているからであり、力を奪ってしまえば無力化できる。つまり動体減衰場を展開すれば、波風の影響を受けることなく航行することが可能だ。この輸送船にはそのための人員が乗船しており、彼らのおかげで船は無事に入港できたというわけだ。


 今は、数百数千という岩塊を積み上げた防波堤の内側に退避しているため波の影響はほとんどなく、また風も入港時よりは弱くなっており、何かにつかまっていなくてもしっかりと立っていられる。

 

 しかし波が弱いのは防波堤のおかげだけではない。実は風や波そのものがおさまってきているのだ。その原因は島の西側にあった。

 なだらかな丘のずっと先に、天を衝く細長い棒状のものが見える。あれは湖水が竜巻に巻き上げられることでできた水柱だ。そしてそれを作り出しているのが源霊の一つであるミュルス。

 このウルトスはミュルスが集う霊域と呼ばれる土地であり、彼らが真気を変換して生み出す膨大な力が湖水と大気に作用し、周辺を嵐のような環境に変えているのだ。

 それによる浸食の力は凄まじく、この百年ほどの間に島の面積は十分の一程度にまで減ってしまったという。その影響は全く衰えることはなく、切り立った断崖と化した島の西部は現在も徐々に侵食されているとのことだ。

 ただそれも常に続くわけではなく一定の周期で変化する。あるときはビルター湖全体の湖流を変えるほどのうねりになったり、その逆に鏡面のように凪いだりもするそうだ。

 風や波が弱まっているのは、これから凪の時間帯に向かっているからで、それはさらに弱くなりやがて完全に止まる。そしてその後、再び荒天へと変化していく。

 

 これほど過酷な環境に住み着いた霊獣を、なぜわざわざ危険を冒してまで討伐しなければならないのか。

 それは霊域が、源霊使いを生み出すために大きな役割を果たすからだ。

 源霊術とは、人間が源霊に呼びかけることで様々な力を発現させる術だが、源霊には人間の言葉を解する能力はない。そのため源霊使いは、言葉を発するとともにそこに意思を込めるわけだが、ただの人間が同じようなことをしても、源霊は一切答えない。

 なぜなら源霊と人間とが全く別の種族だからだ。人間は肉体の感覚を頼りに様々な情報を得るが、源霊にはその肉体自体がない。つまり意思疎通の原理そのものが全くの別物なのだ。

 ではどのようにして意思を伝えるのか。それは人間のほうから源霊に近づくことだ。

 話によると源霊とは魂だけの存在であり、その本質は人間に宿ると言われる魂と非常に似通っているという。

 それならば魂を源霊に近づければ、源霊との意思疎通が可能になるのではないかとの仮説が生まれ、それを立証するために用いられた手法が源霊が集まる霊域に滞在することだった。


 半ば思いつきで行われたその実験は、結果として実際に効果を上げた。霊域の過酷な環境に耐えながら滞在し続けた人間の中に、源霊へと指示を出せる者が出現したのだ。

 この成功により、それまでは不可侵の領域とされてきた霊域は、源霊使いを育成するための訓練場へと変貌した。

 こうした動きが起きたのはもう何百年も前のことだという。

 それ以来、国を治める為政者たちは霊域の発見と確保に力を傾けることになる。源霊の力は生活を豊かにするとともに、戦う力にもなるからだ。

 そしてそれはこのシルベリア王国でも同様だった。

 シルベリアは至るところに源霊使い、特にミュルスを使役する人間を見かける。彼らはこのウルトスに滞在し、源霊との交信能力を開花させた者たちであり、その力は産業の発展と軍事力の維持に大きく寄与している。

 この霊域が霊獣の棲みかになったままでは、源霊使いの育成が大きく滞ることになり、それは長期的には国力の低下に直結する非常事態だ。ゆえに霊獣は是が非でも討伐しなくてはならず、早期にこの霊域を解放しなければならないのだ。

 それを自覚している兵士たちの士気は高く、列を成して桟橋を歩く動作からも意気込みが伝わってくる。

 カエトスたちもそれに同行しなければならないのだが、いまだ甲板上に留まっていた。その原因は二人の姉妹にあった。

 

「殿下、それはいくら何でも──」


 ミエッカは大きくなりかけた声を慌てて呑み込むと周りを見渡した。

 幸い、ミエッカの声に気付いた兵士はいなかった。甲板上にいた兵士たちはもうほとんどが下船していて、残っているのは操船に関わる船員が数十人程度だ。

 ミエッカはほっと息をつきながら、自分の妹であり、仕える人物でもあるレフィーニアに抑えた声で改めて詰め寄った。

 

「その提案は受け入れられませんっ……!」


 ミエッカがレフィーニアに噛みついている原因は、妹が主張した内容にあった。

 ミエッカは班編成を敢えて無視して、カエトスとアネッテ、ヨハンナをレフィーニアとともに船に残し、自身は霊獣の討伐に向かうと提案した。それは王女の同行を認めたミエッカにとって、考えられる限り最も合理的な判断だったが、それに王女が異を唱えたのだ。

 

 レフィーニアの主張はこうだ。

 ミエッカとカエトスの両名とともに行動するのが大前提であり、二人が分かれて行動するのは許可できないと。そしてその上で霊獣討伐にも参加するようにと。それはつまり自分を連れて前線に行け、という意味でもあった。当然ながらミエッカがこのような主張を受け入れられるわけもなく、口論になっているのだ。


「もうみんな行っちゃいましたけど、いいんですか?」

「仕方ないだろう。殿下を説得しなければどうにもならないんだから」


 桟橋に目を向けながら尋ねるヨハンナに、アネッテが達観した口調で答えた。二人とも銃槍や皮鎧などの装備、携帯する予備の弾丸などの点検を終えて、いつでも下船できる状態だ。

 

「説得できると思います?」

「難しいな。殿下はご自身の意思というよりも神の指示を元に行動しておられる。つまりミエッカが説き伏せなければならないのは、殿下ではなく神。それはさすがに荷が重い」

「ですよねぇ。私としては、みんなでここに残った方がいいと思うんですけどね。あ、べ、別に霊獣と戦いたくないわけじゃないですよっ。あくまでも殿下の安全を考えた上でのことですからね?」


 両手を振って必死に弁明するヨハンナに、アネッテがやれやれと頭を振る。

 

「いい加減に覚悟を決めろ。もうここは戦いの場なんだ。逃げ腰のままではいざという時に後れを取るぞ」

「はいっ、わかってますっ。でもでも、カエトスさんも戦いに集中してないみたいですよ。ほらほらっ」


 たしなめられたヨハンナは直立不動の姿勢を取りつつ、矛先を逸らそうとカエトスを指差した。

 カエトスは先刻から、レフィーニアやミエッカたちの会話や周りの動向に注意を向けながら、左手の中で剣を回転させたり、小さく円を描いたりしていた。それがヨハンナの目には遊んでいるように映ったらしい。

 

「……お前は何をしているんだ? 見たところ剣舞のようだが」


 さすがにアネッテはヨハンナのような誤解はしなかった。滑らかに動き続けるカエトスの手を覗き込みながら尋ねる。

 

「戦いの準備です。源霊を待機状態にしているんですよ」

「待機状態?」


 手を止めないまま答えたカエトスに、ヨハンナが不思議そうに首を傾げる。


「はい。私の場合は、源霊に一連の指示を出し終えるまで時間がかかるので、あらかじめ何をするか指示を出しておいて、あとは実行命令一つで発動できる状態にしているんです」

「ほう。剣舞ではそんなこともできるのか。我々にはない考え方だな。ちなみにどんな動作で実行命令を出すんだ?」


 カエトスは一連の動作の区切りに来たところで一度手を止めると、アネッテに手を差し出して実演してみせた。


「使う道具によって様々ですが、私の場合はこうして柄を手の中で回転させて、逆手に持ち替える動作です。回転させる回数によって、実行させる命令を変えられるという仕組みになってます」

「……もしかして、複数の命令を待機状態にできるのか?」

「ええ。今はミュルスに七つ、マールカイスとリヤーラにそれぞれ一つずつ待機命令を出したところです」

「九個も待機させられるんですか? どんな命令を出したんです?」


 目を丸くするヨハンナの問いに、カエトスは右手指を折り曲げながら答えた。

 

「霊獣との戦いに使えそうなやつですよ。動体遮断場が三種類と、攻撃関係が二つ、行動補助が三つ、あとは霊獣の拘束に使えそうなのを一つといったところですね」

「すごいな。その数の源霊術を、それだけの動作でいつでも実行できるなら、口頭で指示を出す私たちと同じか、それよりも速いんじゃないか?」

「ですよねぇ。カエトスさんは時間がかかるのが欠点って言ってましたけど、いつも準備しておけばそれも解決するじゃないですか。何でしないんです?」


 二人が疑問に思うのは当然のことだ。カエトスも可能ならばそうしたい。しかしそれができない理由があった。

 

「それはですね、実行命令は、私以外の何かが出した音でも受け入れられるからです。つまり、どこかで偶然実行しろという意味の音が発生してしまうと、勝手に発動するんですよ。常にそんな状態にあるというのは危険極まりないので、今のように確実に戦闘になるとわかっているとき以外には、準備しないというわけです」


