第2話

半期に一度行われる人事考課では、業績評価のほかに、課員の中長期的な希望職種を聞き、会社として適材適所に人材を置くための判断材料としている。

社員は組織の歯車である一方で、最大限希望を聞き入れることでモチベーションを維持することも重要だ。

一方で、会社は慈善団体ではないため、必ずしも社員全員の希望を聞き入れることができないのも、また真だ。

配置転換を伴う辞令の前には必ず社員の合意を得るのだが、首を縦に振る社員ばかりでなく、高圧的に会社側の意志を押し付け、強引に出向を命じることもある。森本のケースもそうだ。

「―森本はよう頑張っているようで、海外の若手技術員の育成に一役買ってくれた」

人事部技術指導室では、上半期の振り返りとして、全課員を対象に人事考課を行っていた。

技術指導室は、一線を退いたベテラン技術員を中心に構成されており、主に新興国工場の技術員育成を専門にしている。課員の過半数が課長級以上の管理職を経験した中枢部署となっている。

この日、就業後に会議室に呼び出された森本は、若干の緊張感を伴いながら面談に臨んでいた。

対するは、人事部のジョーこと城山丈一郎人事部長。

十月も半ばを越えた中秋の夕刻に、季節外れの半袖シャツを身に纏い、袖先からは日に焼けて浅黒く変色した筋肉質な腕が顔を覗かせていた。

ジョーは薄ら口角を上げながら森本の活躍を称えると、次のように問うた。

「森本は、将来の希望などあるんか?」

「小生は、今後とも変わらず、現在の仕事を続けたいと考えております」

森本は、自らの意志をはっきりと伝えてみせた。

「ほう、つまり若手技術員の育成に注力したいということだな」

感心したような口振りでジョーは頷いた。

四十八歳の森本は、課長代理という肩書きながら、長く若手技術員の育成に傾倒しており、特に近年進展の著しい新興地域の採用、教育を主業としてきた。

森本が担当する半導体電子技術は、新たにインドに設立した半導体工場、さらに岐阜本店工場から工順を移管したタイの組立ラインなど、それぞれ百人ものエンジニアを現地採用し、森本は慣れない言語環境の中、生産立上げに寄与してきた。

その甲斐もあってか、インドでは安徳工機としては世界最大となる年間六十万台もの重電用基板を製造し、世界中の重電メーカーに製品を輸出している。

重電基板分野における安徳工機の市場シェアは五割を維持し、稼働率は常時百パーセントを超え、需要に対して生産が追いつかない状況だ。

日本から遠く離れたインドで、嬉しい悲鳴が続く。

そんな好況もあってか、森本は自身の評価に対して、少なからず自信を抱いており、まさか自分に出向の矛先が及ぶなど、予想だにしていなかったのである。

ジョーの質問に対し森本は声調を整えると、次のように言った。

「ええ、私は技術員教育にこの上ないやりがいを抱いております」

「なるほど、今はグローバル化の時代や。インド、タイでの雇用創出に加え、更なる新興国で採用を増やす可能性はある。人事は世界共通、教育も世界共通、なぜなら製品品質が世界共通だからや」

「ご尤もでございます」

ジョーは至極、満足した様子で、森本の業績を称え続けた。

安徳工機が製造する電子基板は、船舶、プラント、建設機材、工機などの大型電機系統に用いられる。大量生産、大量輸出の時代において、高い品質水準が要求される重電分野は、精度保証に細心の注意を払う。森本の貢献もあり、国内同等品質の製造技術を新興国に水平展開したことにより、価格競争力が向上、安徳工機は各国の顧客から絶対的な信頼を勝ち取っていた。

ジョーの質問は、仕事だけでなく、私的な内容にも及んだ。

「技術員教育に際して、インドやタイに何度か出張したみたいやけど、感触はどないやった」

「ええ、彼らは非常に活き活きしておりますし、ハングリー精神があって、正直、日本人の新卒よりも覚えが早いのではないかと感じております」

森本は、自ら海外を行脚して目の当たりにした事実を、余すことなく伝えようとした。

「ほう、そうか、君も然様に思うか。たしかに、最近の若者は覇気がなく、兎角、情報過多であるため、仕事に対してネガティブな先入観を持つ者が多い。一方、新興国の技術員は勤勉で貪欲だ、彼らの方が覚えも早いし、前向きである」

