第10話 陰謀の片鱗

 広大な土地に幾つもの建物が立ち並ぶ兵部省の敷地を、カエトスはアネッテに先導されて歩いていた。

 兵部省内には、カエトスが所属することになった親衛隊ヴァルスティン以外にも王子付きの親衛隊であるイーグレベットや、王都を防衛する近衛軍団といった部隊があり、ここには彼らのための宿舎や武器庫、事務的な業務を行う兵部省本庁舎、演習場などが併設されている。昨日ミエッカたちとの決闘を行った練武場もその一つだ。

 

 それらの合間を通る石畳を歩いていると、緑や赤を基調とした制服姿の男たちと何度もすれ違う。中務省内部ではゆったりとしたローブを着用する者が目立ったが、ここ兵部省では体にぴったりとした制服を着ている者がほとんどだ。彼らは兵部省に所属する兵士なのだろう。だから動きにくい服装は好まれないというわけだ。

 また昨日今日と観察してわかったのだが、服の色が違うのは、それを着る者の大まかな地位を表しているらしい。紫や黒、白が最も高貴な色で、その後に青、赤、緑と順次下がっているようだ。人間関係を築く上で社会的地位の把握は重要だ。この辺りの情報も適宜収集しておいたほうがいいだろう。

 

 カエトスが注意深く観察しながら進むことしばらく、親衛隊ヴァルスティンの宿舎に着いた。

 一階部分に隊の運営管理を行う事務所や食堂、浴室があり、二階に隊員の個室という構造だ。カエトスが昨晩寝泊まりした物置も二階にある。

 宿舎前には円形の広場があり、それに面してもう一つ建物があった。大きさは宿舎と同じ程度だが、二階に当たる部分に窓がない。

 

 アネッテは入口の鉄扉に近づき、上着のポケット取り出した鍵を鍵穴に差し込んで回した。がちんという短い金属音の後、扉を押し開く。

 

「こっちだ」


 アネッテに促されてカエトスは建物内部に足を踏み入れた。天井の採光用の窓から光が差し込んでいるものの、中は薄暗かった。


「ここは武器庫ですか?」

「そうだ。いつでも使えるように武具一式を保管してある」

 

 カエトスはゆっくりと視線を走らせた。

 左の壁には紺色に染められた鎧や小手などの防具が、右の壁には鉄の棒に木製の柄と短い刃を取り付けた槍のような武器が何本も立てかけられていた。

 この細長い武器の名は銃槍だ。鉄棒の内部は中空になっていて、そこに鋼鉄の弾丸を装填しミュルスの力を使って射出する。材質や投射する物体は異なるものの、仕組みとしては吹き矢とほとんど同じだ。その一方でこれ自体を槍のようにも用いたりする。先端部分に取り付けられた刃はそのためのものであり、それが銃槍という名の由来にもなっている。

 

「これを一つ外に持っていけ」


 武器庫の中央にはカエトスの背丈よりも長い円筒状の何かが、鉄製の支持台に向かい合わせに並べられていた。アネッテが指差したのはそのうちの一つだ。

 カエトスは指示に従いそれを一つ持ちあげた。形状としては巨大な傘に近いだろうか。折りたたまれ丸められた布が数本の帯によって固定されている。それなりに重いが二、三個持ったとしてもふらつくことはない程度だ。

 肩に担いで日差しに照らされる広場に持ち出すと、アネッテがそれを受け取り帯を解きながら手際よく布を展開させていく。そこに現れたのは鉄の骨組みと布からなる扇形の物体だった。

 

「これはネルヴェンという道具だが、知っているか?」

「はい。翼で空気を受け止めながら、鳥のように空を飛ぶことができる道具ですね」

 

 いまは分解されているが、本来は翼下面に三角形の骨組みが取り付けられ、そこを人間がつかんで操作する仕組みになっている。また展開した翼が緩まないように鋼線を使って固定するのだが、いまはそれも外されている。

 カエトス自身はこのネルヴェンに乗ったことはないが、空を飛んでいる姿なら何度か目撃したことがあった。

 カエトスの答えにアネッテは小さく頷いた。


「そうだ。お前には、これからヨハンナとともに昨日の訓練で使用したものを掃除してもらう。完了したらこちらに回せ。損傷がないかを私が点検する。それでは始め」

「私は水を持ってきますから、カエトスさんは目に付いた汚れを落としててください。はい、これが雑巾です」


 アネッテの開始の指示とともにヨハンナが声をかけてきた。

 カエトスに雑巾を手渡し、自身は取っ手のついた木製の桶を持って宿舎の裏手へ消えると、ほどなく水で一杯になった桶とともに戻って来て清掃作業に合流する。

 

 カエトスは早速ネルヴェンの骨組みや翼についた泥や草の切れ端などを雑巾で落とし始めた。

 手を動かしながらも脳裏をよぎるのは、アネッテ、ヨハンナの二人との良好な関係を築けという、イルミストリアの指示だ。とにもかくにも会話をしなければ何も始まらない。そして二人がどのようなことに興味があるのかを探らなければ。

 カエトスはそう決意すると、隣りで同じように作業を始めたヨハンナに声をかけた。


「お二人はこれは使えるんですか?」

「もちろんです。ネルヴェンに乗れるのが親衛隊の条件ですから」


 カエトスの問いに反応したのはヨハンナだ。カエトスに顔を向けた拍子に、昨日と同じように結い上げられた癖のある黒髪が揺れる。その声音にはカエトスを警戒しているような素振りはなく、自身の技能や立場を自慢するような響きがあった。これなら上手く持ち上げることで話を広げられるかもしれない。