 カエトスの説明に、ヨハンナがしきりに頷き、アネッテがおもむろに腕を組む。


「……やはり非常に興味深いな。早く時間を確保してじっくりと剣舞について聞きたいものだ」


 そう言いながらアネッテはレフィーニアとミエッカを見やった。まだ口論を続ける姉妹へ向ける眼差しには色濃い懸念がある。

 戦場に王女がいるという事実が、どのように戦況に影響を与えるかを思っているのだ。そしてそれはどう好意的に見ても、良い方向に作用するということは考えにくい。

 アネッテと同じくミエッカもそれを痛いほどに認識しているからこそ、レフィーニアに懇々と説いていた。

 

「いいですか。霊獣はその辺りをうろついている獣とはわけが違うんです。私自身の身を守れるかどうかも怪しいほどなんです。そんなのと対峙しているときに、殿下が襲われたら対処できない恐れがあるんですっ!」

「そんなのわかってるもん。でも私は行かなきゃならないの。ここまで来て船で待ってるなんて、来た意味が全然ない。姉さまとカエトスと一緒にいなきゃならなくて、霊獣も討伐しなきゃいけないの……!」

「それも……神託なんですか?」


 頷くレフィーニアに、ミエッカが頭をかきむしりながら天を仰ぐ。

 

 ミエッカの気持ちがカエトスにはよくわかった。絶対に守ると誓っている人物をわざわざ危険な場所に連れて行かなければならないのだから。それとともにレフィーニアが酔狂で言っているわけではないこともわかる。両手はズボンのすそを固く握りしめていて、指先が白くなっている。彼女自身、強い恐怖を感じていると容易に推察できる仕草だ。

 だからこそ危険という理由では、彼女を説得することはできない。王女はそれを承知の上で同行させろと言っているからだ。レフィーニアを翻意させるには、アネッテが口にしたように神を説得して神託の内容を変えさせるしか方法はないだろう。そしてそんなことができるはずもない。ミエッカでなくとも天を仰ぎたくなる状況だった。

 

 レフィーニアの主張自体は、カエトスにとっては都合がいい。急遽変わったというイルミストリアの指示により、レフィーニア、ミエッカの両名とともに霊獣と戦わなければならないからだ。

 しかし無事に切り抜けられるかどうかはまた別の問題だ。カエトスの脳裏をよぎるのは、考えられる中での最悪の状況だ。

 それは、霊獣がカエトスの手に負えない強力な獣であり、かつ兵士たちの中に王女暗殺を目論む刺客が紛れ込んでいること。霊獣への対処に忙殺されているときに、味方と考えていた者に背中から撃たれでもしたら、果たして無事に乗り切ることができるだろうか。

 カエトスが思い悩んでいると、唐突にネイシスの思念が頭の中に響いた。


(カエトス、こうしたらどうだ?)

(妙案があるのか?)

(うむ。思ったんだが、お前一人で霊獣を殺してきたらどうだ? 王女の護衛はミエッカたちに任せれば、何かあっても何とかするだろう)

(確かにそれができればいいけど、その本はまた王女たちを危険な目に遭わせようとしてるかもしれない。それに一緒に戦えって出てるんだろう?)

(私もそれは考えた。だが戦いというのは実際に刃を交えることだけを指さないじゃないか。後方の支援だって当然戦いの範疇にあるはずだ。それと本の目論見が王女たちを危機にさらすことならもう達成されている。いまその場にいることと、島への道中でな。本の目的は、王女たちがお前を好くように仕向けることなんだから、あとはお前がその窮地から救い出せば解決する。そうは思わないか?)


 カエトスはネイシスの提案をじっと吟味してみた。

 正直なところ屁理屈のように聞こえなくもない。しかしそもそもイルミストリアが曖昧な指示を出しているのだから、受け取る側の解釈は人によって変わってくる。結局のところ何が正解なのかわからないのだ。

 ならばただ待つだけよりも、自分から動いた方がいい。少なくともそれでレフィーニアやミエッカたちを守ることができるのだ。


(……そうだな。よし、早速提案する)


 カエトスは決心して、いまだ押し問答を続けるミエッカとレフィーニアに話しかけようとした。そこへネイシスが緊迫した思念を送る。

 

(カエトス、無理にでもそうしなければならなくなった)

(どうした?)

(多分、これからナウリアが襲われる。姿を消している輩がこっちを見ているから、間違いない)


 カエトスの鼓動が一度跳ねた。すぐに詳細の確認をしようとするが、それは突如響き渡った轟音に遮られた。

 素早く目を向ける。音の方向は、兵士たちが列を成して渡っていた桟橋。そこに激しい水柱が上がっていた。

 豪雨のように振り注ぐ湖水を浴びる何かがそこにいた。

 鳥だ。

 全体の形状は、鷲などの猛禽類に酷似している。体は茶色の羽毛に覆われていて、頭にはぎょろりと周囲を窺う目と、先端が曲がった黄色いくちばしがある。

 ただそれがでかい。頭の位置が砦よりも高いところにあるのだ。


 カエトスたちの討伐対象である霊獣に間違いなかった。人間たちの気配を察知して、上空からの急降下攻撃を行ったのだ。その結果、ウルトス特有の激しい環境にも耐えられるように作られた石製の桟橋は、見るも無残に崩壊していた。

 

 凄まじい衝撃の余韻に波立つ湖に浸かりながら、霊獣は自身の力を誇示するように雄々しく屹立している。不意に霊獣は体を前に曲げると、自分の足元の湖に顔を突っ込んだ。ぐいっと持ち上げてくちばしを何度か開閉させながら真っ赤な何かを飲み込む。

 霊獣が急降下した場所は、兵士たちがいたはずの場所。いま霊獣が食ったのは、その攻撃を受けた兵士たちに違いなかった。


「近くにいる者は奴をそこに食い止めろっ! 残りは砦前の広場に向かえ! そこで迎え撃つ!」


 そう叫んだのは、崩落した桟橋の手前にいた指揮官バリオだ。

 桟橋上にはまだ百人近くの兵士がいた。霊獣の奇襲という衝撃に呑まれていた彼らは、号令のもと一斉に動き出した。霊獣に最も近い者が銃槍による銃撃を浴びせ、それ以外の者は岸壁に向かって跳躍する。足場の狭い桟橋上では、まともな反撃ができないため、まず態勢を整えることを優先させたのだ。

 カエトスの動揺を読み取ったのか、ネイシスが尋ねた。

 

(霊獣か?)

(ああ。せっかく助言をもらったのに、実行できそうにない)


 カエトスは剣を抜いて、霊獣を見据えた。乾いた破裂音と、硬い破砕音が立て続けにカエトスの耳を打つ。

 前者は銃弾の速度が音速を超えるときに発生すると言われている音で、銃弾の威力を知る目安となるものだ。

 後者は、霊獣の周囲で飛び散る火花とともに発生している。これは兵士たちの放った銃弾が、霊獣の作り出した動体減衰場に侵入し砕け散っている音だ。

 

 動体減衰場に触れた先端部分は、真っ先に運動エネルギーを奪われてその場で完全に停止する。一方、減衰場に触れていない部分はそのまま音速を超える速度で動き続ける。すると、同じ銃弾内で衝突が起きて砕け散ってしまう。このように火花が見えるということは、兵士たちの銃撃が完全に無効化されている証だった。


(……いけそうか?)

(何とかするさ)


 カエトスは決意を漲らせながら静かに答えた。これまで悩んでいたが、戦闘が始まった以上はそちらに集中する。そして何としてでもレフィーニアとミエッカを守り抜くのだ。

 

(死ぬなよ、カエトス)

(わかってる。すぐに片づけてそっちに行く)

「アネッテ、ヨハンナ、カエトス。殿下を守れ! 私が行く!」


 カエトスがネイシスとの会話を終えると同時にミエッカが号令を発した。レフィーニアをアネッテに預けて、腰の剣を抜き、ミュルスへの命令を口ずさむ。

 その瞬間、激しい銃撃を歯牙にもかけず食事に興じていた霊獣が大きく翼を打ち振るった。生じた突風で、桟橋上にいた兵士たちが薙ぎ倒され、湖面が激しく波立つ。

 霊獣はその一度の羽ばたきで浮き上がると、水面ぎりぎりを凄まじい速度で飛翔した。巨鳥が目指すのは輸送船。空中で体を反転させて、飛翔の勢いを緩めることなく船首付近に足から着地する。

 霊獣による激しい『乗船』により、船体が大きく上下左右に動揺し、桟橋と船とを結ぶ縄が音を立てて次々と引きちぎられた。甲板が跳ね上がり、積み込まれた木箱が次々と湖に落下する。中央付近にいたカエトスたちも空中に放り投げられそうになる。

 カエトスは咄嗟に剣を突き立てると同時に、慌てて右手を伸ばした。船縁を超えて湖に落ちそうになっていたレフィーニアの上着をつかんでぐいっと引き寄せる。甲板に突き立てた剣から意識を外すことなく、動揺収まらない甲板上で何とか体勢を維持した。

 ミエッカたちもカエトスと同じく剣や銃槍の先端を甲板に突き刺し、湖への落下を免れていた。その視線は一様に霊獣に向けられていて、同時に驚愕に歪む。

 

