神さまの掌で魂は童話と踊る

風嵐むげん

第零話 無題

はじまり、はじまり


「ああ、これはこれは。お久しぶりです、羽藤さん」


 そう言って、男が手元の書類を机に置いて立ち上がる。一礼で返すものの、少し皴の付いた白衣とよれたネクタイが目に付く。


「お久しぶりです、成神先生。もしかして、徹夜でもしたんですか?」

「あー、はは。ばれました?」

「医者の不養生を体現しないでくださいよ。先生が倒れられでもしたら、困るのはこの病院や患者さんだけでは済まないんですから」


 そう言って、真二しんじは机の前まで歩み寄ると手土産である菓子の入った紙袋を差し出す。それを受け取りながら、彼は困ったように髪を掻いた。

 胸元で揺れる名札が目に止まる。彼の名前は成神月冴なるかみつかさ。改めて目にした名前はやはりとても珍しく、美しい名前は一度聞いたら忘れられそうにない。

 彼自身も名前に違わず容姿端麗な男だ。艶やかな黒髪に、彫りの深い面立ち。細身だが背は高く、医者と言われなければまるで映画俳優か何かのようだ。

 目元の隈と、気怠そうな雰囲気さえ無ければの話だが。それでも、宝石のように煌めく一対の淡褐色の瞳は、見る者を引き付ける不思議な魅力に溢れている。真二よりも年上で、もうすぐ四十に届く年齢だと言うから驚きだ。


「あはは、耳に痛いです。でも、お互い様だと思いますよ、羽藤さん。お互いもう若くないんですから」

「ふふ、そうですね。それで、今日は先生に……おや?」


 真二は製薬会社の管理職、月冴は病院長。お互いに忙しい身の上をわかっているからか、早速用事を切り出そうとするも、真二の視界に思わぬものが入り込んだ。

 それほど広くはない院長室。その奥のソファに、『彼』はちょこんと座っていた。


「あの、先生。あの子は、もしかして」

「ああ、すみません。せがれです。緋月ひづき、こっちへおいで」


 月冴が名前を呼ぶ。返事はしなかったものの、少年は読んでいた絵本を閉じると素直にこちらへやって来た。まだ四歳くらいだろうか。

 月冴と同じ淡褐色の双眸が、真二をじっと見つめた。


「ああ、この子があのの」

「ははは、そうなんです。ほら、緋月。お父さんがお世話になっている羽藤さんだ、ご挨拶しなさい」

「……こんにちは」

「はい、こんにちは」


 絵本を抱き締めたまま、ぺこりと頭を下げる緋月。さらさらと揺れる黒髪に、まるで少女のような容姿が仕草と相俟って非常に可愛らしい。

 

「緋月くん、ですか。聞いてますよ、とても頭の良いお子さんだそうで」

「ありがとうございます。親馬鹿と思われるでしょうが、この子は正に神童です。少しマイペースなところがありますが、この子は必ず優秀な研究者になりますよ。それこそ、医療界における『神』と呼べる程の存在に」

「か、神……ですか」

「ええ。わたしは、その為に仕事を頑張っているようなものなので」


 思わず面喰ってしまう。親ゆえの多少の溺愛は仕方のないことだとは思うが、月冴の思いは少々度が過ぎている。

 いや、狂気と言っても過言ではないかもしれない。それとも、真二にはまだ子供が居ないから、理解出来ないだけなのだろうか。


「え、えっと……緋月くんは、絵本が好きなの? 何を読んでいたのかな?」

「……これ」

「どれどれ。へえ、『かぐや姫』か。このくらいの子でも、もう絵本を読めるんですね」

「ねえ、『神』ってなに?」


 膝を軽く折って話しかけると、緋月が不思議そうに首を傾げた。思いもよらぬ問い掛けに、真二はどう答えれば良いかわからなかった。


「え、ええっと……神さまっていうのは、その」

「緋月。神さまというのは、この世界で一番偉いんだよ」


 返答にまごつく真二を尻目に、月冴が大事そうに緋月を抱き上げた。


「お前はとても頭が良く、優秀な子だ。これから頑張って勉強をして、たくさん研究をしなさい。そうすれば、お前は誰の手も届かない絶対の存在になれる。お前が居れば、人は死を克服出来る。永遠を手に入れられる。お前は神として、世界中から敬られる存在になれるだろう」

「……神さまって、このお話に出てくる?」

「このお話って、かぐや姫にか?」


 こくんと頷く緋月。困ったように、月冴が真二を見る。あまり詳しくは覚えていないが、かぐや姫という物語に神という存在は登場しない筈。


「えっと、出てこないよ」

「じゃあ、シンデレラは? 不思議の国のアリスは?」

「うーん、どちらにも出ていないと思うけど」

「……ふうん、そうなんだ」


 緋月の視線が、手元の絵本に落ちる。そして、彼ははっきりと言った。


 幼い無邪気さと、残酷さを孕んだ声で。冷酷さを感じさせる程の笑みで彼は、


「物語に参加出来ないなんて。神さまって、とてもつまらない人なんだね」


 緋月は、『神』を否定した――

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