第7話 紫瞳の女神

 アネッテとヨハンナに監視されながらカエトスが連れて来られたのは、彼女たちが所属する親衛隊ヴァルスティンの隊員が寝泊まりする宿舎だった。立地としては先刻カエトスが決闘を行った屋内練武場と同じく、兵部省の敷地内にある。

 現在はすでに宿舎の中に入っており、二階へと続く階段をアネッテとヨハンナに前後を挟まれながら上っているところだ。

 宿舎には華美な装飾などは一切なく、石壁と木組みの梁からなる造りは質実剛健そのもの。戦いを生業とする男たちの住処といった雰囲気に満ちている。しかしその印象とは裏腹に、宿舎に入ってカエトスがすれ違った人物は全て女だった。

 親衛隊ヴァルスティンは女のみで構成されているとミエッカは言っていた。実際に別殿シリーネスでも、警備に当たっている者の中に男は一人もいなかったわけだが、どうやら本当に女しかいないらしい。

 つまりカエトスは、女の集団の中にただ一人の男として放り込まれたことになる。

 そう思い至ったカエトスの脳裏によぎったのは、女に囲まれる幸せなどではなく不安だ。

 美人局的な罠を仕掛けられたり、所持品の中に女たちの衣服を紛れ込ませるなどの策を実行されたら、いったいどうなることか。親衛隊からの追放では済まず、その場で処刑されることだろう。

 カエトスはまだ全く信用されていない状態だ。とにかく隙を見せず、誤解を招く行動は厳に慎もう。

 

 カエトスが人知れず決意を固めていると二階に到達した。

 廊下が左右に延びており、それぞれ奥に向かって二十以上の扉が並んでいた。それと向かい合うガラス窓からは、中郭と内郭とを隔てる巨岩を積み重ねた崖が見える。

 アネッテは廊下を右に曲がってすぐのところで立ち止まると、上着のポケットから鍵を取り出した。正面の扉の鍵穴に差し込んでぐるりと回転させて、扉を押し開く。

 

「ここがお前の部屋だ」

「物置……ですか?」


 中を覗き込んだカエトスは思わず聞き返した。

 奥のガラス窓から日差しが差し込む室内は、面積自体は広い。しかし所狭しと椅子や机、棚などが積み重ねられていて、人が滞在する場所とは思えないほどにごちゃごちゃとしていた。

 

「言っておくが、嫌がらせをしているわけではないからな。この宿舎には、外から鍵をかけられる部屋がここしかないのだ。王女殿下の計らいで親衛隊に所属することになったとはいえ、お前は監視対象であることに変わりはない」

 

 本当なのか嘘なのか判然としない静謐な口調で言いながら、アネッテはカエトスに中に入るように促す。


「親衛隊としての仕事は明日説明する。今日はここで休め。机や椅子はここにあるのを好きに使ってかまわない」


 物置に足を踏み入れたカエトスは室内をざっと見回した。机も椅子も選び放題だがどれも埃をかぶっていて、すぐに使用するには少々難がある。


「誰かが外で見張りをしているから、何かあれば声をかけろ。これはお前の荷物と制服だ」


 当惑するカエトスをよそに、アネッテは手に持っていたランプと、拘束されたときに没収された背嚢をカエトスに押し付けた。その後ろにいたヨハンナが、折りたたまれた毛布と紺色の衣服、そして薄い木の皮に包まれた棒状のパンを差し出す。

 カエトスは指先にランプを引っ掛け、パンをつまむように持ちながら、それ以外のものを両手に抱えるようにして何とか受け取る。その中に一つ気になる点があった。


「私の剣がないようですが」


 あれがなければカエトスの能力は大幅に制限されてしまう。是非とも手元に置いておきたかったが、アネッテの返答はにべもなかった。


「凶器を返せるわけがないだろう。明朝、お前のもとに返す。それまではこちらで預かっておく」

「……そういうことでしたら」


 一瞬食い下がろうと思いはしたものの、カエトスはおとなしく引き下がった。

 彼女たちがカエトスに抱く心証は、今のところ最悪の状態だ。これ以上悪化させるのは、今後の付き合いに多大な影響を与えてしまう。


「明朝までおとなしくしていろよ」


 アネッテはそう言い残すとヨハンナとともに部屋を後にした。扉が閉まり、短い金属音とともに施錠される。

 それを待っていたかのように、カエトスの目の前で美しい金糸がふわりと翻った。

 今まで姿を消していた小さな女神ネイシスだ。宙に浮いたまま体を一回転させて呟く。

 