 カエトスはまず相手をヨハンナに絞って尋ねた。


「なるほど、それはすごい。どうやって乗るのか教えてもらえますか? 私は飛んでいる姿しか見たことがないんですよ」


 意図的に尊敬の念を込めて話しかけると、ヨハンナの顔にまんざらでもない表情が浮かぶ。

 

「え~? 聞きたいです? しょうがないですねぇ。えっとですね、この翼の下に、武器庫のあそこにある三角形の骨組みを取り付けて、そこをつかみます。そして腰に専用の帯をつけて、この中心の骨組みとを結んで、空に向かって跳び上がれば、あとはすい~っと滑るように──」

「ヨハンナ。口よりも手を動かすように」

「はいっ」


 身振り手振りを交えて話すヨハンナを、アネッテの静かな一言が制した。一度直立の姿勢で硬直したヨハンナはすぐに清掃を再開する。

 

「……申し訳ない。私のせいで叱られてしまった」

「本当にそうですねっ。昨日、私に階段上りで勝っちゃうし、そのせいで掃除はさせられるし、いい迷惑です」

 

 カエトスが小声で謝罪すると、ヨハンナは頬を膨らませながらぷいっと顔を背けてしまった。そこへネイシスが冷静極まりない声で指摘する。

 

(カエトス、友好関係を築くどころか、機嫌を損ねてないか?)


 ちなみにネイシスは清掃を始めた直後から、カエトスの右肩には座っていない。おそらく空中に浮いたまま清掃作業を見物しているのだろう。

 カエトスは返事に詰まりながらもなんとか答えた。

 

(……つ、次の試練までの時間は?)

(あと一エルト(約二時間)ほどだ)

 

 今朝の段階で本に記されていた記述は四つ。

 一つはアネッテ、ヨハンナとの友好関係を築けというもので、二つめは王女の指示に従えというもの。ミエッカからの指示をナウリア同行のもとに完遂せよという記述は、時系列的には四つめにあたるもので、その前に三つめの記述があるのだ。カエトスがネイシスに時間を尋ねた試練は、この三つめのことだ。

 その内容は『大陸暦二七〇七年五月十四日、五エルト二十九ルフス(午前十一時頃)の刻、王城アレスノイツ兵部省敷地内において訪れる危機を回避し、リミエース・リューリとラスクを救出せよ』となっていた。

 例のごとく、どういった状況下で助け出すのか、その結果何が起きるのか、詳細は一切不明だった。


(この文脈からすると、お前が危機に見舞われて、そこにこのリューリとラスクの二人が居合わせるようだな)

(やっぱりそういう受け取り方しかできないよな。実は俺とその二人が全然無関係とか言われたらお手上げだし)


 仮にカエトスを襲う危機と、リューリとラスクという二人が遭遇する危機が別物だとした場合、カエトスは自分の安全を確保しつつ、どこにいるかもわからない二人を救わなければならないということになる。

 懸念を伝えるカエトスに対し、本に目を通していると思しきネイシスが苛立たし気な思念を送ってきた。


(そこまで滅茶苦茶な記述はさすがに出てこないだろう。しかし相手は底意地の悪い神だから、何があるかわからん。万全を期すためにも、この二人を事前に探しておくべきだな。ちなみにこの二つは女の名前か?)

(リューリは多分女だ。ただ二人目が男でも女でもありそうだ。名字がないから、自分の生まれがわからない人間かもしれない)

(なるほどな。では私はこの辺りの人間の話を盗み聞きしてきてやろう。手がかりがあるかもしれん。お前は時間までに、この仕事を抜け出す準備をしておけ)

(すまん、助かる)


 本当に神なのかと疑うほどに献身的なネイシスに感謝の念を送りつつ、カエトスはアネッテとヨハンナの二人を盗み見た。

 イルミストリアに記載された時刻までに清掃作業を抜け出し、調査する時間を確保しなければならない。そのためには、アネッテやヨハンナとの会話が必要だった。少しでも気を許してくれれば、動きやすくなるはずだからだ。

 しかし、この二人とは昨日出会ったばかりで、彼女たちの性格や好みなどほとんどわからない。しかもカエトスは、二人が所属する親衛隊ヴァルスティンの隊長であるミエッカを、事情があったとはいえ侮辱するような真似までしている。きっと否定的な印象が強いことだろう。たった今ヨハンナに話しかけて失敗したのも、それが少なからず影響しているはずだ。

 彼女たちはどういったことに興味を示すのか。特にヨハンナの上司であるアネッテが食いついてくる話題を見つけられれば展望が開ける。糸口を見つけるためにカエトスは思いつく話題を振ってみた。

 

「お二人は霊獣討伐に参加するんですか?」

「……我々は近衛軍の中でも精鋭なのだから当然参加する。全員ではないがな。なぜそんなことを聞く?」


 ネルヴェンの骨組みと布とを結ぶ紐を点検しているアネッテがちらりとカエトスを見た。言外に、どこでそれを知ったのかという誰何の響きがある。


「実は、今日行われる追加の人員の選抜試験を受けるようにと仰せつかったんです。そこで、お二人が試験を受けられているのなら、参考にさせてもらおうかと思いまして」

「ええ? 試験に参加するんですか?」

「はい。王女殿下直々のお達しです」


 カエトスの返答に、アネッテではなくヨハンナが食いついてきた。素朴な愛嬌のある瞳が抑えきれない好奇心に輝きだす。


「あなた、何者なんですか? 昨日の今日で殿下にこんなにお声をかけられてる人なんて初めて見ました。いきなり親衛隊に配属されるなんてことにもなりましたし……あなた、貴族じゃないですよね?」

「たしかにこの国の貴族という定義には該当はしませんが、広義では一応貴族の範疇かと。西のリタームという土地を治める領主の一族なので」

 

