「きみの名前を教えてくれないか?」

「……きのした、あきこ」

「年齢と、誕生日は?」


 彼に問われて、晶子は答える。何だか前にも、似たような問答をしたような気がする。頭の中は綿が詰め込まれたかのように真っ白で、考えることすら難しい。

 だが、彼が誰であるかはすぐにわかった。


「それでは最後に、俺が誰だかわかるか?」

「……緋月、先生」

「素晴らしい。実験は成功のようだ」


 緋月が笑う。晶子は鉛のように重い身体をのろのろと起こして、辺りを見渡す。それほど広くはない室内に、晶子が入っている卵型の装置、そして反対側に同じものがもう一台置かれている。そちらの蓋は固く閉ざされており、中身を見ることは出来ない。

 だが、何となく。それを見てはならないような、妙な罪悪感に酷似した感情が胸に湧いた。


「ナギ、そちらはどうだ?」

「バイタル、計器共に異常は見られません」


 部屋の片隅で、凪が言った。視線は手元の装置に注がれており、晶子の方を見ようとはしない。何となく、ほっとした。


「……私、は」

「晶子さん、きみは今まで夢を見ていたんだ」


 訊ねる前に、まるで心を読んだかのように緋月が言った。


「きみは、この数日間夢を見ていたんだ。自分の魂を別の身体に移すという、夢をな」

「あれが……夢?」


 そうだ、思い出した。晶子は緋月の手によって魂を移植され、完璧で美しい少女の身体を手に入れた。それで、可愛い洋服を着たり街を歩いてみたり。本当に、世界が優しくて楽しかった。

 でも、ある日それは突然終わってしまった。


「魂の移植には様々なリスクが伴うからな。予め、移植を施した後の行動などを想定してプログラムされた夢を見て貰うようにしている」

「ただし、それはあくまで夢を見て頂くという風にセッティングされたプログラムなので、夢の内容までは我々にはわかりません。ですが……今後、本当に施術をした場合、相当の確率で夢と同じ予後を辿ると我々は考えています」


 凪が席から立ち上がり、緋月の横に立つ。思わず彼女の視線から逃げようと、顔を俯かせる。すると、あかぎれが目立つ小汚い両手が見えた。

 ゆっくりと握り締めて、開いてみる。間違いない、これは晶子自身の手。生まれた時からずっと見てきた、自分の手だ。

 もう認めるしかない。全てが夢だった。可愛い洋服も、緋月のことも、何もかもが夢。幻だったのだ。


「夢……あれが、夢……」


 残念だと思いつつも、安堵の方が強かった。良かった。気が弱い晶子が、まさか緋月を殺そうとするなんて。考えるだけでも恐ろしく、背中がぞわりと泡立つ。


「ふむ、きみがどんな夢を見ていたのかはわからないが……晶子さん、これが最後の確認だ。本当に魂の移植術を受けるか?」

「え?」


 そうだ、これは実験を開始する前の最後の選択なのだ。晶子が望めば、夢と同じ完璧な身体が手に入る。新たな人生を、切り開くことが出来るかもしれない。

 晶子が頷きさえすれば、家族やクラスメイトから解放される。今まで欲しかったものを手に入れられるかもしれない。


「…………」


 でも、もうどうでも良い。晶子は力無く項垂れるだけ、結局最後まで頷くことは無かった。


 ※


 翌日、晶子は現町に戻ってきた。ぶかぶかの学生服に、靴。あの日、家を飛び出した格好と同じだ。とっくに処分されていたと思ったのに、凪が律儀にも保管しておいてくれたのだそう。

 一か月近く、晶子は緋月の研究所に居た。彼と共に、同じ時間を過ごしていた。恋をした。でも、もうどうでも良かった。会いたくなかった。

 彼を殺したい、手に入れたいなどと浅はかな欲望を持ってしまったこと。全てを忘れたい、無かったことにしたい。あれが例え、夢の中のことでしかなく緋月と凪が知らなくとも。