 霊獣は輸送船の船首付近に、強靭な鉤爪を食い込ませていた。間近で見ることでその巨大さがよりはっきりと伝わってくる。その体高は優に十ハルトース(約十二メートル)はあった。しかし彼女たちが顔色を変えたのはそれだけが理由ではない。

 霊獣が、船上に残っていた船員たちを巨大なくちばしで捕えては次々と飲み込んでいるのだ。断末魔の悲鳴を残しながら霊獣の体内に人が消えていく姿に戦慄を禁じ得ない。


「ミエッカ! 私たちは奴を引きつけながら下船する! お前はカエトスと殿下を!」


 アネッテはそう叫ぶと、突き刺した銃槍を引き抜き、まだ激しく揺れる甲板上を船首に向けて疾走した。

 

「ひえっ! たちって私のことなんですねっ!」

「他に誰がいるっ!」


 言葉はいまだに逃げ腰のヨハンナだったが、行動は戦士のそれだった。アネッテの檄を浴びながら、果敢に霊獣との距離を詰める。

 

 船員を十人以上丸呑みした霊獣の眼光が、足元に接近する二人の女戦士と、自身の周囲に飛び散る火花を捉えた。

 アネッテたちは接近しながら銃撃していたが、霊獣にはまるで届いていない。放たれた弾丸は、全て動体減衰場に侵入した瞬間に砕け散ってしまっている。巨鳥は全く意に介していない。ただ攻撃されたと認識したのか、それとも動くものを追う動物の習性からか、注意がアネッテたちに向けられた。

 次の瞬間、甲板が激しく陥没した。霊獣の攻撃だ。ミュルスに呼びかけて生み出した力を、空気に伝播させて砲弾のように撃ち出したのだ。

 鳴き声を上げることもなく何か行動したわけではないのに、一瞬のうちに力が発動している。これが霊獣の特徴だ。

 その性質が源霊に非常に近いため、源霊の力を最大限に引き出せる。人間の源霊使いのように音を出す必要もなく、ただ考えただけで源霊はその意思に応え、力を発揮する。しかもその威力は絶大。飛び散る木々の破片の合間に見える輸送船の甲板には大穴が開いていて、あと数回も攻撃されれば船底を貫通してしまうだろう。

 無論、人間が食らえば肉体は跡形もなく破壊されてしまう。しかしアネッテもヨハンナも並みの戦士ではなかった。霊獣の攻撃が炸裂する直前に、桟橋に向けて跳躍するのをカエトスの目は捉えていた。

 

 空中で銃撃を繰り返しながら桟橋に着地、回避行動を止めないまま攻撃し続ける。

 霊獣の注意は完全にアネッテたちに向いた。船上に屹立する巨鳥から、次々と不可視の砲弾が放たれる。桟橋があっという間に原型を留めないほどに破壊され、激しい水柱が何本も立ち上がる。

 

 凄まじい攻撃の嵐に、カエトスは二人を助けに行きたい衝動に駆られた。しかしそれをぐっと呑み込む。カエトスが守るべき人物はレフィーニアとミエッカなのだ。二人が作り出した隙を生かさなければならない。

 

「カエトス、船尾楼の陰に行くぞ。そこなら奴から見えない。そこから岸まで跳んで砦に殿下を連れて行く!」

「了解。殿下、しっかりつかまっていてください」


 カエトスはミエッカの命令に答えると、右腕に抱えたレフィーニアに声をかけた。王女が青ざめた顔で頷き、カエトスの首に腕を回す。

 

 ミエッカは腰を低くした姿勢で甲板の揺れを見極めながら船尾に向かった。カエトスも激しく飛び散った積み荷の合間を縫うようにして進む。

 その間に、左手に持った剣の柄を回転させて逆手に持ち替え、つい先刻待機状態にしていた源霊ミュルスに源霊術の実行命令を出す。内容は『右手の甲を起点として、全身を覆う盾状の動体減衰場を展開せよ』だ。ミュルスは速やかにそれに応えた。レフィーニアを抱えた右手甲の先に不可視の壁が出現したのが、肌に伝わってくる。

 

 現在地は右舷側で進行方向は船尾。右側に桟橋に接している左舷があり、霊獣の位置は右後方の船首付近。この減衰場で王女だけは死守できるはずだ。

 カエトスはレフィーニアの様子に細心の注意を払いながら、船尾楼と船縁との合間を通って船尾に抜けた。

 

「よし。砦に向かって跳ぶぞ。私が先に行くから、カエトスは後から──」


 立ち止まり振り返ったミエッカがそう言った瞬間、鋭い破砕音が炸裂した。大気が激しく振動し、船体が震える。それは続けて二度生じた。

 カエトスは即座に、たった今通り抜けた船尾楼と船縁の間に後退した。体を低くして右腕の中の王女に声をかける。

 

「二人とも、お怪我は?」

「だ、大丈夫」

「私も何ともない」

 

 カエトスの脇には、カエトスとほとんど同時に退避したミエッカがいた。船尾楼に体を預け短く答える。

 二人の報告にカエトスは心の底から安堵の息を漏らした。いまの瞬間、冗談ではなく心臓が止まったような気がした。完全に霊獣に意識が向いていた瞬間であり、予想外のことだった。

 

「い、今のは?」


 右腕に抱えるレフィーニアが震える声で尋ねる。

 何が起きたのか。それは──。

 

「狙撃だな?」

「おそらく」


 ミエッカがぎりぎりと歯を食いしばりながら押し殺した声で言った。怒りを必死に抑え込んでいることがはっきりとわかる。

 いまの破砕音は、カエトスが展開した動体遮断場に侵入した弾丸が砕け散った音。つまり、ミエッカの言う通り狙撃に違いなかった。しかも狙いはカエトスではなくレフィーニア。カエトスが盾状の減衰場を展開させていなかったら、弾丸は王女の胴体に命中していた。

 ミエッカの瞳が激情に爛々と輝きだす。


「場所はわかったか」

「着弾の位置からして、砦の辺りかと」


 カエトスは努めて冷静に答えた。ここでミエッカともども怒りに呑まれてはいけない。適切な判断ができなくなる。

 ミエッカが船尾楼の陰から顔を少しだけ出す。

 カエトスはミエッカに先んじて素早く右手を突き出した。盾状の減衰場は、右手甲を起点として展開されているため、右手とともに移動する。また減衰場は動いていない物体は素通りさせて形状を保つという性質もある。ゆえに身を隠している船尾楼の影響を受けずに減衰場は広がる。これで再び狙撃されてもミエッカは守れる。


「何か見えますか?」

「……見つけた。砦の屋上に陽炎みたいなのがある。きっとあれだ」


 ミエッカはそう言いながら剣をぎりっと握り締めた。

 

「どこで嗅ぎ付けたのか知らないが、こんなときにこそこそと卑劣な奴め。この手で焼き尽くしてやる……! カエトスはレフィを死守しろ!」


 憤怒に満ちた声でそう告げると、カエトスが止める間もなく船尾楼の陰から飛び出した。船縁を蹴ってほとんど平行に跳躍し、あっという間に姿を消してしまう。

 

 カエトスは後を追おうとした。危険なのはレフィーニアだけではない。ミエッカも命を狙われている可能性が高いのだ。しかし飛び出したそこはまさに戦場。そのようなところにレフィーニアを連れて行けない。かと言って、船上に王女を置き去りにすることなどできるはずがない。

 どうする。どうすればいい。

 カエトスが激しく迷っていると、レフィーニアが襟を鷲づかみにした。顔をぐっと近づけて、鮮緑の瞳で訴えかける。

 

「カエトス、姉さまを追って!」

「しかし──」

「私は荷物!」


 レフィーニアが、踏ん切りをつけられないカエトスの背中を全力で押す一言を放った。それはどんな扱いも危険も甘んじて受け入れるという決意であり、姉を助けたいという思いの発露だった。

 カエトスは腹を決めた。

 レフィーニアとミエッカの二人を守るには、ここでミエッカのもとに向かうしかない。

 

 カエトスは左手の剣を小さく翻すと、手中で柄を回転させて逆手に持ち替えた。出した指示は、動体減衰場の解除と行動補助の二つだ。

 

 カエトスの使う動体減衰場は非常に強力だが危険でもある。その中に人間が侵入すると血流や臓器の活動が停止して、最悪の場合死んでしまうからだ。ゆえに激しく動くことが予想され、かつ護衛すべき対象がいるときは、展開している減衰場に誤って侵入させないように解除しなければならない。カエトスがミエッカのもとに向かうのを躊躇ったのも、王女を連れたままでは守りに不安があるからだ。

 カエトスは剣を腰の鞘に納めた。レフィーニアの体を背負って、華奢な大腿部を抱え込む。


「殿下、足を離すときがあるかもしれません。私の首をへし折るつもりでしっかりつかまってください」


 レフィーニアはその指示通り、カエトスの首に後ろから両腕を回してぐっと力を込めた。非力な少女の力では、鍛えられたカエトスの首を窒息するほどに絞められないため、呼吸が苦しくなることはない。

 