 他国で貴族といえば絶対的な権力を振るう特権階級とされるが、ここシルベリアでは若干意味合いが異なる。この国での貴族とは、国王に仕え国家に関わる職務を遂行する官僚を指すのだ。ゆえにどこにでもいそうな町娘のようなヨハンナも貴族の一員ということになる。

 一方のカエトスは、広くはなかったものの領地を所有する領主の一族。シルベリア以外の国では、むしろカエトスのほうが正式な貴族と言えるだろう。

 

「そうなんですか? 言われてみれば、物腰なんかがそんな風に見えてきますね。それが殿下のお目に止まった理由なんですか?」

「それは殿下に直接伺ってみないことには……」


 顔を覗き込むようにしてぐいぐいと迫るヨハンナの質問を、カエトスは適当にはぐらかした。まさか結婚相手として目を付けられたから、などとは口が裂けても言えない。


「じゃあじゃあ、なんでシルベリアに来たんです? 勘当されたとか?」

「ヨハンナ、手。見習いはちゃんと手を動かしているぞ」

「は、はいっ」


 アネッテにたしなめられたヨハンナが、完全に止まっていた手を再び動かし始める。

 会話の流れが断ち切られてしまった。しかし感触は悪くない。カエトスはそう判断し、試験に関する話題を再度振ろうと試みた。すると、先にアネッテがおもむろに切り出した。

 

「試験のことだが、我々の話は参考にはならないぞ。我々は攻撃能力を調べる試験を行ったが、今回は防御能力に優れる人間を選ぶためのものだから内容が違う。教えられるのはミュルスを使うということくらいのものだ」

「……なるほど。防御にミュルスですか」


 アネッテの説明は端的なものではあったが、それだけでもカエトスは試験内容を概ね予測できた。

 一般的に源霊による攻撃というのは、源霊が生み出した力を対象に付与することで行う。一方防御は、対象が保持している力を、源霊の能力で奪ったり方向を逸らすことになる。

 例えばミュルスによる攻撃であれば、ミュルスが生み出した運動エネルギーを物体に付与してそれを高速で撃ち出すといった方法などがとられ、防御なら撃ち出された物体が持つ運動エネルギーを奪うなどして威力を殺すというわけだ。


「まあ、お前は防御が得意のようだ。どんな内容であっても合格するのではないか? あのとき何をしたのか、私にはわからなかったがな」


 アネッテはネルヴェンを点検する手を休め、カエトスにじっと視線を注ぐ。〝あのとき〟とは、昨日のミエッカたちとの決闘を指しているとカエトスはすぐにわかった。

 彼女の眼差しは相変わらず凪いだ水面のように静謐なままであり、はっきりとした感情は表れてはいない。だがほのかに敵意のようなものが滲んでいる。そしてそれ以外の感情も。

 

「気になりますか?」


 カエトスは一歩間違えば煽っているようにも聞こえる問いを敢えて放った。

 アネッテが負けず嫌いな性格であれば、カエトスの問いを即座に否定して会話を打ち切ることだろう。しかしカエトスはそうはならないと見た。わざわざ雑談相手を買って出たことから、アネッテはカエトスに対して敵意と同等かそれ以上の興味を抱いているに違いない。そしてその見立ては的中した。

 

「気にならないわけがない。ミエッカの熱剣を剣で折る奴など初めて見た。剣撃を素手で止める奴もな。模擬剣といえども刃がないだけであれは鉄の塊。しかも相手は親衛隊イーグレベットの隊長だ。素手で止めて無傷なんてあり得ない。ミエッカの熱剣も、源霊の力を使わずに折れるはずがない」

 

 はっきりと口にはしないものの、アネッテの静かな眼差しと語調からしてこれは明らかに詰問だった。つまり決闘のときに何をしたのか答えろと言っているのだ。

 ここでアネッテを満足させる答えを提供できれば、良好な関係を築く足掛かりになるだろう。ただ問題は何をどこまで教えるかだ。


(エンジエンテの手掛かりだけ与えたらどうだ? まるまる教えたあとで、こいつらに敵に回られては困るからな)

(……だな。あと俺も一つ思いついた。これならまた話も膨らませられるはず)


 付近の探索に行っているネイシスの声に答えながら、カエトスはアネッテに一つ頷いて見せた。


「わかりました、お教えしましょう。ただ全てを洗いざらい明かすというのは、どうか容赦いただきたい。これは王女殿下にだけお伝えするという約束でしたので。その代わりに手掛かりをお渡しします」


 カエトスはアネッテを刺激しないようにゆっくりと腰の剣を抜くと、刃を持って柄を差し出した。


「この剣が隊長殿の剣を折った手掛かりです。しばらく預けますから自由に見てください。昨晩のうちに色々調べたかもしれませんが」

「……ここに手掛かりが」


 アネッテは呟きながら受け取った剣を宙にかざした。刀身を人差し指で慎重になぞりながらじっと目を凝らす。


「よかったら、ヨハンナ殿もどうぞ」

「え? いいの?」

「はい。掃除は見習いの私がやっておきますから」


 ヨハンナが驚いたような声を上げた。彼女はネルヴェンの掃除をしながら、何度もアネッテをちらちらと盗み見ていたのだ。

 カエトスに促されたヨハンナは、剣を宙にかざすアネッテを上目遣いに窺った。その目は無言でありながら強く訴えかけていた。自分にも見せてくれと。

 しばらくそれを無視していたアネッテだったが、ヨハンナの熱い期待のこもった眼差しを向けられ続けると、小さく首を振りながら嘆息した。


「……仕方ない奴だ。まあいいだろう。カエトス、やると言った以上はきちんとやれよ」

「了解しました」

「さすがアネッテさん、話がわかるっ」


 ヨハンナは嬉しそうに笑うと、アネッテと一緒になって剣を調べ始めた。早速鍔の回転機構に気付いて、それを二人でがちゃがちゃといじり出す。

 