森本の発言に対し、ジョーは調子を合わせながら頷いた。

一方でその裏には、森本の本心を引き出そうという下心が介在していたのも、また真である。

ジョーは、束となった書類を見詰めながら、

「繰り返すが、来年以降も海外の人材育成を頑張りたいと?」

と念を押すように問うた。

「ええ、そうです」

森本が固く自分の意志を表すと、それを見てジョーは、様子を伺うように、敢えて遠回しに話題を逸らして言った。

「ところで、インドの生活はどうだった?」

森本は、インドの新工場設立には特に熱を入れており、今年も月に一度のペースで出張を重ねていた。

ジョーの問いかけに対し、森本はインドでの生活環境について、言葉を濁しながら説明した。

「インドは、衛生面にはまだ課題がありますね。コルカタなど都市圏はまだマシですが、地方に行けば公衆便所も無いですし、未だに用水路に板を敷いて用便を足している実情です。上下水道設備もなく、そのため水も満足に飲めません。ミネラルウォーターも信頼出来ないので、一度、煮沸させて冷ましてから飲むなり、嗽薬で薄めて歯を磨くなど、衛生管理には気が抜けません―」

「そうかそうか、よく分かるぞ」

森本の弁に熱が入ると、ジョーは森本の体調を気遣ってみせた。

「正直、森本くらいの年齢になると、毎月のようにインドに出張というのも、体力的にきつくないか?」

「ええ、まあ。しかし小生はまだまだ若く、体力があると思っておりますよ」

「それは心強い、君のような優秀な技術者が、海外の一線で活躍してくれるのを誇りに思う。しかし、長距離移動の連続も疲れるだろうし、人事として、何か良い手はないかと考えている」

「お心遣い頂き、誠にありがとうございます」

人事部長たる雲上人の気遣いに、森本は身に余る思いがした。

会社のために身を粉にして働く森本は、サラリーマンの鑑である。

滅私奉公こそが美徳と考える人事部にとって、森本の献身的な勤務態度は賞賛に値すべきだろう。そんな森本を前に、ジョーは、深く考えるような、わざと難しそうな顔をした。

「電子技術は安徳工機として最も注力すべき分野である。技術的優位性が高いが、一方で基板市場は、他メーカーも競争に凌ぎを削っている。そのため我々は新規参入し難い船舶やハイテク重機用基板に注力することで、市場占有率を上げてきた。これらの分野は、今後も成長が見込め、そういった意味でも、インドの基板工場は、我々にとって最も重要な拠点と考えている」

会社の経営状態や市況を鑑みて人材を配置するのも、人事部長の重要な役目である。

ジョーという男はまさにそうした重要なポストに相応しい人望と先見の目を伴っていた。

「インドかぁ、ワシも工場で現場監督者をやっていたとき、何度か海外出張を経験したが、インドだけは合わんでなぁ」

ジョー語調を変え、腕組したまま仰け反ると、昔を懐かしむように云った。

「高級ホテルは勿論、空港のミネラルウォーターですら怪しい。カレーは水が使えんため油を代替にし、蛆の沸く古米を蒸かして食うのだ。食事が合わなくて、日本から乾麺や米を持っていき、お茶漬けにして食うのだ」

「ええ、私も、インド滞在中は同様の食生活ですよ」

「せやろ。しかし、完璧に対策しても、気を抜くとすぐに腹を下す。日本人みたい潔癖人種は、インドの環境に耐性がないのや。一度腹を壊すと、まさに滝のように糞便を垂れ流す。しかも、そのトイレというのも汚くてだな、小川に板が敷いてあるだけの便溝は、夏の間は不特定多数の便が溢れ、反吐が出るほど臭く、それが原因でまた具合を悪くして腹を下すという悪循環で、一週間で五キロも減量した」

従業員にとって重要な査定の場である人事面談を、上司の糞便談話に時間を費やされるとは心外であるが、森本にとって部長という肩書は雲上の存在であることに変わりなく、森本は「うんうん」と頷きながら、ジョーの昔語りに耳を傾けた。