「ではいきます」


 カエトスは王女にそう告げると、船尾楼の陰から躍り出た。ミエッカと同じように右舷側の船縁を蹴り、その反動で左舷へと跳躍する。その瞬間、凄まじい加速度がカエトスを襲う。ミュルスによる行動補助の効果だ。

 背中のレフィが小さく呻き声を上げ、カエトスの首に回した腕に力がこもる。訓練していない少女の体には過酷過ぎる負荷がかかっている。しかしいまは我慢してもらうしかない。

 輸送船から岸までの距離はおよそ五十ハルトース(約六十メートル)。カエトスはほぼ水平の軌道で、湖に落水することなく飛び越えた。体勢を整え足から着地。みしみしと骨が軋む音を聞きながら、再び地面を蹴った。地面を這うように跳躍しながら駆ける。

 霊獣によって破壊され、いままさに戦いの場となっている桟橋は右後方。ミエッカが向かった砦は、正面の石畳の広場を超えた先にある。その屋上にミエッカの姿があった。

 真横に伸ばした右手から、深紅の光が真っ直ぐに伸びている。おそらくは源霊リヤーラの力で刀身を気化された熱剣。しかもその長さは十ハルトース(約十二メートル)ほどに達している。

 それが凄まじい勢いで薙ぎ払われた。灼熱の刃は真っ赤な飛沫を撒き散らしながら二度三度と翻り、赤い残光を大気に描く。ミエッカは、姿が見えない敵を殺すために屋上全体を根こそぎ攻撃していた。


 並みの狙撃手ならば姿を消している優位性を生かし、向かって来るミエッカを屋上で迎え撃っただろう。そしていまの一撃で決着はついていた。しかし相手が一枚上手だった。

 熱剣を薙ぎ払ったミエッカの右肩口で火花が散った。僅かに遅れてカエトスの耳に硬質な破砕音が届く。

 

 ミエッカのような近接戦闘を主体とする戦士は、動体減衰場を展開しながら白兵戦を行う。その際使うのはカエトスが先刻用いた、体の一部を支点とする盾状の減衰場が一般的だ。

 これの性能をさらに向上させたものが、後頭部や背中、左右の手首や足首など複数の位置に支点を設けて、背面や側面を全体的に覆う減衰場だ。透明な外套を羽織るような形となるそれは、死角からの攻撃に対して非常に高い防御性能を有する。

 ミエッカが使っている減衰場は無論後者だ。それが攻撃を受けていた。

 火花が散っていることと破砕音からして間違いなく銃撃であり、方角は砦の右方にある丘からだ。砦との距離は百ハルトース以上(約百二十メートル)。狙撃手はミエッカが砦に突撃するまでの僅かな時間にそこまで移動し狙撃しているのだ。


 カエトスは心臓が凍り付くような恐怖に襲われた。

 ミエッカが展開する減衰場が盾状のものであったなら、最初の銃撃は直撃していたかもしれなかった。しかも銃撃は一度で終わらない。不可視の外套を手繰り寄せ、寒風から身を守るような姿勢で防御するミエッカの周囲でさらに火花が飛散する。それはカエトスが砦へ向かう一ヴァイン(約二秒)にも満たない間に、五つ以上炸裂していた。

 カエトスが恐怖を覚えたのはそれだけが原因ではない。危険な兆候があった。それは銃弾が弾けるときの火花が徐々に小さくなっていることだ。

 これは動体減衰場の防御能力が弱まっている証だ。

 

 動体減衰場は、内部に侵入した物体の運動エネルギーを奪い取って停止させる機能を持つ。十分な余力があれば弾丸は減衰場に先端が触れたその一瞬で完全に停止し、そこにまだ侵入していない部分が衝突することで弾丸自身が砕け散る。

 しかし動体減衰場の力が弱まると、侵入した弾丸が完全に停止するまでに時間がかかってしまう。すると減衰場に侵入する部分が増加し、その分奪取される運動エネルギーも増え、結果として弾丸内部で炸裂するエネルギーが減少する。こういった理由により、火花が小さくなるのだ。

 

 カエトスは砦のかなり手前で地面を蹴った。水平に近い軌道で跳躍し、屋上に着地する体勢を整える。その間にいかにしてミエッカを救出するかを急いで模索する。

 カエトスが取り得る手段は二つ。

 一つは、ミエッカを抱きかかえてそのまま逃げることだ。しかしミエッカは動体減衰場を展開しているためそれはできない。助けようと差し出した手を減衰場によって阻まれてしまうからだ。


 となると残るは、カエトス自身が減衰場を展開しつつ、射線に割り込んで銃撃から防御すること。問題は停止できるかだ。

 カエトスの移動速度は常人の十倍近くに達している。ゆえにミュルスの力を借りて、体に付与された運動エネルギーを奪取してもらわなければ、安全に止まることができない。しかし減衰場の展開命令と、運動エネルギー奪取の命令は同時に出せない。源霊を待機状態に置いているとはいえ、指示を出すための剣は一振りしかなく、二つの命令を行う時間的な余裕もない。よってカエトスが自力で停止するしかない。

 今のカエトスはレフィーニアを背負っていることもあって、体にかかる負担は普段以上。しかし無理でも何でもやるしかない。でなければミエッカが殺されてしまう。

 

 カエトスが迷い、決断するまでの時間は一瞬だった。カエトスは跳躍の最中に、レフィーニアを支える左手を離して剣を抜いていた。屋上に着地したときには柄の回転動作は終え、逆手に持ち替える動作に移っている。

 ミエッカまでの距離は二十ハルトース(約二十四メートル)強。背負っているレフィーニアに細心の注意を払いながら、銃撃の射線に割り込む最適な停止位置を見定めて、どのように体を捌くかを思い描く。

 その通りに動こうとしたした瞬間、カエトスは目を見開いた。

 ミエッカの右肩から血が飛び散っていた。

 彼女を傷つけたのは紛れもなく銃弾。ミエッカの減衰場が消失していた。立て続けに浴びた銃撃により、減衰場が奪取できる運動エネルギーの許容量を超えたのだ。

 次の銃撃はもう防げない。

 

 カエトスは即座に方針を変えた。減衰場の展開と射線への割り込みを中止。左手の剣を鞘に納め、空いた左手を王女の体に回して、自身の左体側に寄せる。

 ミエッカの背中が間近に迫る。次の銃撃はすぐに来る。

 カエトスは右腕に全神経を集中した。一切減速することなくミエッカに駆け寄り、腰に手を伸ばす。彼女に触れる瞬間、腕を後退させ、そして可能な限り滑らかに前方に押し出す。

 カエトスは常人を遥かに超える速度で走っている。そのまま抱え上げてしまうとミエッカの体にとてつもない衝撃が加わってしまうため、こうした繊細な配慮が必要不可欠。そして腕に伝わる感触からしておそらく上手くいった。

 最大の難関は乗り越えた。あとはミエッカの体を抱え上げ脱兎のごとく逃げるだけ。

 カエトスが逃走経路に目を向けたそのとき、カエトスとミエッカの間の僅かな空隙を何かが通過した。右脇腹がかっと熱くなる。

 カエトスはそれを無視して疾走する勢いのまま、砦の屋上から跳んだ。ほぼ水平の軌道を描いて、砦北側の広場に鋭角に着地。全身の骨格がみしみしと軋むのに耐え、両腕の姉妹たちに全神経を傾けながら石畳の上を滑って速度を殺すと、前方に見える岩陰に駆け込んだ。


「はぁっ……、はぁっ……!」


 カエトスは荒い呼吸を繰り返しながら、右腕に抱えたミエッカと背負っているレフィーニアを下ろした。左手で剣を抜き、素早く柄を回転させて逆手に持ち替える。自信を中心に球体状の動体減衰場を展開するようにミュルスに命じて、ようやく一息ついた。

 

 輸送船上で行動を開始してから、ここまでに要した時間は五ヴァイン(約十秒)足らず。その短い時間にカエトスの体にかかった負荷は凄まじいものだった。

 加速をミュルスの力に頼っているとはいえ、移動方向を制御するのはカエトス自身。酷使された全身の骨と筋肉が悲鳴を上げていた。

 強引に呼吸を抑えつけながらカエトスは尋ねた。

 

「二人ともお怪我はありませんか?」

「わ、わたしは大丈夫……!」


 短時間に凄まじい負荷を味わったにもかかわらず、レフィーニアは自分の足でしっかりと立っていた。しかしその体は小刻みに震えていて、顔は青ざめていた。王女の感じた恐怖がそれだけで痛いほど伝わってくる。

 

「私も……大丈夫だ。お前のおかげで助かった。だが……なぜ助けに来た! しかもレフィまで連れてきて……! 今は私のことなどどうでもいい。お前はレフィを守ることだけを考えてれば──」


 ミエッカはカエトスの襟をつかんで睨み付けた。感情が高ぶっているのか、レフィーニアを愛称で呼んでしまっている。が、その険しい眼差しが一転して怪訝なものに変わる。カエトスが顔を歪めたのに気づいたのだ。

 

「──どうした? どこか痛めたのか?」

「少し……やらかしました」


 カエトスは表情を変えまいと努力しながら、視線を下へと向けた。それを目にしたレフィーニアが口に手を当てて息を呑む。右脇腹に当てた手の隙間から赤い液体が滲み出していた。

 