「あ、ここの穴が開いてるところ、回転しますよ。ほらほら」

「……そんな仕組みがあったのか。他に動くところはなさそうだな」

「ですね。でもこれに何の意味があるんでしょう? ただの飾りじゃないですよねぇ」

(お前の予想通り、上手く食いついたな)


 ネイシスの感心したような声がカエトスの頭に響く。

 カエトスが閃いたのは、情報をただ与えるのではなく、相手の探求心を刺激することだった。このほうが後々の話の種にもなるし、彼女たちの印象にも残る。良い関係を築く足掛かりにもなってくれるはずだ。あとは掃除をきっちりと終わらせれば、カエトスに対する評価も上がることだろう。


 カエトスは次に訪れる試練の予測と対策に思いを巡らせながら、ネルヴェンの清掃作業を再開した。武器庫と広場とを往復して、せっせとネルヴェンを運び出しては翼を広げて汚れを落としていく。額に汗を浮かべながら、二十以上のネルヴェンの掃除を終えたところで、右肩に柔らかい感触が触れた。情報収集から戻って来たネイシスだ。

 

(カエトス、あと五ルフス(約十分)ほどで時間だぞ)

(もうそんなか。そっちは何か収穫はあったか?)

(いや、そこそこ遠くまで行ってきたんだが、めぼしい情報はない。あと怪しいのは、私がここを離れる前にはいなかった女どもくらいだ)

(女?)

(うむ。宿舎の裏手にたむろしている。仕事を中断してすぐに向かえ。私は先に行っている)

(わかった)


 肩の感触がすぐに消える。宣言通りに早速現場へ向かったようだ。

 カエトスはアネッテへと目を向けた。

 カエトスが黙々とネルヴェンの清掃作業に取り組んでいたのは、自由時間を確保するための布石。これだけ真面目に仕事をこなせば、きっとそれを評価されるはず。カエトスはその期待を込めて、前もって用意していた言葉を発した。


「アネッテ殿。少し休憩してよろしいですか」

 

 声をかけられたアネッテは、カエトスが清掃し終えたネルヴェンを点検しているところだった。骨組みや布製の翼の強度を確認しながら、武器庫の壁に立てかけられたネルヴェンの群れを眺めて一つ頷く。


「……ふむ。まあいいだろう。一人でここまでやるとは正直思っていなかったぞ。それに引き換えお前と来たら……」


 ため息をついたアネッテがヨハンナを見やる。

 彼女はカエトスの剣を手にしたまま、それをぶんぶんと振り回しているところだった。親衛隊に所属するだけあって、適当に振っているように見えて、太刀筋は一切ぶれていない。見た目はどこにでいそうな町娘っぽいのに、中身は別物だ。


「はい? どうかしました?」


 アネッテの視線に気づいたヨハンナが、年頃の少女に相応しい可愛らしい仕草で首を傾げる。

 アネッテはいっそう大きなため息をついた。

 

「ふう……。ヨハンナ、カエトスを水場に案内してやれ。戻ったらお前は一人でこれを全部片づけること。……なんだその顔は?」

「な、何でもないですはい。案内します、こっちですよっ」


 これ以上ないほどに嫌そうな顔をしたヨハンナは、アネッテにじろりと睨まれると慌てて駆け出した。カエトスもそれを追いかける。

 

 真面目に掃除した甲斐あって、とくに誰何されることもなく休憩の許可が出た。問題はこの次だ。本に記述されていた二人を探し出さなければならない。幸いにもヨハンナの向かう先は、ネイシスが指摘した宿舎裏手だ。焦る心を抑えつつ、ヨハンナの横に早足で並びかける。

 

「ヨハンナ殿。剣を返してもらっていいですか?」

「あ、そうでした。はい、どうぞ」


 ヨハンナはカエトスの剣を抜身のまま持って歩いていた。歩みを止めないまま、カエトスに剣の柄を差し出す。


「不思議な剣ですね、これ。鉄でできてるのに生き物に触ってるみたい。もしかして、霊鉄でできてます?」

 

 実際は霊鉄よりもさらに希少価値が高く性能も上である神鉄製なのだが、感触や外見は普通の鉄剣と変わらない。剣に内在する神々の力を感じ取れなければ気付かないものなのに、それを察知したということは、ヨハンナの感覚はかなり鋭い部類のようだ。

 カエトスはそう感心しつつ、剣を左腰の鞘に納めた。


「いい線ですが外れです」

「じゃあ、何でできてるんです?」

「残念ながら、それにはお答えできません」


 神鉄や霊鉄は、一般的には非常に貴重な物質として扱われ、同じ重さの金よりも遥かに高額な値で取引されることもある。盗難や強盗の被害を呼び込まないためにも、あまり吹聴するのは好ましくないのだ。

 カエトスの謝絶にヨハンナが不満そうに口を尖らせる。


「むー。その剣の秘密も結局わからなかったんですけど、それも教えてくれないんですか?」

「一緒に仕事をしていれば、そのうちお見せする機会もあるでしょう」


 ヨハンナは後ろのアネッテの方を振り返りながら体を寄せてきた。口元に手を当てながら小声で言う。


「アネッテさんには言いませんから、私にだけ教えてくれません?」

「今はまだ秘密です」

「絶対言わないから」

「しばらくの辛抱です」

「ねえってば」

「駄目です」

「……けち」

 

 ヨハンナは短く漏らすと、ぷいっと顔を背けてしまった。

 

(カエトス、その女ふてくされてないか?)