「ずいぶん汚い部屋だな」

 

 物置は人の出入りがほとんどないのだろう。全体的にうっすらと埃が積もっていて、床にはカエトスやアネッテたちの足跡がはっきりと残っていた。


「牢屋に入れられそうだったのを考えれば、ずっとましさ」

 

 歯に衣着せないネイシスに答えつつ、カエトスは抱えた毛布や背嚢などを入口近くの机に置いた。

 改めて室内を見渡すと、部屋の半分以上は机や椅子、タンスといった家具が置かれていて、空いている空間は入口辺りにしかない。まずはゆっくり体を休めるための寝床を確保するべく、部屋の奥に向かった。

 ガラス窓から宿舎前の石畳の広場が見える。そこでは紺色の制服を着た女たちが、傘のようなものをいくつも畳んでは広場横の建屋に運んでいた。それを眺めながら壁に立てかけられていた寝台を引っ張り出す。横に倒した拍子に家具と床に積もった埃が一斉に舞い上がる。

 

「げほっ、げほっ……!」


 せき込みつつ寝台を引きずって入口近く移動させる。次は積み重ねられた椅子と机を一つずつ下ろして、寝台の横に置いた。

 

「ごほっ……。まあこんなもんか」


 とりあえず部屋の体裁は整った。問題は埃だが、掃除道具はこの物置にはなさそうだ。明日借りて掃除しよう。

 カエトスはそう考えつつ引っ張り出したばかりの椅子に腰を下ろした。


「それでネイシス、本は?」

「ほれ、ここだ」

 

 埃を避けるべく天井付近に逃げていたネイシスが机の上に音もなく降り立った。背中を覆う煌びやかな金髪に手を突っ込み、その中から濃紺の本を取り出す。啓示する書物イルミストリアだ。

 カエトスは受け取った本を早速開いてみた。

 カエトスが本の内容に目を通したのは、城に潜入する直前以来だ。そのときは王女を押し倒せという文章のみだったが、いまはそれ以外にも文章がある。ミエッカに決闘を挑め、王女の提案を受け入れろというすでに達成した試練に関する記述だ。しかし文章はさらにもう一つあった。

 

「また増えてるな」

「うむ。今度は夜だな」


 新たに出現した記述は次のようになっていた。

 

『十一エルト五ルフスの刻(午後十時十分頃)、王城アレスノイツ内ユリストア神殿付近にて、カシトユライネン・ナウリアと接触せよ。その後、十一エルト十ルフスの刻、別殿サイアットにて、アルティスティン・クラウス、ラムルハーヤ・ハルン、ルイノリヤ・ヴァルヘイムの会話を聞け』

 

 再びネイシスは背中に腕を回して、自身の金髪の中から長楕円型の時計を取り出した。刻一刻と形を変える文字盤に目を落とす。

  

「いまは八エルト(午後四時ころ)過ぎ。まだ時間は十分にあるぞ」

「それはいいんだけど……知らない名前があるんだよな。ナウリアはさっき話した王女の姉で、クラウスは王子、ヴァルヘイムは俺と決闘した男だろ。ハルンは誰だ。ネイシス、どこかで耳にしたか?」

「いや。この城に来てから聞いた名の中にはない。だが文脈からして、王子と話をしている相手なんだろうから、現場に向かえば判明するんじゃないか?」

「まあ、それはそうなんだけど、じゃあ別殿サイアットはどこかわかるか?」


 別殿というからには中郭にあったどれかの建物なのだろうとは予測できるが、一つ一つの建物の名をカエトスはまだ聞いていない。


「お前と一緒で王女の住んでるシリーネスしか知らないぞ」

「だよな……。まずい。どうやって調べりゃいいんだ、これ」


 扉の外には見張りがいるとのことだが、まさかそれに尋ねるわけにはいくまい。何をするのか逆に聞き返されて、不信感を一層募らせてしまうだけだ。

 