「馬鹿者、それを早く言え……!」


 ミエッカは押し殺した怒声をぶつけると、すぐさま腰の後ろの短剣を抜いた。自分の制服の袖を切り落として細く裂き、即席の包帯を作る。


「弾が当たったのか?」

「いえ、鎧があったのと角度が浅かったおかげで直撃はしていません。ただ減衰場を解除していたので、傷が大きくなってしまいました」


 皮鎧には薄い鉄板が縫い込まれていて、前面と背面部を脇腹の紐で締めて固定するようになっている。

 ミエッカはその紐を緩めて、カエトスの頭から鎧を引き抜いた。続いて鮮血に染まった脇腹の衣服をナイフで切り裂く。露わになった真っ赤な傷口は僅かではあるが、肉が抉り取られたようになっていた。

 

「……だから私のことなんか放っておけばよかったんだ。私が助かってもお前が怪我をしたら何の意味もないじゃないか……!」


 ミエッカが怒りと後悔のないまぜになった声をぶつけながら、たったいま作った包帯をカエトスの腹にきつく巻いていく。彼女自身、感情に任せて行動したのを悔いている。それがひしひしと伝わってきた。

 そんなミエッカを見てカエトスは強く思った。やはり体を張ってよかったと。体は傷ついても心に力が漲っていく。

 

「意味ならあります。殿下の大切な家族が無事だったんですから」


 カエトスの一言に、姉妹はそろって辛そうに顔を歪めた。それぞれがカエトスの負傷について責任を感じていた。

 しかしそんな彼女たちの悔いる姿はカエトスをも責め立てる。そもそも元を辿れば、カエトス自身が姉妹を利用するために近づいたことが原因なのだ。この負傷はその報いのように思えてならなかった。

 カエトスは良心の呵責を振り払うように、現状を打破するための案を進言した。

 

「隊長殿。敵はすぐにでもやって来ます。霊獣がどう動くかも読めません。ですからお二人は砦に退避を。その間に私が敵を見つけて始末します」


 ミエッカは砦の東側から狙撃され、それを救出したカエトスは砦北側の岩陰に避難した。となると敵は十中八九砦の北東へと動くはず。それを踏まえた上でカエトスには敵を排除する案があった。これを実行する条件の一つが、砦に姉妹がそろって避難することだった。


「馬鹿っ、こんな傷で動き回って見ろ。血が足りなくなって死ぬぞっ! お前こそ砦に避難しろ。私がやる……!」


 包帯を縛り終えたミエッカは、カエトスの胸元をつかみながら睨み付ける。そこに込められた怒りの矛先はカエトスではなくミエッカ自身。己の不始末を取り返そうと躍起になっているのだ。

  

「お言葉ですが、隊長殿に姿を消している敵を見破る策はありますか? 無策のままではさっきの二の舞になってしまいます」


 カエトスは語気を強めてミエッカをたしなめるように言った。

 ミエッカの気持ちはわかる。カエトスを見る瞳からは、カエトスを案じる思いも伝わってくる。できることなら彼女の思い通りにさせたやりたい。だがいまは霊獣が暴れ回っている。狙撃者は十中八九霊獣のもたらす混乱に乗じるはずであり、そこを狙われたら今度こそミエッカは死ぬかもしれない。同時に二つの敵と戦わせるなどということは、絶対に認められなかった。

 ミエッカが悔しそうに唇を噛む。

 

「……ぐ。ならお前にはあるのか?」

「あります。ですから隊長殿は早く砦へ。敵が来てしまいます」


 カエトスは即答すると砦を指差した。姿を消している刺客は、いまこのときも王女やミエッカを銃撃しようと行動している。悠長に問答している暇はない。

 

「でも……!」


 ミエッカも当然事情は理解している。しかしそれでも首を縦には振らなかった。視線がカエトスの顔と脇腹の傷とを行ったり来たりする。カエトスを負傷させた原因が自分にあるということと、その負傷者を戦地に送っていいものかどうか迷っているのだ。

 押し問答する二人の間に小柄な影が割って入った。顔を青ざめさせて言葉を失っていたレフィーニアだ。


「姉さま、ちょっとどいて」

「レフィ、何をするの」

「いいから任せて」


 レフィーニアは、止めようとする姉の手を振り払い、カエトスの脇腹に右手を伸ばした。有無を言わせない口調に、カエトスも制止しようとした手を止めさせられる。

  

 血の滲む即席の包帯に王女の手が触れる。ずきんと一度大きな痛みがカエトスの体を走った。王女は顔をしかめるカエトスの様子にも気付かず、険しい表情のまま目を細めた。左の鮮緑の瞳が、はっきりとわかるほどの緑の光を放ち始める。そして何かが弾ける音が聞こえた。銃弾が破砕されるときよりもずっと低く小さいその音の源は王女の左手だった。

 レフィーニアが握り締めていた手をゆっくりと開く。そこには握り拳ほどの石があり、中心を貫く穴が開いていた。

 いったい何をしたのか。

 カエトスがそう問いかけるよりも早く、レフィーニアがカエトスの顔を見上げるように覗き込む。

 

「まだ痛い?」


 尋ねられてカエトスは気付いた。拍動ととも走っていた激痛がきれいさっぱりと消え去っていることに。

 

「……いえ、痛いどころか……傷が、ない……?」


 ミエッカによって巻かれた包帯を解き、脇腹に目を向ける。

 カエトスの感覚は正しかった。赤黒い傷口をさらしていなければならないはずのそこには血の跡しかなかった。

 

「殿下、いったい何を──」


 目を丸くしたミエッカの問いかけは、突如生じた地鳴りのような音にかき消された。何かが砕ける音と、大勢の悲鳴が響き渡る。

 

 カエトスは姉妹二人を背中に庇いながら音源へと目を向けた。方角は砦東側の広場。そこに石畳を踏み砕いて屹立する巨鳥の姿があり、その周囲が赤く染まっていた。

 

 カエトスの視界には五十人以上の兵士がいるが、その大半が地に伏しており、体が小さく見えた。なぜなら、彼らの足は例外なく大腿部から下を切断されていたからだ。地面を染めるのは彼らの体から流れ出た鮮血だった。

 

 兵士たちは、霊獣が桟橋に引きつけられている隙に包囲する準備を整えていたのだろう。そこに霊獣の奇襲を食らってしまったのだ。その攻撃の正体をカエトスはすぐに見抜いた。

 霊獣は兵士たちの只中に突撃すると同時に、全方位に向けて衝撃波を放ったのだ。地面すれすれを走ったその一撃は、兵士たちが展開していた動体減衰場を貫通し、彼らの足を容赦なく切り落とした。その影響はカエトスたちが身を隠す岩にも及んでいた。

 カエトスがミュルスに展開させた動体減衰場が防いではいたが、岩塊には水平方向の大きな裂け目が生じている。減衰場がなければ今ごろカエトスたちも兵士と同じように足を切断されていたことだろう。


 そして迫る脅威はそれだけに終わらなかった。

 一瞬のうちに出現した凄惨な光景にカエトスたちの目が引きつけられたその直後、激しい破砕音が耳をついた。反射的にミエッカがレフィーニアを抱き締めて、カエトスは二人を守るように素早く移動する。

 それは何度聞いても慣れない精神を削る音。動体減衰場に侵入しようとした弾丸が砕け散る音だ。その火花はカエトスの目にもはっきりと映った。

 

 カエトスの予測通り砦の北東付近からの狙撃だ。

 弾丸だけならカエトスの動体減衰場によって防ぎ続けられるだろう。しかし間近に霊獣がいる。あれの攻撃に巻き込まれたら、カエトスの減衰場であろうとも長くは耐えられない。そこを狙撃されたら非常に危険だ。

 

 「隊長殿、減衰場を展開してください! 私が減衰場を解除したら、殿下と砦へ!」


 カエトスは左手の剣を横に持ち上げながら、右手で砦を指差した。

 現在はカエトスが展開した球状の動体減衰場が周りを覆っている。これを解除しなければ攻撃を防げる一方で、内側からも外には出られない。


「その後、私以外の源霊術を全て封じて、奴を炙り出します!」


 姿を消すには光を司る源霊イルーシオの力を借りなければならない。それを見破る方法のひとつが、イルーシオの働きを停止させることだった。

 カエトスがやろうとしているのはイルーシオを含めた源霊の活動を止めることであり、ミエッカにはその意味は即座に伝わった。険しい表情でカエトスに詰め寄る。

 

「そんなことができるなら最初から──」

「ただし霊獣には効きません。封じるのは人間だけです!」

「何だと……!」

 

 絶句するミエッカ。やはり彼女は霊獣の力も封じてしまえばいいと考えた。しかしそれは不可能なのだ。

 霊獣は源霊に近い性質を持つ生物であり、源霊にとって霊獣は同族のようなもの。ゆえに霊獣の呼びかけに源霊は非常に強く応える。それは神の魂を宿した神鉄による強制力をもってしても阻止できない。

 カエトスが以前戦った霊獣にこの特徴があり、かなりの苦戦を強いられたのだ。

 

「敵の攻撃能力も奪い取りますが、隊長殿の減衰場も消えてしまうので十分に注意を。万が一のときはリヤーラを使って凌いでください。隊長殿のそれだけは封じ切れないはずなので。さあ早く!」