(大丈夫、本気で怒ってるわけじゃないさ)

 

 ヨハンナとの間にも友好関係を築かなければならない。ゆえにネイシスは懸念を伝えてきたわけだが、ヨハンナからはこれといって刺々しい雰囲気は伝わってこない。彼女自身、駄目で元々という軽い気持ちで聞いているだけなのだ。少なくとも敵意や嫌悪感は持たれてはいない。その証拠に宿舎の裏手に出たところでヨハンナは軽やかな身のこなしでカエトスを振り返った。

 

「ここが水場ですよっ」


 ヨハンナが全身を使って指し示したのは、中郭へと続く断崖の麓にある貯水池だった。

 池は横に三つ並んでいて、中央の池は高い位置にあり、左右の池は地面と同じ高さにある。崖には垂直に溝が掘られていて、滝のように落ちる水が中央の池に流れ込んでいた。そこからは左右の池とを結ぶ水路と、カエトスたちの頭上を通って各建物へと接続されている小規模の水道橋が延びていた。また左右の池からは地面に掘られた水路が出ていて、各建物の地下へと消えている。


「お疲れさまで~す」


 明るい声でヨハンナが挨拶をしたのは、右の池の縁で洗濯に勤しむ侍女たちだ。

 彼女たちの衣服は、別殿で働くナウリアやそのほかの侍女と同じく質素な意匠の上着とスカートだったが、色が異なっていた。ナウリアたちは白だったのに対し、彼女たちは薄い緑や黄色だ。これは王女付きの侍女であるナウリアたちよりも立場が下だからだろう。


(カエトス、この女たちだ。名前がわからないから、早く聞きだせ)

「カエトスさん、こっちですこっち」


 急かすネイシスと、手招きするヨハンナの声が重なる。

 カエトスは了解した旨をネイシスに送りつつ、ヨハンナの元に向かった。彼女は中央と右側の池とを結ぶ傾斜した水路を指差していた。その側面からは小さな細い滝が何本も平行に出ている。

 

「はい、ここの水は飲料用なので、自由に使っていいですよ。常に上から流れてくるし、汚れた水は隣りの下水用のため池に流れていきますから。洗い物もここでやっていいです。でも上の池は立ち入り禁止です。これは綺麗な水で、この水道橋であちこちに配られてますから、汚しちゃだめです。気を付けてくださいね」


 ヨハンナの指が、細い滝やため池、水道橋を忙しなく移動する。

 つまりここは用途ごとに水を分ける分配池というわけだ。

 中郭の広大な池を目にしたときから水の豊かな城だとは思っていたが、上水道と下水道を完備しているとは思わなかった。

 カエトスはそんな感想を抱きつつ、それとなく池の縁で洗濯に勤しむ侍女たちへと目を向けた。

 彼女たちの笑い声と水のせせらぎがカエトスの耳をくすぐる。心地よい風が吹き、日差しを反射する水面がまぶしい。絵に描いたような平和な光景だ。だが今からここに何らかの危機が訪れるかもしれないのだ。


(カエトス、時間がないぞ。あと二ルフス(約四分)ちょっとだ。早く名前を聞け)


 ネイシスが急かす。

 カエトスは焦りとともに、目まぐるしく頭を回転させた。

 名前を聞き出すには、そのままリューリとラスクの名を出して尋ねるのが一番手っ取り早い。だが親衛隊に配属されたばかりの新人が、いきなり仕事と関係のない人間に名前を尋ねたら、確実に妙な奴と思われる。ヨハンナも怪しむだろうし、間違いなく理由の説明を求められる。アネッテにも報告されてしまうことだろう。

 誰もが違和感を覚えずに名前を聞き出すにはどうしたらいいのか。

 

「ヨハンナちゃん、その人は誰です?」


 カエトスがヨハンナと同じように細い滝の水を手ですくうふりをしながら必死に頭をひねっていると、三十代半ばほどの落ち着いた雰囲気の侍女の一人が声をかけてきた。見れば、他の女たちも次々と立ち上がり、衣類が詰め込まれた大きな籠を抱え上げようとしているところだった。洗濯が終わったらしい。

 ヨハンナはきょろきょろと周りに視線を走らせると、忍び足で侍女に近づいた。耳元に口を寄せてひそひそと囁く。声を潜めてはいるが、それはカエトスの耳にもしっかりと聞こえてきた。


「例のあの人ですよ。王女殿下が見初めたっていう」

「あぁ、この人がそうなの。へぇ……」


 その侍女だけではなく、それとなく聞き耳を立てていた周りの侍女たちの顔にも理解の色が広がった。カエトスをちらちらと覗き見ながら、互いに顔を見合わせては小声で話し始める。


 予想はしていたが、やはりカエトスのことはすでに噂となって広まっているようだった。

 正直なところ、女の噂話に首を突っ込むのは骨が折れるというのが本音ではあった。しかし相手から話しかけてきたこの機会を逃す手はない。カエトスは侍女に近づき話しかけた。

 

「初めまして。イルエリヤ・カエトスといいます。紆余曲折があって親衛隊ヴァルスティンでお世話になることになりました。よろしくお願いします」

「あら、こちらこそよろしく」


 自己紹介されたのが意外だったのか、若干戸惑う素振りを見せる侍女。

 

「ところで、無礼を承知でお聞きしたいのですが、もしかしてリューリもしくはラスクという名前をご存知ですか?」

「……さあねえ、どうだったかしら。いたような、いないような。それが何か?」

「ええ、あなたが私の知るその人に似ていたもので、身内の方かと思ったんですが……どうやら違うようですね。失礼しました」


 そう答えつつ、カエトスは素早く周りの侍女に視線を走らせた。

 この中にリューリまたはラスクという名の侍女がいれば、自分の名を呼ばれたことになる。何らかの反応を示すはずだ。

 

「リューリってあの子じゃないよね?」


 籠を抱えた若い侍女の一人がぽつりと言った。

 カエトスはすぐさま聞き返した。


「今なんと?」

「えっと、上にリューリって名前の子がいるんですよ。その子とあなたの言っている子は別人だろうなって、そう思っただけで、深い意味はないの。うん」


 侍女が人差し指を上に向ける。

 