「ナウリアに聞けばいい」

 ネイシスがさほど迷うことなく淡々と言ってのけた。

「サイアットとやらに行く前にお前はナウリアに会うんだ。あれは中郭で働いている侍女なんだから、絶対に知っている。そのときに上手く会話を誘導して場所を聞き出してしまえばいい。お前はずいぶんと口が上手いから、大丈夫だ」

「……何か詐欺師呼ばわりされてるみたいだな」


 苦笑いを浮かべるカエトスに、小さな女神は意味が分からないとでも言いたげに小首を傾げた。

 

「私は褒めたつもりなんだが。お前の口車は大したものだったから、自信を持っていけばいい。その他の懸念材料と言えば、もう一度神殿に行かなければならないことだが、お前なら何とかするだろう。そんなことよりだ──」


 ネイシスは横たわる諸問題──例えば剣を取り上げられたことでカエトスが源霊の力を使えなくなっていることや、部屋の外に見張りが張り付いていること、神殿でナウリアを見つけ出せるのか否かなど──をあっさりと話題の外に押しやると核心を切り出した。

 

「どうやらこの本は、王女と姉二人をハーレム要員に選定しているようだな。ここに名前が挙がっているし、今日一日で、お前のことを女たちの頭に刻み込ませたいように見える」

「……確かにそんな感じはある。でもなあ、王女は浮気禁止って言ってたんだぞ。それをどうするつもりなんだ、この本は。それに姉妹を口説くなんて、ややこしくなる未来しか想像できない」


 カエトスは知らず身震いをしていた。脳裏にナウリアとミエッカの顔が浮かび上がったのだ。あの炎ような殺気と氷のような冷たい眼差しも。

 王女に求婚されたという事実ですらそれを悟られたら殺されそうなのに、姉たちも口説こうとしていたなどと知られたら、殺されるどころの騒ぎではないだろう。

 ごくりと唾を飲み込むカエトスを、ネイシスが不思議そうな表情で見上げる。

 

「それは懸念することなのか? 姉妹というのは、一人の男を取り合ったとしても争わずに妥協点を模索する程度には仲がいいものだと思っているのだが」

「仲がいいっていうのは概ね合ってる。でもな、そこに男とか女とか金とかが絡んでくると、血のつながりなんか関係なくなったりもするんだよ。殺し合ったりとかな」

「……ふむ。権力を巡ってはそういったこともあると知っているが、対象が男でもそうなるものなのか。お前が思い悩む理由はわかったが、ここでじたばたしても仕方がない。我々にできることは多くはないのだから、とりあえずはこの本に任せるしかあるまい」

「……だな。何とかやってみるか」


 妙案がないからこそ、このイルミストリアの力に頼ったのだ。懸念は晴れないが、ネイシスの言う通りこのまま進むしかない。


「これでも食って休め。その間に呪いの様子を見てやろう」

「頼む」


 ネイシスが差し出したパンを受け取りながらカエトスは、ミエッカとの決闘で穴だらけになってしまった上着を脱いだ。腕周りにつけられた赤い火傷の跡と、左上腕に刻まれた紫の薔薇模様が露わになる。

 カエトスはパンの包装を開き、中身にかじりついた。小麦の素朴な味が口中に広がる。焼き立てのような香ばしい匂いはほとんど消え失せてはいたが、ほとんど飲まず食わずで動き回っていたカエトスにとってはこの上ない美味な食事だった。

 黙々とパンを頬張るカエトスをよそに、ネイシスは宙に浮いたままカエトスの左肩口へと移動すると、細指を紫の薔薇にゆっくりと這わせた。難しい表情で口を開く。

 

「やっぱり、少し進んだな」


 決闘のときにネイシスは、ヴァルヘイムとミエッカの剣撃を停滞させるのに力を割いた。そのために呪いの抑制がわずかに弱まり、呪いが進行してしまったのだ。

 咀嚼したパンを嚥下しながらカエトスは尋ねた。


「……どのくらいだ?」

「そうだな……二日か三日といったところか」

「あの一瞬だけで、そんなに進んだのか」

「それだけこの呪いが強力ということだ。全く忌々しい」


 滅多に感情を露わにしないネイシスの顔に明確な嫌悪が浮かび上がる。その次に表れたのは苦悩が滲む渋面だった。

 