 

 源霊リヤーラに〝愛されし者〟であるミエッカは霊獣と同じくその魂が源霊に近いため、外からの影響に左右されないはずだった。

 

 いくつもの火花が飛び散り、否応なく体を緊張させる破砕音が立て続けに響く。

 カエトスの減衰場には絶え間なく銃撃が加えられていたが、その全ては遮断されていた。しかしいつ霊獣が来るかわかったものではない。


「……わかった。絶対に死ぬなよ。……ミュルスよ、汝が力で我が身を守れ!」


 必死に訴えかけるカエトスに、ミエッカが迷いを振り払うように頷いた。力強く源霊に命じながら、レフィーニアを両腕で抱え上げてカエトスに目配せする。


 カエトスはそれを合図に逆手に持った剣を手中で回転させ、順手に持ち替えた。壁一枚隔てたように不明瞭だった兵士たちの苦鳴がはっきりと届く。

 減衰場が解除されたその瞬間、ミエッカは地面を蹴っていた。凄まじい加速で疾走し、砦の直前で跳躍。後を追うように地面や砦の壁面に弾痕が生じたが見事に逃げ切り、そのまま屋上へと姿を消した。

 銃撃の痕からして、狙撃者の位置から砦屋上には射線が通っていない。当面ミエッカたちは安全であり、砦内部に退避することでそれはさらに強固なものになる。


 銃撃が止んだ。狙撃者が移動を開始したのだ。再びミエッカとレフィーニアを捕捉される前に決着をつける。

 ミエッカと同時に走り出していたカエトスは、姉妹が無事に砦に退避したのを見届けて、砦東側へと視線を移した。

 巨鳥は血の海でもがく兵士たちを、巨大なくちばしで一人ずつ食っているところだった。腕だけで必死に地面を這って逃げる者も容赦なく丸呑みしていく。

 

 兵士たちは戦いのつもりでこのウルトスに乗り込んできた。しかし霊獣にとってはただの食事であり、格好の餌がやって来た程度の認識でしかない。そう思わざるを得ないほどに彼我の力量差は圧倒的であり、霊獣には欠片も緊迫感がなかった。悠然と歩き回りながら、次々と兵士を食らっていく。

 その凄惨な光景が、レフィーニアとミエッカをひたすら案じるカエトスの心中にもう一つの激しい感情の炎を灯す。 

 霊獣は生きるために人間を喰っている。それは人が動物を殺して食うことと何ら変わりないことであり、自然の摂理でもある。それは理解しているが、同じ人間が食われる様はカエトスの内なる敵意を駆り立てる。理だろうが運命だろうが、あの霊獣は生かしてはおけないと強く決意させる。

 

 カエトスは走る勢いを弱めないまま、食事に興じる霊獣に接近した。左手の剣を回転させ逆手に持ち替え、左肘を脇腹に引き寄せる。それと同時に左足を踏み込み、気合いの声とともに右拳を突き出した。

 

「はぁっ!!」

 

 その瞬間、大気が震えた。急激な気圧の変化が周囲に突風を引き起こす。

 カエトスがミュルスに下した命令は『右拳が触れたものに力を与えよ』。ミュルスはそれを正確に実行し、カエトスの拳によって押し出された空気に膨大な運動エネルギーを付与した。

 力を受け取った大気が極大の砲弾と化して霊獣に襲いかかる。神鉄製の剣によって引き出されたミュルスの力は、ミエッカたちが避難した砦を半壊させるほどの威力を秘めていた。

 しかしそれほどの威力を持った攻撃に、霊獣は耐えた。巨鳥が纏っている動体減衰場が、カエトスの放った攻撃から大半の力を奪取したのだ。本体に届いたのは、全体の威力の一割にも満たないだろう。その結果、食事に夢中だった巨鳥は、大きく体をのけ反らせただけだった。

 だがカエトスの目的は達成された。

 頭上にある霊獣の鋭い眼光がぎょろりとカエトスを見下ろす。これまで悠然と人間を食っていた霊獣の気配に敵意が混じる。それはカエトスを餌ではなく敵と見なした証。

 霊獣は一度甲高い声で吠えると、地面を蹴って飛び立った。翼を大きく打ち振るい、凄まじい速度で上昇する。あっという間にその姿は遥か上空に消えた。

 

 これで霊獣の注意はカエトスに向いた。カエトスを殺すか食うかしない限り、他の人間には目を向けない。レフィーニアやミエッカ、そして兵士たちが直接霊獣の攻撃にさらされる危険は大きく減じた。それとともに霊獣が一度退いたことで、時間的な余裕ができた。いまこのときが刺客を見つけ出す絶好の機会。

 

 霊獣の攻撃を逃れた兵士たちが、血の海に横たわる兵士たちに駆け寄り、それを助けながら上空へと銃撃を行う。カエトスはそれを横目に素早く剣を舞わせた。

 鍔の穴位置は、五つ全てを開放した状態。命令はごく単純で文節は少ない。剣舞はすぐに完了した。

 順手に持っていた剣を逆手に持ち替える。源霊術発動の合図とともに、人間には聞こえない音の波が周囲に広がっていく。

 その直後兵士たちの挙動が一斉におかしくなった。銃槍の銃身や持ち手を叩いたり、弾丸が装填されているか確認したり、大声でミュルスの名を連呼する。彼らは霊獣の奇襲を受けたときと同じか、それ以上に慌てふためいていた。

 それも当然だろう。兵士たちの持つ銃槍は一つ残らず弾丸を射出しなくなり、彼らの身を守る動体減衰場も消え去ってしまったのだから。

 

 カエトスが源霊へ下した命令はただ一つ。『カエトス以外の言葉を無視せよ』だ。

 兵士たちの攻撃と防御はミュルスの力を借りて行っている。そのためミュルスが活動しなくなると、攻防どちらも完全に封じられてしまうのだ。つまり彼らはいまあらゆる脅威に対して無防備な状態にある。カエトスが霊獣を攻撃し、自身に注意を向けさせたのは、そんな彼らを守る意味もあった。

 

 カエトスは心中で謝罪しつつ、砦北部へと体を向けた。予想通りそれはいた。

 透明な体に塗料を塗りつけるかのように、手足や胴体、頭部が姿を現す。顔は覆面に覆われ目の部分しか見えないが、それ以外は兵士たちと同じく皮鎧に手甲と足甲を身に付け、手には銃槍を携えている。

 王女とミエッカを狙撃した刺客に違いなかった。

 カエトスの『命令無視』の指示は五つの源霊全てを対象にしていたため、源霊イルーシオも活動を停止し、透明化が解除されたのだ。その位置は砦と北東部の丘とを結ぶ直線上。

 刺客の狙いはレフィーニアとミエッカの命であることから、二人が砦に避難すればそこに向かうのは自明だ。そのうえ刺客は透明化していることに慢心し、複雑な経路を取ることもない。その読みは完璧に的中した。

 

「見つけたぞ……!」


 カエトスは刺客を睨み付けると地面を蹴った。踏み出すと同時にミュルスへ行動補助の命令は完了している。凄まじい加速に全身の骨格が軋んだ。それを筋力で完全に制御し、疾駆する。

 刺客は自身を襲った異常事態を把握しようと足を止めていた。覆面から覗く目が周囲に向けられる。それが猛速で接近するカエトスの姿を捉えた。

 刺客が退く素振りを見せた。しかし遅い。もう剣の間合いに入る。

 カエトスは石畳を砕く勢いで右足を踏み込んだ。疾走する速度を乗せた横薙ぎの斬撃を放つ。

 正体を探るためにも殺さずに捕える。ゆえに狙いは刺客の右腕。だが加減するのは、急所を狙わないというその一点のみ。ミュルスの力により加速された刃は、銃弾を超える速度に達している。腕の一本や二本、造作もなく切断する威力がそこにはあった。

 一方、刺客はカエトスの『命令無視』の影響でイルーシオだけではなくミュルスの恩恵にも与れない。これを無傷でやり過ごすのは至難の技。

 

 カエトスは欠片も慢心することなく、全力で剣を振り抜いた。金属同士が衝突する硬質な音が響く。

 次の瞬間、カエトスの予期しないことが起きた。

 刺客が吹き飛ばされたのだ。宙で体をひねって、両手足を使って着地する。その体は石畳の上を二十ハルトース(約二十四メートル)以上も滑って停止した。右腕がだらんと下がっている。カエトスの一撃を受けた結果の負傷だ。しかし腕は切断されておらず、おそらく骨も折れてはいない。

 

 刺客はカエトスの剣が衝突する寸前、腰の剣を左手で抜き、それとともに右手の銃槍を刃の軌道上にかざした。ただそれだけではカエトスの斬撃を防ぐことはできない。そこで刺客がとったのは、精妙に銃槍と剣とを操り、接触の瞬間僅かに後退させ、カエトスの斬撃の威力を殺すことだった。その結果、剣は叩き折られたものの、銃槍は銃身を歪ませながらも所持者を守った。

 

 まさかあの一撃を防御してのけるとは、想像以上の手練だった。強い警戒を喚起される。しかし源霊術を封じた今、カエトスの圧倒的優位は揺るがない。何かをさせる暇など与えずに行動不能にする。

 素早く方針を定めたカエトスは刺客を見据えた。覆面の隙間から覗く視線が右へと動いた。

 湖に背を向けて立つカエトスの現在地は砦の北東部付近。刺客の視線の先には丘がある。足にかかる荷重が微妙に変化した。刺客は撤退する気だ。


(させるか……!)