「上というのは中郭?」

「そう。クラウス殿下の侍女にいるんです。知り合いじゃ……ないですよね?」

(カエトス、もう時間だ。あと十ヴァイン(約二十秒))


 首を傾げながら尋ねる侍女の声と、ネイシスの警告が被った。

 カエトスの体に緊張が走る。もう間もなく危機が訪れる。だが周りは依然として平穏そのものだ。穏やかな日差しとせせらぎの音が心地よく体を撫でる。

 一体何が起きるのか。

 この侍女は中郭にリューリという名の侍女がいると言った。それがイルミストリアに名前が挙がっていた人物なのか。しかし本が指定した場所は兵部省の敷地内。カエトスはここで危機に見舞われるが、救出対象のリューリとラスクは中郭にいるということなのだろうか。もしそうだとするなら、カエトスだけで対処は不可能だ。ネイシスに様子を見に行ってもらうべきか。

 そこまで考えて、カエトスは閃いた。中郭にいるというリューリが、この場に一瞬でやって来る方法が一つあることに。

 

(まさか──)

(カエトス、上!)


 カエトスが閃くのと、ネイシスの警告は同時だった。

 頭上を仰いだ。真上に人がいた。真っ直ぐにカエトスに向かって落下している。服装は周りにいる侍女と同じだが色が赤い。王子付きの侍女であるというハルンも同じ色の服を着ていた。つまりおそらくあれがリューリ。彼女は猛烈な速度でカエトスに迫ってきていた。中郭までは、ここからおよそ八十ハルトース(約九十六メートル)ある。しかしすでに恐怖に歪む表情がはっきりと確認できる位置にまで達していた。

 カエトスは傍にいたヨハンナと侍女を突き飛ばした。同時に左手で剣を抜く。


(間に合え……!)


 今まさに落下している人物がリューリならば、逃げずに救出しなければならない。

 左手親指の感触だけで鍔の穴位置を確認、素早く回転させる。呼びかける源霊はミュルス。二度の金属音を響かせて鍔は目的の位置へ移動した。

 記憶の中から、いまミュルスへ行うべき最適の命令と、そのための剣舞を引っ張り出し、すぐさま実行。

 頭上を見上げたまま、左手の剣を縦横に翻す。

 実行すべき動作は十三。左右に薙ぎ、天地から交互に斬撃を走らせ、刃を回転させながら抉るように突く。両体側で刃に円を描かせ、柄頭で殴るように腕を左右に振り回す。

 侍女はもうカエトスの目前に迫っていた。

 カエトスは剣を左に振り抜いた。同時に順手から逆手に持ち替え、勢いよく右手を天に突き出す。

 その瞬間、空気が硬く張り詰めた。

 右手の先には、もう触れられそうなところに侍女の体があった。そしてそれはカエトスが右手を突き出したその一瞬で、完全に宙に停止していた。その距離、実に二十レイトース(約二十四センチメートル)。あとほんの少しでも遅れていたらカエトスに激突するところだった。


 カエトスが命じたのは、運動エネルギーを全て真気に変換する〝場〟を作ることだった。これは特に減衰場と呼称されるもので、対象とする力が運動エネルギーであれば動体減衰場と呼ばれる。

 その機能は、場に侵入した物体が持つ運動エネルギーを真気に変換し、減じ衰えさせること。これに取り込まれた侍女は落下する力を全て奪われ、空中に停止したのだ。

 宙に浮いたままの侍女に目立った傷はないようだった。しかしカエトスが息をつく間もなく、再びネイシスの警告が頭の中に響く。

 

(カエトス、まだいるぞ!)


 名前が記されていたのは二人。もう一人いるのだ。

 宙に静止した侍女の体の向こう、青空の一点に影が見えた。カエトスは目を凝らした。小さい。まだ遠いと思ったが違う。落下しているのは人間ではなかった。短い手足に茶色の小さな体。あれは──。

 

(犬……!?)


 一瞬、目を疑ったが間違いない。犬だ。侍女の体の陰になって把握が遅れた。

 もしかして、あれがラスクか。

 だとすればまずい。このままではあの犬は死んでしまう。

 

 犬の落下軌道は侍女とほとんど変わらない。カエトスが展開した動体減衰場に向かって落下している。そこに侵入した犬は、侍女と同じように落下する力を真気に変換されて助かるように見えるが、実際にはそうはならない。

 侍女は全身が同時に減衰場に包み込まれた。そのため全身が同時に停止した。一方あの犬は、すでに展開されている減衰場に体の先端から順次侵入することになる。

 すると何が起きるのか。

 場に侵入した部分だけが運動エネルギーを奪われて停止し、体の他の部分は移動を続けてしまうのだ。

 つまり全力で走っている人間の手を突然つかんだときのようになる。腕はその場に留まり、体は進み続ける。速度が早ければ腕は体から千切れてしまうだろう。それが犬の体に起こるのだ。

 落下の場合は、先に減衰場に侵入し停止した自分の体に自分自身が激突することになり、地面に叩きつけられたときと変わりない惨状となってしまう。


 あの犬がイルミストリアの記述にあったラスクなら、絶対に助けなければならない。そのためには減衰場を一度解除する必要がある。そしてその後、もう一度ミュルスに命じて場を展開させる。カエトスはその手順を脳裏に思い浮かべた。

 

(無理だ……!)


 圧倒的に時間がなかった。

 カエトスは一般的な源霊使いのように口頭でミュルスに指示を出すことができない。剣舞によってしか命じられず、咄嗟のときに瞬時に対応できない。これがこの技の致命的な弱点だった。

 

(ネイシス!)