「私がお前を愛してやれれば、こんな呪いすぐにでも解いてやれるのに、私は愛というものがわからないままだ。人間の行動をつぶさに観察して、カエトスのことを常に気にかけるようにしているのに、一体何が足りないんだ」

「それは理性の支配下にあるからじゃ」


 唐突にネイシス以外の女の声が室内に響いた。


「出たな……」


 ネイシスが金色に光る瞳を細めて、薄暗い天井を見上げた。

 視線の先に霧のようなものが出現していた。それはみるみるうちに体積を増しながら一つ所に集合し、あっという間に女の姿となった。

 カエトスの目にまず止まったのは、女の身長よりも長く、水中にあるようにゆらゆらと揺らめく黒髪だ。そこには鮮やかな紫が混じっており、その濃淡が休むことなく移り変わっている。全体として完璧な調和を保ちながら変化するその様は、まるで闇夜を彩る極光のようだ。

 その身に纏うのは、深紅や群青、紫、薄緑などに染め上げられた幾重もの前合わせの着物。ふわふわと裾を揺らすその表面には、まるで実物をそのまま閉じ込めたかのような瑞々しい紫の薔薇が描かれている。

 だが何よりも目を引くのは彼女の美貌だった。

 どんな美女もどこかしら不均衡なところがあるものだが、彼女にはそれがない。薄らと赤みが差した肌は透き通るように白く、小振りな鼻筋はすっと真っ直ぐに通っている。紫の光を放つ切れ長の目の上では、眉がその形以外あり得ないと思わせる完璧な弧を描き、口元では艶やかな赤い唇が怪しく微笑む。

 これをそのまま描き出せる者がいたならば、それは歴史に名を残す名画家となる。そう思わせるほどに彼女の美は神秘的だった。

 宙に表れた女が音もなく降下した。素足が埃だらけの床に触れるかどうかというところでぴたりと止まる。

 彼女の紫の瞳は、宙にあるときから片時もカエトスから離れなかった。溶岩を内包しているかのような熱い眼差しを逸らすことなく、カエトスに微笑みかける。


「我が伴侶殿。まだ私のものになる気はないのか?」

「……女神イリヴァールよ。俺はあなたの呪いには負けない」


 女の口から奏でられたのは、彼女の容姿と同じくひとかけらの濁りもない澄んだ声。

 カエトスは椅子から立ち上がっていた。熱のこもった視線を受け止めながら、絞り出すように言葉を紡いだ。胸中に去来するのは、愛憎が混然一体となった名状しがたい想い。

 色鮮やかな彼女の着物に描かれた薔薇は、露わになっているカエトスの左腕に刻まれたものと全く同じ。

 この女の名はイリヴァール。ネイシスと同じ神であり、そしてカエトスに致死の呪いをかけた張本人でもあった。

 女神イリヴァールは、歯を食いしばるカエトスに困ったような笑みを返す。

 

「伴侶殿がいくら努力したところで、人の感情はそなたの望むようには動かぬ。それがわからぬそなたではなかろうに。現に昨日も薄情な女どもに、伴侶殿の努力を水泡に帰されたところではないか」


 女神が指しているのは昨晩ティアルクの酒場で起きた一件のことだ。

 彼女は常にカエトスの傍に在る。三人の女たちとのやり取りも全て見ていたというわけだ。


「四か月もの間、身を粉にして尽くしたというのに、あの女どもは自分以外の女と親しくしていたというただそれだけのことで、伴侶殿の行為を忘却の彼方へ押しやり、あまつさえ殺そうとまでする。あれでようやく、人の中に真の愛情などないと思い知ったと思うたのに……」