 カエトスがすぐさま追撃に移ろうとした。そのとき鋭い警告が耳に飛び込んできた。

 

「カエトス、後ろ上空!」


 声の主はアネッテ。

 カエトスは即座に振り返った。

 上空に飛び立った霊獣が、カエトスに向かって急降下してきていた。その前方の大気が歪んでいる。ミュルスの力を付与されたことで密度の差が生じているのだ。すなわち攻撃が繰り出されている。やはり霊獣には『命令無視』の効果が及んでいない。

 

 カエトスは一瞬で判断すると、横っ飛びに回避。その直後、石畳が鈍い音とともに激しく陥没した。破片がつぶてとなって飛び散る。巻き込まれていたら、ただの肉片に成り果てていたであろう凄まじい威力だ。

 視線を上空に転じたカエトスは目を見開いた。危機は去っていなかった。巨鳥の鉤爪が間近にまで迫っていた。

 いまの攻撃はただの牽制。それによりカエトスの回避行動を誘発するのが狙いだったのだ。

 カエトスの体には行動補助の効果がまだ残っている。そのため地面すれすれを高速で跳躍しているが、巨鳥の鉤爪はそれを完璧に捉えていた。胴体を貫かんと迫る。

 

 カエトスは横っ飛びの体勢のまま、無理やり剣を一閃させた。一瞬で銃弾並みの速度に達した刀身を、刃を立てずに巨鳥の鉤爪に叩きつける。凄まじい衝撃に剣を持った左腕をはじめ、肩や胴体がみしみしと軋む。その反動で跳躍方向が直角に変わった。

 鋭い爪が体をかすめる様を見届けながら、カエトスは霊獣の必殺の攻撃を辛うじてかわした。斬撃の反作用は凄まじく、たったいまカエトスが斬りつけた刺客のように十数ハルトースも飛んで、地面を転がる。その直後、大地が震えた。

 カエトスは体を丸めて受け身を取り、すぐさま起き上がった。襲いかかる突風と無数の石つぶてを掲げた腕で防御する。

 

 霊獣の巨躯が舞い上がった土煙に覆われる。巨鳥の鉤爪は、牽制の一撃など問題にならないほどの規模で地面を抉り取るように陥没させていた。それを睨み付けるカエトスの視界の片隅で何かが動く。

 

「ち……!」


 カエトスは舌打ちした。霊獣と対峙するカエトスを迂回するように疾走する刺客の姿があった。すでに岸壁に到達しており、そしていま湖に頭から飛び込んだ。

 すぐにでも追いかけたかった。しかしそれが許される状況ではない。

 霊獣の眼光がカエトスを見下ろしていた。人間とは異なる思考を持つ生物の、言葉よりも雄弁な意思がはっきりと伝わって来る。何が何でもカエトスを殺して食らうと。

 

 霊獣が大きく翼を打ち、舞い上がった土煙が吹き散らされた。再び飛ぶつもりだ。空に逃げられては一方的に攻撃されることになる。

 

「お前は逃がさない!」


 カエトスはすぐさま頭を切り替えると、左手の剣を手中で回転させ、逆手に持ち替えた。それと同時に右手を突き出す。

 巨鳥の羽ばたきが鈍くなり、みしりと何かが軋む音が響く。地面を抉る巨鳥の鉤爪がより深く地面に食い込み、まるで見えない手で押さえつけられているかのように体を屈める。

 

 カエトスが前もって霊獣拘束用に用意していた源霊術が効果を発揮したのだ。

 命じた源霊の名はマールカイス。それが司るものは引力であり、命令内容は『右手が指す領域の引力を増大させよ』だ。その結果、霊獣の体に普段の十倍以上の荷重がかかり、身動きが取れなくなったのだ。

 しかし霊獣はそれに抗っていた。鋭い眼光でカエトスを睨みつけると、くちばしを大きく開いて甲高い声で鳴く。

 次の瞬間、カエトスの周囲に暴風が荒れ狂った。

 巻き上げられた敷石がずたずたに切り裂かれて、あっという間に砂のように細かくなる。兵士たちの足を切断した大気の刃だ。その数は優に数百以上。竜巻の只中でさえここまで厳しくはないであろう猛威がカエトスを襲う。だがカエトスにその影響はなかった。切り刻まれた石片や砂粒は、カエトスを覆う球状の壁に阻まれて一粒たりとも侵入できずにいる。


 カエトスは霊獣が反撃に移ることを見越して、マールカイスに命令を出した直後に剣を翻し、ミュルスへ動体減衰場を展開するように命じていたのだ。

 こうして霊獣の動きを封じ、かつ鉄壁の防御を敷いたうえで反撃に移る。

 カエトスはそう頭に思い描き、事前準備を行っていた。その筋書きは一見上手くいくかのように見えた。しかし早くも破綻の兆候が表面化する。

 

 カエトスは歯を食いしばって痛みを噛み殺した。突き出した右腕に裂傷が走り、鮮血がぽたぽたと地面に落ちる。霊獣の攻撃が僅かだが動体減衰場を貫通していた。


 減衰場には耐久力があり、それは源霊にどれだけ強く命じられるかにかかっている。

 強力に命じるほどに、多くの運動エネルギーを奪い取って無効化できるわけであり、カエトスの持つ神鉄製の剣はその強制力が非常に強い。しかし霊獣が放つ攻撃は、カエトスの想像を超えていた。大気の刃の一つ一つが刺客による銃撃など問題にならないほどに強力であり、しかもそれが絶え間なく牙をむくのだ。カエトスの命によって供給されたミュルスの力を容易く削り取っていく。

 

 カエトスは左手の剣を休むことなく翻した。

 減衰場の展開命令を出し続け、常に上書きしなければすぐにでも打ち破られてしまう。仮に減衰場が消えてしまったなら、カエトスの体は敷石のように粉々に切り刻まれ、一瞬で血煙と化してしまうだろう。早急に霊獣を殺さなければならない。しかしその余裕がなかった。

 カエトスは霊獣を殺すための準備もしてあるが、防御に専念しているから拮抗しているのであって、それを停止し攻撃に移った瞬間、カエトスは大気の刃に切り刻まれてしまう。

 ここを乗り切るには外からの助けが必要だった。

 それは無論、カエトスによって源霊術を封じられている兵士たちではない。酷なようだが、その程度の源霊術では、封じられていようがいまいが霊獣を殺すことはできないからだ。

 それに該当しないはずの人物がここに一人だけいる。彼女ならば霊獣を殺せるはずだった。


 カエトスの周りで暴れ回る大気の刃は、さらに強さを増していた。徐々に減衰場の補強が追いつかなくなってくる。防御を突き抜けた大気の刃が、カエトスの腕や足に小さな裂傷を作り出し、鮮血を飛び散らせる。まだ軽傷だが、遠からずそれは手足を容易に切断する威力となるだろう。

 そう思った矢先、一際強い風が吹き込んできた。右上腕が切り裂かれる。今でになく深い傷だ。さらにずしんと大地が一度揺れた。巨鳥が屈めていた体を起こし、強靭な脚で地面を踏み鳴らしていた。体重が十倍以上に増大しているというのに、それに抗っている。マールカイスによる拘束にも限界が近づいていた。

 

(間に合わないか……!)


 拮抗状態が打ち破られるのは時間の問題だった。残る手段は、一か八か防御をやめて打って出ること。そしてその一撃で片を付ける。勝算は限りなく低いが、それ以外に生き残る術がない。

 カエトスは覚悟を決めた。最後の減衰場の上書きを命じ、攻撃命令を出すべく鍔の穴位置を素早く変更。意を決して刀身を翻す。

 しかしその動作が終わる直前、劇的な変化が起きた。

 荒れ狂っていた暴風が唐突に止んだのだ。

 大気に弄ばれていた無数の石片や砂粒が音もなく落下し、時が停止したかのような静寂が訪れる。

 数瞬前まで生気に漲っていた霊獣の目からは、完全に光が消え失せていた。巨躯がゆっくりと傾斜して地面に倒れる。


 霊獣の体は頭頂部から真っ二つに分断され、それが左右に分かれて倒れていた。無残にさらされている切断面は黒く、血は一滴も流れていない。

 それを実行した張本人が霊獣の背後にいた。

 ミエッカだ。

 右手を突き出した姿勢で、背中にレフィーニアを庇っている。その手には一見何もない。しかしよく見れば、右手の先から大気を激しく揺らめかせる何かが伸びているのがわかる。

 これは剣だ。ミエッカは熱を司る源霊リヤーラに命じて、熱そのものを凝縮させた剣を作り出し、それをもって霊獣の巨躯を一刀のもとに切り伏せたのだ。

 

 動体減衰場の機能は、侵入した物体が持つ運動エネルギーを奪取すること。

 鉄を気化させた熱剣ならば防がれただろうが、ミエッカの剣は熱そのものであるため、減衰場を透過して霊獣を攻撃できたのだ。霊獣の切断面が黒いのは、肉体が蒸発するほどの高熱にさらされた結果だった。