「軟便のときは長時間の会議や外回りがキツくてな、ハルディア周辺は延々と田畑が広がる田舎のため、公衆便所もないし、中には勤務中に失禁する者もいて、換えの下着や成人用おむつなど、兎に角買い込んだもんよ。おむつなど、八十過ぎて介護が必要になるまで使わんと思っていたが、ところがどっこい、インドでは重宝した、オムツ無しの生活など考えられん。インドに行くまでは、自分の糞便などまじまじ眺めたことがなかったが、実は便というのはほとんどが水分でな、吸水性ポリマーに水分が取られると、忽ち糞便がガチガチに固まるんだよ。ほんで尻の周りにはビッシリと糞便がこびり付いてな、ホテルで尻を洗うまで違和感が残り続けるんだが、それもまた、二週間もすれば自然と慣れるのだ」

終わりを見せないジョーの糞便談話に耳を傾けながら、たしかに自身もインドでは食事や用便など特に気を遣っていたことを思い返すと、森本は懐かしい思いすらした。

インド人は親日家で仕事に貪欲だが、唯一どうしても、我慢できないことといえば、インドにおけるトイレ事情であった。

「不衛生な用便環境で糞便も碌に出来ないもんだから、日本人出向者にはインドが断トツの不人気でな、インド支社で人員が欠けると、次は俺か私かと、皆、戦々恐々とするんだ。ほんで人事面談をすると、顔を背けながら、俺には家族がいるとか、死にかけの両親の世話をしてるとか、尤もらしい言い訳をして出向を回避するんだ。基本的には人事は三年ローテーションだが、こればかりはワシも経験上キツイことを知ってるから、人選がなかなか決まらなくてな。そんな過酷な環境に何度も挑戦する君の存在が誇らしいよ」

用便に限らず海外での生活は孤独が付き纏うため、出向というと怪訝な反応を示す社員が多い。

特に最近は海外の生活情報がインターネット上に飛び交っているため、日本を離れたがらない社員の割合が増えているときく。

海外に盲目的な憧れを抱いていたのは昔の話。ジョーは日頃から、なかなか決まらない海外人事に頭を悩ませていた。

「そこで折り入ってお願いなんだが―」

漸く糞便談話を終えると、落ち着き払ったようにジョーはにこりと口角を上げ、突然、次のように森本に持ち掛けたのだ。

「森本、来年からインドに行ってくれないか」

「え?」

突然の海外辞令に、森本は目を丸くして驚いた。

「ち、駐在ですか?」

森本が聞き返すと、ジョーは表情を変えず平然と続けた。

「ああ、はっきり言って君は卑屈だし、部下にも上司にも人気はないし、大して人望もなく、技術屋としての知識も平均以下だ。どうせ日本にいても仕事がないから、インドで頑張ってくれないか」

突如、繰り広げられる罵詈雑言の嵐に、森本は閉口した。

「インド駐在は高い赴任手当が出るし、買ったばかりのマンションのローン返済にも都合がつくだろう。君は見るからにハゲでチビだから、これ以上、横浜にいても仕方ないよ。横浜は都会過ぎるというか、君みたいなずんぐりむっくりした中年ハゲには環境が良過ぎる。君にはインドくらいが最適だ」

森本は呆気にとられ、暫し絶句し続けた。

先ほどまでの一方的な称賛の言葉は、インド出向を言い渡すための布石なのだと、森本は漸く気付かされたのだ。

「心配するな。インドに行けば、赴任手当に加えて、寮や食事は最低限用意される。それに、現地の工場の環境は劣悪だから、他の出向者達も、君みたいに何らかの精神疾患を抱えている者ばかりだ、精神病仲間同士気が合うだろう、仲良くしてくれよ」

ジョーは森本の健康診断結果をチラつかせた。備考欄には「精神疾患の疑いあり」と記されていた。

無礼過ぎるジョーの言葉に森本は呆気にとられ、一点にジョーの顔を見据えたが、ジョーは気にする様子もなく、さらに続けた。

「大丈夫、駐在員生活も娯楽を見つければ案外慣れるものだ」

まるで森本の出向が決定事項のように云うと、束となった書類の山から、ジョーは旅行冊子を取り出した。

「コルカタの風俗は衛生面で心配があるため日本人には人気がないが、コルカタからバンコクまでの国際線が格安で出ているから、月に一度程度の渡航であれば金銭的な負担もない、赴任手当で十分にペイできるぞ」

