29回目:落谷浩伸<魔を封じる伝説>

 三百年前に魔術という力が失われた世界へ転生した落谷おちや浩伸ひろのぶは、柔らかな木漏れ日が降り注ぐ森の中を歩いていた。


 疲れたような顔に無精髭を生やした浩伸ひろのぶは、この森が普通ではないことに薄々気が付いていた。大地を踏みしめる足音と風に揺れる木々の音が聞こえるばかりで、虫や動物の気配は、まるで感じられない。


 だが、おかしいと思いながらも、まるで自分をいざなうかのように続く道を、浩伸ひろのぶは緊張の面持ちで慎重に進んでいった。そうして二十分ほど時間が過ぎた頃だろうか、浩伸ひろのぶの視界に一本の剣が飛び込んできた。


 大地に突き刺さった幅広の両刃の剣は、そこに突き立てられたのがまるで最近のことであるかのように、刀身は錆びることもなく、日の光を反射して輝いていた。


 剣の周りに目を向ければ、おそらく剣を囲うようにして石柱が立てられていたのだろう。いくつもの崩れた石柱の跡が時の経過を感じさせた。


「……ここは死後の世界なのか、それとも、これが噂の異世界転生ってやつなのか?」


 目の前にある剣を凝視しながら浩伸ひろのぶいぶかしげに呟く。浩伸ひろのぶは、自分が一度死んだことを自覚しているようだ。だが、彼は、女神である私の祝福によって異世界に転生したことも、この世界で為すべき使命も、まだ知らない。


 浩伸ひろのぶは警戒しつつも、ゆっくりと剣に近付いていく。この剣は、ありとあらゆる魔を封じると伝えられる封魔の剣である。浩伸ひろのぶが使命を果たすために、大きな力となるはずだ。


「大地に突き刺さった剣なんて正直言って怪しいが、しかし、ここが異世界で、これが俺の冒険の始まりなら、この剣を抜くことで物語が始まるはずだ。……そもそも、抜けるかどうかもわからないし、とりあえず試すだけ試してみるか」


 そう言って封魔の剣の柄の部分を、両手でしっかりと握り締めた浩伸ひろのぶは、一呼吸置いてから全身に力を込めた。ゆっくりと、大地に埋まった刀身がその姿を現していく。


「ぬ、ぐ、ぐ……ぬあっ!!」


 気合いの声と共に大地の鞘から剣が抜き放たれる。浩伸ひろのぶの頭上で日の光を反射した刀身が燦然さんぜんと輝いた。異世界転生した主人公が、伝説の中で語られる剣を手に入れる。これは、まさしく物語の王道だろう。


 だが、次の瞬間には刀身が黒く濁ったかと思うと、砂のように崩れ去ってしまった。


「……」


 腕を掲げた状態で、浩伸ひろのぶは開いた口が塞がらなかった。無理もない。伝説の剣が崩れ去るなど、女神にとっても想定外の出来事である。


 気が付けば、あたりは薄暗く、そして、風が強く吹いていた。空を見上げれば、灰色の雲が遠くの空まで広がっている。


「一雨来そうだな……」


 いつまでもここにいても仕方がないと結論付けたのだろう。浩伸ひろのぶきびすを返すと、来た道を戻ることにした。行く当てはないが、それでも、浩伸ひろのぶの足取りは確かなものだった。


 冷たい風が、ガサガサと木々の葉を揺らしている。どこからか、獣らしき鳴き声が風に乗って聞こえてくる。


 不安を感じながらも、森の道を一時間は歩いた頃、前方からこちらへと向かってくる人影に気が付いた。浩伸ひろのぶは歩みを止めると、しばらくして、向こうもこちらの存在に気が付いたのだろう。人影が歩く速度を落として慎重に近付いてきた。


「……女の子か」


 年齢にして十五歳くらいだろうか。まだ幼さの残る顔つきをした少女が、強い風から守るように薄緑色の髪を手で押さえながら、浩伸ひろのぶの手前、三メートルの位置で立ち止まった。


「あの、こんにちは。旅の方ですか?」


 若干の警戒心を持ちながらも、少女が声を掛けてくる。その質問に、浩伸ひろのぶは正直に答えようか迷ったが、結局、旅人の振りをすることにした。異世界から来ました、と言ったところで信じてもらえないだろうからだ。


「ああ、結構遠くからね」


「そう、なんですね」


 少女は浩伸ひろのぶの体を一瞥すると、その顔には、隠そうともしない不信感が表れていた。浩伸ひろのぶの見慣れない服装に、そして、旅をしてきた割には汚れていない外見が気になったのだろう。


 それに気が付いた浩伸ひろのぶが、言い訳をしようと口を開こうとした時だった。浩伸ひろのぶの横の草むらが揺れて、そこから異形の怪物が姿を現したのである。


「グギルルギュルウ……」


 怪物は二本の足で大地を踏みしめ、体の大きさは浩伸ひろのぶの倍程度、全身は赤黒い皮膚に覆われ、額には三本の角を生やしている。開いた口から見える牙は鋭く、細長い舌から滴る唾液が地面を濡らせば、ジュッという音とともに黒い煙が立ち上った。


 直感的に危険を感じ取った浩伸ひろのぶは、咄嗟に少女の腕を掴むと、その場から全力で駆け出した。そして、後ろを振り返ることもなく走り続ける。


「そんな、どうして魔物が……」


 荒い息と共に少女が呟く声が聞こえる。


「魔物は、三百年前に、魔を封じる剣に、すべて封じられたって、聞いていたのに」


 ……ん? 


 ……いや、気のせいだろう。まさか、少女の言う魔を封じる剣が、浩伸ひろのぶが抜いた封魔の剣であるという確証はない。浩伸ひろのぶが封魔の剣を抜いたことで、封じられていた魔物が解き放たれた、なんてことは決してないだろう。


「しまった、崖か!」


 浩伸ひろのぶの叫び声に状況を確認してみれば、二人は崖に追い詰められてしまっていた。後ろを振り返れば、重い足音を響かせながら、先程の魔物が浩伸ひろのぶたちに迫っている。


 崖は細く、横へ逃げることはできそうにない。崖下を覗き込めば、底が霞んで見えるくらいの高さがあった。そして、そうしている間にも、魔物は速度を落とさずに突き進んでくる。


 浩伸ひろのぶは覚悟を決めると少女を抱きかかえ、崖から空中に向かって身を躍らせた。少女の悲鳴がこだまする。しかし、浩伸ひろのぶは冷静に、頭の中に浮かび上がった呪文を唱え始めた。


 魔術の失われた世界で、唯一、浩伸ひろのぶだけが魔術を扱うことができる。そのための知識と魔力を、浩伸ひろのぶは持っている。


 そして、浩伸ひろのぶの呪文が完成した。浩伸ひろのぶの体から魔力がほとばしり、そして、霧散して消滅した。


「っ!?」


 驚愕の表情を浮かべた浩伸ひろのぶは、しかし、それ以上、何をすることもできなかった。次の瞬間には、大地に叩きつけられた浩伸ひろのぶと少女は、見るに耐えない状態になったのである。


 何故、浩伸ひろのぶの魔術が消滅したのか、その原因を私が知ったのは、しばらく後のことだ。この世界には二本の魔を封じる剣があるらしい。魔物を封じる封魔の剣と、魔術を封じる封魔の剣。つまり、そういうことである。


 そういうこと、だったのだ……。


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