研究所、正確には『夢宮大学付属精神科学総合研究センター』は、数ある夢宮大学付属病院の研究施設の中でも規模は小さい部類らしい。それでも建物自体は五階建てで、ちょっとしたアパートよりも大きい。

 しかも、どうやらこの施設には地下も存在するらしい。エレベーターに乗り込んでから、僅か数秒後。一瞬にして空気が冷たくなったように感じた。


「先生、本当に大丈夫なんですか?」


 堅く閉ざされた自動ドアの前に立つと、凪が緋月に訝し気な視線を向けた。彼女は未だに晶子を実験とやらに関わらせることを認めたくないらしい。ここまで来る間に、何度も帰るように説得されていた。

 だが、晶子は頷かなかった。今までの人生で、彼女がここまで頑なになったことなんか無い。自分でも驚いていた。


「保護者の承諾も得ずに、実験に参加させるなんて……後で問題が起こったらどうするんですか」

「大丈夫ですよ。私のことなんか、誰も気にしてなんかいませんし」

「でも――」

「彼女のご家族には後日、改めて納得のいく形で説明するさ。なに、俺もそのくらいは考えている」


 そう言って、緋月は自動ドアの横に設置された小さな窓のような機械を覗き込んだ。すぐに機械的な音声が頭上から響いて、音もなくドアが横滑りした。


「虹彩認証というやつだ。一見優れたセキュリティにも思えるが……いつ、この機械が悪戯されて眼球を焼かれないかびくびくしている」

「ああ、それは面白いかもしれませんね! 今度先生が勝手なことをしたら、この建物の何処かしらにある虹彩認証をそういう風に改造しますので!」

「やれやれ、怖いな」


 そんな会話に晶子は思わず辺りを見回すも、他に妙な機械は見当たらない。自動ドアの上に監視カメラのようなものは設置されているが、機械に詳しくない晶子にはよくわからなかった。

 ただ、そう言った凪の声に今までとは違う緊張感がある。


「では安心だな。さあ、どうぞ」


 そうして、晶子はその場所に足を踏み入れる。虹彩認証というセキュリティが施されていたとはいえ、それ程重要な場所だとは思っていなかった。頭のどこかで、学校の理科室のような部屋があるのかと思っていた。

 だから、『それ』を目の当たりにした瞬間、呼吸の仕方さえ忘れてしまった。


「な、なに……これ」


 明かりを極力抑えられた空間に、大きな柱がいくつも並んでいる。柱、というよりも筒状の水槽と呼んだ方が正しいかもしれない。特有の湿っぽく、しかし薬品の苦い空気が肺の底まで満ちていくのが生々しく感じられた。

 その水槽に入っているのが魚、或いは別の生き物が居れば少しは楽しめたかもしれない。つくづく人という生き物は、自分勝手な物差しを大事にする存在だと思い知らされてしまう。


「何、と言われればどう答えれば良いか迷うが……とりあえず、『人間』とでも言っておこうか」


 何でもないことのように答える緋月に、無表情を貫く凪に両脇を挟まれて。晶子はその中に居る『人間』に、自分がどれだけ恐ろしい場所に来てしまったのかをようやく自覚した。

 SF映画に出てくるような、水槽の中に入れられた人間。二十歳くらいだろうが、若い男の人が水の中で眠っている。身体に幾つもの管を付けて、生でも死でもない、得体の知れない何かを晶子に見せつけている。


「正確には、これは人間の『器』です。ここにある人体は全て、ただの肉体でしか無い。ですから、別に人権を否定するようなことはしていませんのでそれだけはご了承を」

「う、器?」

「きみは、生き物が死んだ時に体重が僅かに軽くなる、という話を聞いたことがあるか?」


 緋月が水槽の男性を見やりながら、そう言う。他の水槽にも、同じように人間の姿があった。女性も居れば、子供も、老人も居る。異様としか思えない光景に、晶子は立っているだけで精一杯だった。