 小さく頭を振る女神の紫瞳がすっと細められた。ほのかな怒気が漂う。その矛先はカエトスにではなく、昨日カエトスを糾弾した三人の女たちに向けられていた。


「彼女たちは悪くない。責は黙っていた俺にあるんだから、三人には何もしないでもらおう」


 カエトスは静かに、それでいて強い口調で告げた。

 このイリヴァールという女神は、カエトス以外の人間に対して非常に冷淡な一面を持っている。そんな彼女が物事を判断する基準はカエトスだ。如何なることであろうとも、まずカエトスを絶対的に良いものとして扱う。その結果起きるのが、カエトスに仇なす行動をとった者の排除だ。

 

「そなたは優しいのう。あのような仕打ちをした女どもを庇うとは。私はそうは思わぬが、そなたが言うなら何もすまい」

「おい、イリヴァール。さっきのはどういう意味だ」


 挑みかかるように聞いたのはネイシスだ。カエトスを見つめるイリヴァールの視線を遮るように空中を移動する。

 イリヴァールが明らかに気分を害した口調でネイシスを見やる。


「何のことじゃ」

「お前が言った、理性の支配下という言葉のことだ」

「ああ、あれか。お主は全てのことを頭で考え行動している、という意味じゃ。お主は愛情を表現する仕草や行動を模倣することで、愛が生まれるものと思っておるようだが、愛というもの自然に心の内から溢れるもの。どうしたらいいかなどと考えているうちは、お主が何かを愛する日など永遠に来ぬわ。そんなこともわからぬ分際で、よくも私に大口を叩けたものじゃ。愚か者め」

「少しばかり長生きしているからといって調子に乗りやがって……」


 イリヴァールの嘲弄に対して、ネイシスの金髪が昂ぶる感情に呼応してゆらりと浮き上がり始めた。迎え撃つようにイリヴァールの黒と紫の入り混じった髪もざわざわと横に広がる。

 物置に張り詰めた気配が漂う。

 扉の外では親衛隊のいずれかが見張りについている。彼女らは戦いを生業とする者たちであり、おそらく勘も鋭いはずだ。室内の空気の変化を感じ取られるかもしれない。

 カエトスは背後の扉に意識を向けながら、女神をたしなめた。

 

「イリヴァールよ。ネイシスを侮辱するのはやめていただきたい。俺以外の者に危害を加えないと約束したはずだ」

「これしきのこと、危害とも侮辱とも呼べぬと思うが、我が伴侶殿の言葉じゃ。素直に従おう。私はそなたに嫌われようとは、微塵も思っておらぬのだから」


 カエトスの一言に、イリヴァールはあっさりと剣呑な気配を引っ込めた。力を失ったように髪の毛がだらりと下がり、瞳の怪しい輝きも力を弱める。

 しかしネイシスは感情を昂ぶらせたままだった。強い語調で告げる。

 

「それならカエトスの呪いを解け」

「それは出来ぬ。これは伴侶殿の思い違いを正すために必要なこと。私が与える以上の愛など、この世界のどこにも存在しないことを知ってもらわねばならぬのじゃ」

「その代償にカエトス自身の命をかけさせてか?」

「人としての生が終わるだけのことじゃ。その後は、肉体も魂も私が永遠に愛で続けようぞ」

「ただの人間が、お前の与える死を乗り越えられるとでも思っているのか? 呪いが発動した時点で、カエトスの生は終わる。その後などない」

「そんなことはない。この私が果てしない愛情を注いでおるのじゃ。死であろうが何だろうが容易く乗り越えられるに決まっておる。そこにいささかの疑念も存在せぬわ」


 イリヴァールの声には、カエトスに対する負の感情は欠片もなく、絶対的な信頼に満ちていた。

 そう、この紫瞳の女神はカエトスが憎くて致死の呪いをかけているのではない。全てはカエトスを愛しているからこその行動なのだ。

 呪いの役目は、女神自身の愛が誰よりも強く純粋であることを証明するため。

 それを解除する鍵を『濁りのない複数の強い愛情』と定めることで、愛情の質と強さを比較し、女神イリヴァールの愛情を超えられなければカエトスは呪い殺され、永遠に女神のものになるというわけだ。

 独特の感性を持つ女神は、己の信念を微塵も疑ってはいない。ゆえに他者との和解も意思の擦り合わせも不可能。それがいまのネイシスとの会話の中に全て含まれていた。

 