ジョーは嬉々と旅行冊子を捲って云った。

よく見ると、東南アジア諸国の風俗案内誌のようだ。

「たまにインド洋あたりに格安旅客機が落ちたというニュースがあるけど、どうせ君が死んでも悲しむ人はいないだろうから心配ないな。バンコクでは若い売春婦を抱ける。君はチビでハゲだから、日本にいてもまず女は寄り付かないから、海外にいた方が寧ろモテるだろう」

誰もが行きたがらない国への出向において、部下に対する説得は困難を極める。

そこで、「君は優秀で選ばれたのだ」、「他の社員には任せられないのだよ」、「君しかいない」、「待遇が良い」…等、安徳工機には『部下を出向する常套句一覧』たるマニュアルすら配布される有様だった。

ジョーは『バンコク~夜の歩き方~』を森本に差し出すと、他の観光ガイドを次々と取り出し、嬉々と話し続けた。

「インドはいいぞ。娯楽が沢山ある。クリケットやインド映画、紅茶や放牧も盛んだし、なんならスパイスを調合して独自のカレーを作ってもいい。どうせ家に帰っても嫁や子供に煙たがれるだけだろう。磯子の狭いマンションより、駐在員住宅の方が断然、広い。家族もどうせ父親なんて必要にしてないから、互いに好都合じゃないか!」

一方的に畳み掛けるジョーに対し、森本は遂に重たい口を開くと、必死に反駁してみせた。

「とはいえ、家族もおりますし、購入したばかりのマンションを僅か三ヶ月で手放すとは、どうしても気が向きません。日本にいて出張をしながら現地人を教育する方法もあります」

「たわけ! 御託を並べるな、このゴミカス!」

バンっと机を叩く音が会議室に木霊した。

「家族? 家? そんなもん誰でも持っておるわ、理由になっとらん!」

「そ、そんな…」

「無能な社員が権利を自己主張するなど言語道断、はっきり言って貴様より能力のある社員は腐るほどおるから、これ以上、本社に置くことなんて出来んのだよ!」

ジョーは拳を突き上げ、語気を荒げた。

無茶苦茶な理屈に勢い負けて再び森本は黙り込むと、ジョーは再び声調を和らげ、さらに説得を続けた。

「あんたの嫁はんも三十後半や。妻を妻として愛せるのは結婚してせいぜい十年くらい、熟年夫婦になってしまえば、勃つもんも勃たへん。逆に離れて暮らしとった方が、有り難みがあってええんや。また高校生の娘がいるようだが、年頃の女の子にとって、父親なんておらん方がかえってええんやで。ワシなんか、あんた位の年のときは海外出張続きで、久しぶりに自宅に帰ると、いつの間にか子供が大人になっとった。せっかく建てた家も長いこと住んどらんと、知らぬ間に埃が溜まって新築の匂いが薄れる。悲しいかな、しかし、どこの会社も同じや、サラリーマンに転勤はつきものや。ええか、あんただけ特別扱いは出来んのや。人事の方針は、三年でローテーション。ええか、人間は変化を嫌うもんや。特に四十過ぎると配転に難色示すようになる。ほんで家庭がどうとか難癖つけて、絶対に動こうとせん。ええか、家庭なんてみんな持ってるんやで、言い訳にならんぞ」

京浜東北線の磯子駅から徒歩十五分の高台にある四千万円のマンション。

3LDK、七十五平米、家族暮らしには若干の手狭ではあるが、森本にとってみれば、憧れの新居に違いはない。

入社以来、岐阜と横浜、時には海外も行き来した森本にとって、自宅を購入する意気など一向に湧かなかったが、四十代も後半に差し掛かり、いつまでも賃貸生活は情けないと、漸く重たい腰を上げてマンションを購入したはいいものの、会社が斡旋する低金利ローンは人事に筒抜けで、購入して僅か三ヶ月でインドへの異動命令。森本は当然、断ってみせたものの、ジョーに言わせてみれば、人事は基本的に三年でローテーション、例外は認めない。