「……どうしよう」


 これから、どうすればいいのか。決まっている。家に帰るのだ。そこが、晶子の居場所で現実なのだから。夢宮のこと、緋月のこと、全てを忘れるのだ。

 一か月も、どこで何をしていたかきっと問い質されるだろう。否、もしかしたら戻ってきたことを嘆かれるかもしれない。

 それなら、学校を辞めてバイトでもして、お金を貯めて家を出ようか。ぼんやりと、そんなことを考えていた、その時だった。


「木之下……さん?」


 聞き覚えのある声が、晶子の名前を呼ぶ。反射的に振り返って、後悔した。

 背が高くて、長いストレートの髪。晶子と同じ制服に、鞄。間違いない。


「ッ‼」

「あ、待って!」


 逃げようとした晶子の腕を、清水が左手で掴む。振り払う力も、気力も無かった。だが、清水は晶子を捕まえるだけで何もしなかった。


「あ、あのさ……今、ちょっと時間良い? 話したいことがあって」

「え?」

「えっと、待ってて」


 そう言って晶子の腕を掴んだまま、空いている右手で制服のポケットから自分のスマホを取り出し親指で操作してそのまま耳にあてた。

 そして、電話口に向かって呼び掛ける。


「あ、ミホ? 木之下さん捕まえた。場所教えるから、一人で今すぐ来て」




「ごめんなさい、木之下さん!」

 清水が電話をかけてから、三十分程。近くにあった公園のベンチで、清水が買ってくれた缶ジュースを飲みながら二人で彼女が来るのを待っていた。正確には、清水は誰が来るのか教えてくれなかったし、『ミホ』という名前に心当たりは無かった。

 でも、顔を見ればすぐにわかった。久保だ。そうか、彼女はミホという名前だったのかと思っていると、彼女はいきなり頭を下げてきたのだ。

 理由は、わからない。


「え? え?」

「木之下さんのお財布からお金を盗んだの、わたしなの!」


 久保は頭を下げたまま、全てを明かした。教室に落ちていた晶子の財布を最初に見つけたのは、久保だった。当時、辺りには誰も居なかったこと、部活で使う新しい靴が欲しかったこと。様々な欲求が重なり、とても軽い気持ちで財布からお札を抜いてしまった。その後、残された財布を清水が拾った。

 それが、真相だった。


「お金は返す! 本当ならすぐに謝りたかったんだけど、木之下さん居なくなっちゃって……ごめんね、本当にごめんなさい!」

「え、えっと……」


 目には零れそうな程に涙を溜めて、耳まで顔を真っ赤に染めて。久保は何度も何度も晶子に謝った。あまりにも突然のことでどうしたら良いかわからずに、晶子は思わず清水の方を振り向いた。

 視線があう。清水が、困ったように苦笑した。


「木之下さんの財布を拾った次の日にさ、クラスの全員に聞いて回ったの。昨日、鈴のついた財布から金を盗まなかったかって。最初は誰も名乗りでなかったけど、しつこく何日も目ェ光らせてたら久保がゲロったんだ。アタシ、見た目はこんなだけど……流石に見覚えのないことで犯人呼ばわりされるのガマン出来ないし」

「そ、そうなんだ……あ、ありがとう」


 清水の行動力に、思わず舌を巻いた。彼女は不良っぽいが、それゆえにはっきりとした気性らしい。

 ……意外と、悪い人じゃないのかも? 何より、友人である久保を少しも庇わずにここまで出来るのは凄いとしか思えない。

 他人のご機嫌を伺うだけの晶子とは違う。なんて気持ちの良い人なのだろうか。


「そういえば、アンタのおねーちゃんも心配してたよ。ずっとこの辺りを探してるみたい。何があったかは聞かないけど、アタシ達も一緒に行くからさ。全部まとめて謝りに行こうよ」


 さ、行くよ。有無を言わさない清水の強引さ、否、頼もしさに辟易しつつ。半ベソの久保と共に、三人で久し振りの帰路についた。

 晶子の心から、いつの間にか憂鬱さが消え去っていることに気が付いたのは、家に還った後のことだった。

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