「……やっぱりお前は狂っている。お前のような狂神にカエトスの命は渡さない。この男は私が守る」

「出来るものならやってみよ。呪いの進行を抑制することしかできぬお主に出来るものならな」

 

 ネイシスの断固とした宣告に、イリヴァールは挑発的な笑みで応えた。金と紫の視線がぶつかり合い、再び彼女たちの髪が生物のようにざわめきだす。

 室内の空気がぴりっと張り詰めたそのとき、入り口の扉から金属音が響いた。鍵を解除する音だ。間を置かずに扉が開いた。

 入って来たのは物置まで案内したアネッテではなく、別殿シリーネスで別れた親衛隊長ミエッカだった。カエトスを認めた瞬間、その目を丸くし、次いで不愉快そうに細めた。

 

「……妙に殺気立った気配を感じたんだが、貴様、半裸になって何をしているんだ」


 カエトスは脱いだ上着を慌てて羽織っている最中だった。

 無論、裸を見られるのが恥ずかしいなどというわけではなく、左腕の呪いを隠すためだ。

 二柱の女神が一瞬で姿を隠したことにほっとしつつ、カエトスは急いで適当な理由を探し出した。淀みない口調ででっち上げる。


「え~、これはですね、日課の瞑想を行っていたからでして」

「瞑想?」

「はい。頭の中で戦う姿を想像することで、体を動かさずに訓練を行う手法です。実際に剣を持ってやるのがいいんですが、いまは手元にないもので……」

 

 カエトスの言う訓練方法は実際に存在するし、カエトス自身日課とまでいかずとも頻繁に行っている。ゆえにまるっきりの嘘ではないのだが、さすがに心の準備が足りなかった。言葉の端々にわずかな焦りや動揺が滲んでしまったかもしれない。

 その証拠に、ミエッカは胡乱な眼差しでカエトスの顔をじっと見つめてくる。カエトスは袖を通す途中だった上着を整えつつ、その視線を受け止め続けた。

 

「……まあいい。あまり不審な行動をしないことだ。私の権限でいつでも貴様を処分できることを忘れるな」

「はい。肝に命じておきます」


 ミエッカは不満そうに一つ鼻を鳴らすと、部屋を出て行った。再び扉が施錠される。


「何とかごまかせたか……」

「もう少しで見つかるところだったな」


 ほっと息をつくカエトスの左肩に姿を現したネイシスが囁くように言った。次いで再び出現したイリヴァールを金の瞳で睨み付ける。

 

「それもこれもお前が出てきたせいだ。早くここから消えろ」

「お主に言われずとも消えるわ。私は伴侶殿が心変わりしていないか確かめに来ただけなのだから」


 イリヴァールはそう言うと、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべながら白くほっそりとした指を伸ばした。カエトスの頬に触れるか触れないかのところを撫でるように這わせる。 

 

「我が伴侶殿。イルミストリアの力を借りてさえも望むものが得られないとわかれば、今度こそ私の愛を受け入れてくれることと思う。そのときを楽しみにしておるぞ──」


 イリヴァールの姿は声とともに空気に呑まれるようにして消えた。気配が完全に喪失する。


「あいつ、本のこと知ってるのか」


 ネイシスは舌打ちでもしそうなほどの嫌悪感を露わにしながら、イリヴァールの消えた天井を一瞥した。そしてカエトスに同情混じりの目を向ける。

 

「まったく、お前も厄介な神に目をつけられたものだな」

「……まあな。ネイシスには迷惑かけて悪いと思ってる」

「謝ることはない。呪いをかけられた要因は、私も多少は絡んでいるからな。それにお前には、私に愛を教えるという大役がある。あんなのに殺されたら困るんだ。あいつの鼻を明かすためにも、お前は少し休め。時間になったら起こしてやる」


 ネイシスの小さな腕が机の上に置いた毛布を指す。

 

「そうだな。悪いけど、そうさせてもらう。さすがに今日は少し……動きすぎた」


 カエトスは毛布を拾い上げると、寝台に横になった。

 敷布団のない寝台は寝心地がいいとは言えず、埃っぽい空気も気にはなったものの、疲労困憊だったカエトスはほどなく眠りに落ちた。

 

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