「なんやねん、悲劇のヒーロー気取ってんか」

ジョーは、どんよりと落ち込む森本を鼓舞するかのように、話題を変えてみせた。

部下のモチベーションを上げるのも上司の役目。今度は森本の私的な事情に足を踏み入れてみせたのだ。

「話は変わるが、あんなのカミさん、旦那の見てくれには反して、随分と若くて美人じゃないか」

話題が家族へと及ぶと、森本は俯いていた顔を上げた。

「岸和田の出身で、昔本社が大阪にあったとき、ギャラリーで受付嬢していた時に声を掛けたらしいな」

「なぜそんなことを」

森本は驚き様に問うと、ジョーはふっと鼻で笑って面を上げた。

「ええか、人事はなんでも知っておる、貴様がどこの出身でどんなカミさんと結婚して、全部記録してあるんや。あんたのカミさん、まだ年も三十代やろうし、遊びたい盛りやから、カミさんからしても、あんたがいない方が悠然と男遊び出来てええんやないか」

「私の妻は浮気なんて絶対にするような人ではありません!」

森本はきっぱりと否定してみせたが、ジョーは首を振って応えた。

「いいや、んなことあらへん、あんな綺麗な奥さんが、こんなチビでハゲた小汚い男の逸物だけで満足できると思うのか? 女という生物は、恋をすると綺麗になる。久しぶりに日本に帰国して、嫁はんが生き生きしとったら、あんたも嬉しいやろう。間男に抱かれて、あんたの知らんテクニックを覚える。無論、子供が出来たらきちんと遺伝子検査をしといた方がいいぞ、きっと貴様の子供でないからな、がはは」

「なんて失礼な人なんだ、言っていいことと悪いことがあるぞ」

温厚な森本も、さすがに怒りを隠せず立ち上がると、それを見たジョーは「些細な煽りに対しても感情を抑制できない」と、森本の人事記録に記入する素振りをみせ、暗に脅してみせた。

安徳工機の人事評価は減点方式。コンピュータ管理の時代、人事部長に逆らえば、その記録は末代まで残り続けるのである。

「あんたはあんたでバンコクの売春婦と遊ぶ、カミさんはカミさんで間男と遊ぶ。互いにスリルがあって充実した人生が送れる」

ジョーは徐に立ち上がると、本社会議室の窓外に広がるみなとみらいの夕焼を眺めながら、ひっそりと語りかけた。

「森本、熟年夫婦に必要なんは、何だと思う?」

問い掛けるジョーに対し森本は無言を貫くと、ジョーは勿体ぶったように一呼吸置いてこう言った。

「背徳感じゃよ」

「背徳感?」

森本は、意味も分からず問い返してしまった。

「ああ、そうだ、背徳感。その年になると普通の恋愛もできんし、だいいち妻子持ちに女は寄り付かん。なにより君はハゲでチビだ」

「ハゲは余計です」

森本は薄くなった額に手を当て云った。

「岐阜にも金津園があるが、はっきり言ってバンコクやパタヤに比べたら雲泥の差。そこで自分の娘ほどの若い少女と色恋に落ちるのだ。貴様の中には、家族を裏切ってはいけないという気持ちと、目の前の少女を抱きたいという二律背反の気持ちが湧くだろうが、それを楽しむのじゃ。要は、背徳感だよ」

背徳感、それは人道を外れ後ろめたいという罪悪の感情を表す。

まさにそれこそが高齢の情事に一抹の刺激を与えるスパイスであるのだと、ジョーは説いたのだ。

時刻は夜七時を過ぎ、先ほどまで情熱的な橙色を呈していたみなとみらいの風景も、すっかり夜景に包まれた。

面談を終えたジョーは会議室を出ると、背中越しに言ってみせた。

「いずれにしても、貴様のインド行きは逃れられん、郷に入れば郷に従え、サラリーマンは会社の駒に過ぎんのや」

そうやって独り会議室に残された森本は、横浜黄昏の中、言い様もない孤独に包まれ嗚咽したのだった。

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