(任せろ。最小限、あれを停滞させるから、減衰場を消して上手く受け止めろ)

(わかった)


 カエトスの呼びかけに即座に金髪の女神が応じた。ネイシスが力を使うことで女神イリヴァールによる呪いが進行してしまうが、それしか方法はない。


 カエトスは指で弾いて剣の柄を左手の中で回転させた。減衰場を解除せよとの命令を受けたミュルスがすぐに活動を停止する。

 減衰場の消失とともに、宙に浮いていた侍女の体が落下。それに右手を添えて地面に下ろしながら、剣を手放す。視線は頭上に向けたままだ。


 犬はもう茶色い毛並みがはっきりとわかるところにまで迫っていた。侍女が落下していた速度よりも明らかに速い。まともに激突すればカエトスも犬も死ぬ。それほどの速度と威力を伴っている。

 手を伸ばせば届くところにまで到達したところで、不意に速度が低下した。ネイシスが力を行使したのだ。

 しかし完全に停止はしない。昨日、ヴァルヘイムの剣撃を一瞬停滞させただけで、カエトスの呪いは一日近く進行してしまった。この犬が持つ破壊力は少なく見積もっても、ヴァルヘイムの剣撃より下ということはない。完全に止めてしまったら、一体どれほど呪いが進行してしまうことか。ゆえにネイシスは宣言通りに作用を加減していた。

 

 カエトスは眼を見開いた。

 犬は減速させられたといってもそのままでは確実に墜死する速度だ。しかしまともに受け止めればその衝撃で腕の骨が折れる。ゆえに正面からは手を出せない。

 

 カエトスは一歩右へ移動した。同時に体を反時計回りに旋回させる。犬の体がいままさに体側を通過するその瞬間、カエトスは振り回した右手で犬の体を真上からつかんだ。手首と手のひらも駆使して胴体を引っ掛けるように抱える。そのまま体を回転させて、すくい上げるように全力で右腕を振り抜いた。犬の移動方向が下方から地面と平行に、そして上方へと変わる。

 カエトスは手を離した。犬の体が再び宙を舞う。移動方向を変えつつ衝撃を逃がしたことで、速度は大きく減じていた。ふわりと上昇し、再び落下を始めた犬の体を両腕でしっかりと受け止める。

 

(他は!)

(もうない。その犬でおしまいのようだ)


 油断なく空を見上げるカエトスに、ネイシスが落ち着いた声音で答えた。

 カエトスは大きく息をつくと、犬を抱えたまま膝をついた。


(その犬は無事か?)


 ネイシスの問いに、カエトスは腕の中に視線を落とした。

 犬はまだ子供のようだった。小さな体についた短い尻尾を千切れそうなほどに振りながら、つぶらな瞳でカエトスを見上げている。

 

(あれだけ乱暴に扱ったのにぴんぴんしてる。こっちの彼女も……とりあえず大丈夫そうだな)


 カエトスは子犬を地面に置いて、赤い服の侍女へと目を向けた、地面に仰向けに横たわっていてぐったりしている。出血していたり骨折しているようには見えないことから、落下の恐怖に耐え切れずに気を失ったのだろう。


「ア、アア、アネッテさん呼んできます!」

「な……何が起きたの……?」


 カエトスに突き飛ばされて尻もちをついていたヨハンナが慌てて駆け出した。同じくカエトスが危険から遠ざけた侍女が、地面にへたり込んだまま茫然とした様子で問いかける。


「どうやら上から転落したみたいですね」


 カエトスが頭上を指差すと、侍女は口をぽかんと開けて空を仰いだ。


「大変、い、医者よ、医者っ、医者を呼んでっ!」


 ようやく事態を呑み込んだ侍女たちが騒ぎ始めた。衣類を詰め込んだ籠を放り投げて駆け出す者もいれば、地面に横たわる侍女に駆け寄ってくる者もいる。


「あなたは大丈夫ですか?」

「私のことはお構いなく。どこも怪我をしてないので、そっちの彼女を診てやってください」


 カエトスは心配そうに声をかける侍女の一人に手を上げて応じつつネイシスに話しかけた。


(ただの事故だと思うか?)

(いや、違うな。位置がおかしい。ここは崖から大分離れている。滑落だとしたらそこの池に落ちるはずだ。女の体には斜面を転がった形跡もないしな。こんなところにまで飛んでくるには、それこそ思いっきり跳躍でもするか、誰かに突き飛ばされるか、源霊の力を借りるかしなければならないと思うぞ。つまり何らかの意図が作用している)


 ネイシスはカエトスと同じ結論を導き出していた。

 これはただの落下ではない。崖は垂直ではないから、侍女が足を踏み外したなら斜面に何度か打ち付けられながら落下するはずなのに、崖から離れているカエトスを直撃する軌道をとっていたのだ。

 

(やっぱりそう思うか。てことは……狙いは俺か)


 カエトスの脳裏に昨晩のクラウスたちの会話が蘇る。名指ししてはいなかったものの、話の流れからしてカエトスを始末する策を練っていたと見て間違いないだろう。その結果がこうして表面化したのだ。

 

(たぶんそうだな。女と犬を使ったのは、事故にでも見せかけるつもりだったんだろう。この崖の造りからして、落石はそうそう起こらないように見えるし)


 ネイシスが指摘するように、内郭と中郭を隔てる崖は巨岩が隙間なく積み重ねられていて、非常に堅牢な構造になっている。簡単に崩れるようには見えない。これなら人間の転落のほうがまだ可能性がありそうだ。

 カエトスの胸中にじりっと炎がくすぶる。

 レフィーニアの暗殺を妨害したカエトスが邪魔なのだろうが、そのために無関係な人間を巻き込んだことが気に入らなかった。カエトス自身が他人を巻き込まざるを得ない状況に置かれているからこそ、より怒りが湧く。この事件を起こした者と、そして自分自身へと。