 

 あれがミエッカの本気なのだろう。

 不可視の剣の周囲に陽炎が見えるということは、熱が外部に漏れているということ。鉄を気化させるほどの熱を生み出し、完璧に制御するミエッカですら抑えられらないほどの熱量があれには内包されているのだ。

 決闘のときにこれを使わなかったのは、周囲への影響を考慮してのこと。

 その事実を突き付けられ、カエトスは戦慄するとともに心の底から安堵した。ミエッカの力を向けられるのが自分ではなかったことを。そしてカエトスの願い通り霊獣を屠ってくれたことに。


 カエトスは大きく息を吐くと、左手の中で剣を回転させた。順手に持ち替えて、ここまでに出していた源霊への指示を解除し、待機状態へと戻す。

 

 危機は乗り越えた。刺客は逃がしてしまったが、レフィーニアとミエッカは無事だ。最低限の目的を成し遂げた達成感から、体の力が抜けそうになる。だがまだだ。まだ終わりではない。


 唐突に訪れた霊獣の死に、茫然と突っ立っていた兵士たちの間から徐々に歓喜の声が上がる。それはほどなく大気を震わせる勝鬨となった。ただそれも束の間、すぐさま負傷者の救助を求める怒声へと変わった。動ける者が一丸となって、手当に向かう。

 

「カエトス!」


 兵士たちが慌ただしく動き出す中、姉妹の声がカエトスの耳に飛び込んできた。

 ミエッカは不可視の剣を投げ捨てるように右手を振り払いながら、左右に分断された霊獣の死体を乗り越えてカエトスのもとに駆け寄って来た。姉に手を引かれるレフィーニアともども笑みを浮かべている。


「よくやった。まさか一人で霊獣を足止めできるとは思っていなかったぞ。あの刺客もよく撃退した。あとは奴を捕まえれば重要な証拠も手に入る。カエトスはここで少し休んで──」

 

 カエトスは言葉を遮るようにミエッカの腕を取った。湖へと駆け出そうとする彼女を桟橋へと誘導しながら速足で歩き出す。

 

「隊長殿、すぐに港に戻ります。刺客の追跡は別の誰かに任せて、ネルヴェンの用意をお願いします」

「どうした? 何をそんなに焦っている?」

「霊獣と交戦する直前に、ネイシスから侍女長殿に危険が迫っているとの連絡がありました。ネイシスが凌いでいますが非常に危ないようです。すぐに行かなければ……!」


 怪訝そうに眉を寄せていたミエッカの顔色が変わった。達成感を覗かせていた表情が緊張に引き締まる。

 姉の隣りを歩くレフィーニアが身を乗り出すようにしてカエトスを問い詰める。

 

「何で姉さまが?」

「……詳細は不明です。ただ、侍女長殿は港にいるのですが、どうやら透明化している者が近づいてきているようです」

「透明というと、まさか──」


 ミエッカとレフィーニアの表情が一変する。

 神殿の禊の間で王女を殺そうとした者は、イルーシオの力で姿を消していた。そしてたった今、ここウルトスで姉妹を狙撃した者もそうだった。その事実が、王女たちを不吉な答えに導く。


「いま撃退した刺客と関係があるかもしれません」


 カエトスはあくまでも推論という意味合いを滲ませながら頷いた。

 だが無関係という可能性は限りなく低い。ナウリアには命を狙われる理由がある。それはレフィーニアの姉妹だからというわけではなく、自分が関係しているとカエトスは思い至っていた。しかしその理由は絶対に口にできない。カエトスの真の目的にかかわることだからだ。


 再び戦いに臨む戦士の顔に戻ったミエッカが、レフィーニアの手を取りおんぶした。ミュルスの名を呼び、そのまま戦闘時に匹敵する速度で走り出す。カエトスもそれに遅れまいと、抜身のままだった剣を翻し、ミュルスによる行動補助を命じた。

 

 カエトスとミエッカが兵士たちの合間を縫うように疾走していると、そこにアネッテがやって来た。並走しながら尋ねる。

 

「ミエッカ、何かあったのか?」

「私たちは先に港に戻る。アネッテはさっき湖に飛び込んだ奴の追跡を頼む」

「……わかった。ヨハンナ、ネルヴェンを準備しろ!」


 ミエッカの緊迫した口調から緊急の事情があると察したのだろう。アネッテはすぐに頷くと輸送船に向かって叫んだ。

 目を向けると、湖の中から輸送船脇の桟橋に這い上がろうとしている人影がいた。ヨハンナだ。どうやら霊獣との戦闘中に湖に落下してしまったらしい。

 ヨハンナは疾駆するカエトスたちの姿を認めると、犬のようにぶるんと体を震わせて水を振り落とした。そのまま輸送船の舷梯を駆け上がって行く。

 

 カエトスたちは、霊獣によって破壊された桟橋を飛び越え、さらに走って跳躍、舷梯を使わずに輸送船に直接乗り込んだ。

 着地した甲板上には、霊獣に『乗船』された傷跡が生々しく残っていた。甲板にはいくつもの大穴が開き、船倉が丸見えだ。

 その穴からヨハンナが姿を現した。軽い身のこなしで跳び上がり、甲板上に降り立つ。肩には折りたたまれた巨大な傘のようなものを担いでいる。船倉に積んでいたネルヴェンだ。王都に残る予定だったレフィーニアに万が一のことがあったときに備えて、ミエッカが船に積むように指示を出していたものだ。


 ヨハンナが甲板にネルヴェンを置くと、アネッテとともにたたまれた翼を手早く展開した。鉄製の骨組みにつけられた縄を引っ張って翼をぴんと張り、中空の鉄管で作られた三角形の持ち手を翼下面に取り付ける。霊獣の攻撃で破損はしていないようだった。

 カエトスは焦る心を抑えながら、ミエッカに背負われたレフィーニアに尋ねた。


「殿下。霊獣を討伐した以上、ここに留まる意味はないということでよろしいですね?」

「うん、大丈夫よ。二人を助けられたし、あとはナウリア姉さまが無事でいてくれれば……」


 王女はそう言って唇を噛んだ。ミエッカも険しい表情で押し黙っている。肉親に危機が迫っているのだ。彼女たちが抱く焦燥はカエトスの比ではないだろう。

 

「ミエッカ、いいぞ。私はあれの追跡に移る」

「頼む。あれは透明になるから気を付けろ」


 組み立て終えたネルヴェンの持ち手を渡すアネッテに、ミエッカは短く答えた。多くを語らないそのやり取りに、二人の間にある強い信頼が垣間見える。

 アネッテは頷くと、ヨハンナについて来いと告げながら踵を返した。甲板上には緊急時の脱出に用いる小型艇がいくつか設置されている。それを使って刺客の捜索に臨むつもりのようだ。


「レフィはそのまましっかり私につかまって、カエトスは私の隣りを持て。安全帯は一人分しかないから落ちるなよ」

「了解しました」


 ミエッカは指示を出しながら、翼面下部の骨組みから伸びている革製の帯を手に取った。妹と一緒に自分の腰に結びつける。 

 安全帯の役目は、誤って持ち手を離してしまったときや、突発的な事故時にネルヴェンと乗り手とが切り離されないようにするためのもので、ミエッカの言う通り一本しかない。しかし仮に落ちてもカエトスならミュルスの力を借りれば何とか対処できる。

 ミエッカはカエトスが持ち手をつかむのを待って、ネルヴェンの先端を斜め上方に向けた。


「じゃあ行くぞ。……ミュルスよ、汝が力、我が体に宿せ!」


 源霊へ命じると同時にミエッカが甲板を蹴った。その瞬間、凄まじい加速度がカエトスを襲った。安全帯のないカエトスは、両手の握力だけでそれに耐えなければならなかった。持ち手にぶら下がるような格好になりながらも、何とか振り落とされずに留まる。

 

 加速が収まったとき、カエトスたちは上空四十ハルトース(約四十八メートル)ほどのところにいた。

 眼下には慌ただしく動き回る兵士たちと、桟橋に停泊する輸送船、そして広大なビルター湖が陽光を反射してきらきらと輝いている。

 

「ミュルスよ、我らを守りつつ、さらに加速しろっ!」


 ミエッカは巧みにネルヴェンと己の体を操り、垂直に近かった姿勢を水平に戻しながらさらに命じた。緩まった速度が再びみるみると上昇し、景色が凄まじい速さで後ろに過ぎ去っていく。

 ただ、速度に対してカエトスたちが受ける風圧は驚くほど弱かった。呼吸が苦しくなることはないし、寒さに凍えるようなこともない。風に振り落とされそうにもならない。

 これはミエッカに命じられたミュルスが、ネルヴェンの進行方向にある空気に力を付与することで気流を制御しているためだ。


 霊獣との戦闘直前に会話を交わして以降、ネイシスからの呼びかけはない。それが霊獣との戦闘に挑むカエトスを気遣ってのことならいい。しかしネイシスのほうに余裕がないことも当然考えられる。その場合、事態は極めて深刻だ。

 カエトスは無事であってくれと祈りながら、ネイシスの名を呼んだ。

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