 だから、自分の問いかけにも答えられない晶子に構わず彼は話を続ける。


「死に瀕した人間の体重を計測したところ、死亡した瞬間に二十一グラム程軽くなるという実験結果がある。それこそが、『魂の質量』であると言われている」

「しつ、りょう?」

「そう、質量。つまり、重さだ。そして重さがあるということはつまり、魂は物質であるということ。目には見えず、触れることが出来ない代物なのかもしれないが……それは酸素や窒素と同じように、入れ物に入れて運んだり保管したりすることが出来る。ということは、心臓や腎臓のように移植が可能であると考えられるだろう?」


 緋月の話は、晶子にはまるで御伽噺だった。みすぼらしいシンデレラが、お城の王子さまと結ばれるような、全く現実味の無い話なのだ。

 だが、晶子は否定出来なかった。


「そ、そんなこと……本当、に?」

「もちろん。たとえば……そうだな、例えばこの俺。『成神緋月』という男……不自然なくらいに、整った容姿をしているだろう?」

「……っ!」


 緋月の言葉に、晶子は理解した。緋月は確かに整った容姿をしている。それも、テレビや雑誌で見るモデルや映画俳優なんかよりもずっと。いっそのこと、髪の毛から爪先まで職人が丹念に仕上げた人形のようにさえ思えてしまう。冷静になって考えれば、そんな人間が存在する筈がない。

 つまり――成神緋月は、自らの身体で『魂の移植』を成功させたということなのだろうか?


「既に成功例は存在します。クライアントの個人情報保持の為に、公開は出来ませんが。成神先生は魂と呼ばれる分野においては他の追随を許さない程に優秀な『研究者』なんですよ」


 今まで静かに見守っていた凪が、緋月の言葉を肯定する。


「魂の移植が可能になれば、これまでの医療を全て根本からひっくり返すことが出来る。例えば、全身に熱傷を負ってしまった。或いは、事故で手足を失った。不治の病を患っている。そういう様々な要因によって使えない、もしくは不要となった肉体へ無理にしがみつく必要が無くなるんだ。もちろん、クライアントが望む身体を提供することも可能となるだろう。木之下晶子さん、きみにはこの『魂の移植』実験に協力して貰いたい」


 緋月が先を歩き、空間の一角を指差して見せる。その水槽には、晶子と同じくらいの女の子が居た。

 見るからに可愛らしく、人形のような女の子。もちろん、話をするどころか少女は目を開ける様子すら無い。静かに眠っているだけだ。


「ここにある身体は全て、万能細胞から作られた完全なる人工物だ。背が高く筋肉質な男も、スタイルの良い女性も思うがまま自由に製造することが可能だ。きみには好きな器を一つ、どれでも無償で提供しよう。この実験に関する費用は全て大学が負担する。きみはただ、俺の言うことを聞いて言う通りに協力してくれれば良い」

「はあ、まあここまで来たら自分も先生の秘書として仕事をしますよ。安心してください、木之下さん。先生はこんな調子ですが、貴方に危害を加えることはありませんし、実験に協力していただけるなら相応の報酬をご用意します」


 お金でもなんでも、晶子が望むものを手に入れることが出来る。凪がはっきりとそう言い放った。しかし正直なところ、晶子には凪の言葉が少しも噛み砕けていなかった。

 ただ、今の自分から変わることが出来る。そして、何よりも緋月の役に立つことが出来る。傍に居ることが出来るのだ。彼の名前すらも知らない清水なんかとは違う。こうして話をすることも、名前を呼ぶことも出来る。

 緋月に必要とされて、一緒に居ることが出来るのだ。ならば、答えなんか最初から決まっている。


「……成神さん、いえ……成神先生。そして来栖さん。私、変わりたいんです。何でもします、先生達の実験に参加させて下さい。よろしくお願いします」


 晶子が深々と頭を下げて、自分の思いを告げる。そんな彼女に、妖しく麗しい『魔法使い』がくすりと口角をつり上げた。


「ああ、よろしく頼むよ。俺の可愛いシンデレラ」


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