 

 カエトスがやり場のない感情を鎮めていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。大勢の人間が宿舎の脇を駆けてくる。先頭にはミエッカとアネッテ、その後ろに彼女たちを呼びに行ったヨハンナと、担架を持った女たちの姿がある。ヴァルスティンの隊員たちだ。


 ミエッカは屈んでいるカエトスを鋭い眼光で一瞥すると、すぐ傍らに横たわる侍女へと駆け寄った。その脇を一人の女が長い黒髪と白いスカートをなびかせながら、すり抜けるように追い越す。

 ナウリアだ。

 ミエッカよりも先に侍女のもとにひざまずき、心配そうに名を呼びながら頬を撫でた。

 

「リューリ、聞こえますか? リューリ……!」


 どうやら落下した侍女はナウリアの知人らしい。そして彼女はやはりイルミストリアの記述に出てきたリューリ本人だった。だが名前を呼ばれても反応がない。

 

「姉さん、医者に任せよう。大きな怪我はしていないようだから」


 ミエッカがナウリアの肩に手を置く。

 ナウリアは少し抵抗する素振りを見せたが、リューリの頬をもう一度だけ撫でて体をどかした。隊員たちが地面に置いた担架にリューリを乗せる。

 

「とりあえず、うちの宿舎に運んで医者に診せるように。気が付いたら話を聞かせてもらうから」

「承知しました」


 隊員たちはミエッカの指示に答えると、足早に侍女を運んで行った。

 立ち上がってリューリを見送るカエトスを、ミエッカがじろりと睨みながら問いただす。


「何があった?」

「詳細は私も把握はしていません。ここに落下してくる彼女を発見して、咄嗟に受け止めただけなので」

「受け止めた? ……人間をか?」

「詳しいことはヨハンナ殿のほうがご存知だと思います。何が起きたのか、客観的に見えたでしょうから」


 カエトスに話を振られたヨハンナに、ミエッカだけではなくアネッテやナウリアの視線も集中する。


「え、ええっと、一応見ましたけど……突然のことだったから、私もよくわかってないです。気付いたときにはもうリューリさんがすぐそこまで落ちて来てて、それをカエトスさんが止めたってことくらいしか……」


 自信なさそうにヨハンナが言う。

 ミエッカは険しい眼差しで中郭を見上げた。

 

「アネッテ、ヨハンナ。上に調査に行って。何が起きたのか見ていた人がいるかもしれない。いたら確保して話を聞くように。ついでに周辺も調べて、もし崩落でもしていたら応急処置を」

「カエトスは?」


 アネッテがカエトスにちらりと目をやる。彼女はカエトスの教育役であり、監視役でもある。それをどうするかを聞いているのだ。


「これから使いを頼む予定だったから、それに向かわせる。姉さんが同行してくれるから、アネッテは外れて構わない。カエトスへの聴取はそれが終わった後に行う」

「了解した。ヨハンナ、行くぞ」

「はいっ」


 アネッテはヨハンナと連れ立って足早に立ち去った。それを見届けるカエトスに、ネイシスが話しかける。

 

(この使いとやらが、今日の四番目の試練のようだな。簡単に済めばいいんだが)


 カエトスはイルミストリアの記述を記憶から引っ張り出した。

 記載されていた時刻は五エルト四十ルフス(午前十一時二十分頃)。そこにはミエッカから出される指示をナウリアとともに無傷で完遂しろとあった。どう楽観的に読み取っても一筋縄にいきそうにはない。

 転落したリューリのことや中郭で何があったのか気になったものの、カエトスはすぐに頭を切り替えた。中郭をもう一度見上げるミエッカに尋ねる。


「隊長殿。使いとはどのようなことをするのでしょうか?」


 相変わらず鋭いミエッカの眼光がカエトスを射抜く。考え事を中断されたからか、そこには不機嫌さも混じっていた。眉間にしわを寄せながら口を開く。

 

「王都のシルタという地区に、我が隊専属の工房がある。そこに預けていた銃槍の調整が完了したとのことだから、それを受け取って来い。詳しい場所は姉さまが知っている。王都に用事があるから、ついでに案内してやるとのことだ。感謝しろ」


 ミエッカの隣りにいるナウリアがちらりとカエトスを見て目を伏せた。

 朝の別殿シリーネスでの会話では、宿舎で落ち合ったあと場所を変えると言っていたが、工房への道すがら話をすることにしたようだ。すでにミエッカへの根回しを済ませている辺り手際がいい。


「手続きに必要な書類などは姉さまに預けてあるから、貴様は渡されたものを確実に持ち帰ってくればいい」

「了解しました」


 カエトスは面倒くさそうに言うミエッカに一礼すると、その場にしゃがみ込んだ。右足にまとわりつく子犬を抱え上げて差し出す。


「隊長殿、この犬を頼みます。こいつも上から落ちてきたので、何かの手掛かりになるかもしれません」

「……これもだと?」

「おかしいですね。中郭で犬を飼っている人間などいないはずですが」

「まあいい。これはこっちで調べておくから、貴様は早く行け。姉さまに迷惑をかけるなよ」


 ミエッカは子犬を小脇に抱えながら一言釘を刺すと、リューリが運び込まれた宿舎へ向かった。


「……彼女のことは気になりますが、我々はやるべきことをやりましょう。カエトス殿、参りますよ」

 

 ナウリアは未練の滲む口調で言うと、ミエッカと同じく宿舎の方へ歩き出した。

 彼女はカエトスに対して尋問すると言っていた。それがこれから行われるのだ。いったい何を聞かれるのか。そしてそれにどう答えるべきか。

 カエトスは考えられる限りのことを想定しながら、ナウリアの後に続いた。

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