2. カラネとアガタ
「……よくみると女の人なのね」
制服の少女はアルトゥール様の顔をまじまじと見つめてつぶやきました。
「おや、判る? 勘がいいね。でも、普段はアルトゥールって名乗ってるんだ」
「私はカラネ」
「カラネちゃんか」
ちょうどそのとき路面電車が大通り前に着きました。
降車しようとチェシャが踵を返しましたが、立ち止まりました。はい、アルトゥール様が降りようとしない雰囲気でしたから。
「今日は降りないの?」
「もう少し話してみたくなった」
アルトゥール様はチェシャに訊きました。
「いいだろう?」
従者たるもの、主をほったらかしにして帰る訳にもいきません。
「じゃあ、素敵な処にご招待するわ」
カラネさんが笑みを浮かべました。
路面電車から降りると、カラネさんが街の向こうを指差しました。
「こっちよ」
しばらく道なりに歩くとやがて丘陵地に差し掛かり、住宅街に入りました。生垣を巡らした家並はちょうど花開く時期で、蜂が蜜の匂いに誘われ飛びまわっています。
「へえ、旅を続けてるんだ」
「追いかけっこみたいなものかな。捕まえたと思ったら、ひらりとかわされて、また追いかけて。その繰り返し」
アルトゥール様は苦笑しました。
「どんな人?」
カラネさんは興味津々です。
「うーん……カラネちゃんは近づかない方がいい」
後ろにいたチェシャはその言葉にくくっと笑いました。カラネさんはどうしてチェシャが笑ったか分からないようで、小首を傾げました。
「だって、きっと君は美人になるもの」
率直な言葉でしたが、カラネさんははにかむと肩をすくめました。
「いや、だから変な虫がつかないようにって話」
ええ、でも、確かにカラネさんは楚々とした美しい娘になりましたよ。
そんなとりとめのない会話を交わしていましたが、一軒の家の前でカラネさんが立ち止まりました。
「ここよ」
三十代半ばくらいの年齢でしょうか、どこかカラネさんと似た面立ちの女性がアルトゥール様とチェシャを迎えました。叔母のアガタさんです。
「あなたたちね。どんな人たちだろうと思ってたの」
ゆるやかにウェーブした長い黒髪とほっそりとした腕や指先、フリルのついたブラウスにゆったりしたプリーツのスカートが落ち着いた雰囲気で優美なシルエットを描いています。
「はじめまして、アルトゥール・コインブラと申します」
「オトゴサのチェシャです」
アガタさんはカラネさんから奇妙な二人組の話をよく聴かされていたようです。
「しがない旅人です」
と、アルトゥール様が口にしたそのときです、犬小屋から柴犬が飛び出してきました。
ワン! と勢いよく柴が吠えたその瞬間、アルトゥール様は青ざめた表情となり、いきなり気をつけ! と耳元で怒鳴られたように身体が硬直してしまいました。
「どうかしたの?」
「いや、その……どうも苦手なんだ……犬は……子供の頃……吠えられたことがあって」
いつもの強気なアルトゥール様はどこへ行ったのやら、しどろもどろです。
旅の途中、山や森の中を進むときは、チェシャが調合した犬避け・狼避けの香水をつけていたのですが、クシロの街に来てからはすっかり疎かになっていたのです。
え? じゃあ、どうしてジネディーヌ様は犬を連れていないのか? それは追うものと追われるもの同士の仁義というか情けとでもいいましょうか、むしろアルトゥール様の乱入をどこか楽しんでいる風でしたから。
「大人しい犬だもの、大丈夫よ」
カラネさんは柴の首紐を犬小屋から外して握りました。
アルトゥール様は益々青ざめ、額には脂汗が滲んできています。
カラネさんに引かれた柴はアルトゥール様の足元に鼻を寄せるとくんくん嗅ぎはじめました。
ええ、犬がそうしたときは大抵の場合大丈夫です。柴犬はしっぽを振り、アルトゥール様にじゃれつきはじめました。
「ほらね」
アルトゥール様は気をつけしたままでしたけれど。はい、それからというもの、アルトゥール様は犬避けの香水を欠かしませんでした。
庭に面したテラスでお茶会です。
この辺りの住宅街は丘陵地の上にあって、その先は砂丘へと続きます。開放感のある景色をテラスから眺めることができて、自然と会話もはずみます。
アガタさんが紅茶を淹れてくれました。
「いい匂いだ」
すっとアルトゥール様が鼻を利かせました。暖かく柔らかな香りです。
「どうぞ」
カラネさんができたばかりの焼き菓子を並べてくれます。付け合せに砂糖漬けの果物も皿にたくさん盛られています。
「わぁ」
香ばしい匂いが漂って、チェシャはほくほく顔です。
「アガタ叔母様はお菓子づくり得意なのよ」
早速アルトゥール様が一つ摘まみました。
「本当だ。美味しい」
「何か秘訣でもあるのでしょうか?」
チェシャが尋ねました。はい、こういうちょっとしたコツやレシピをいつもノートに書き溜めていましたから、興味津々です。
「特別なことは何も」
「愛情だよね」
カラネさんに言わせれば、相手に美味しく頂いて欲しい、その気持ちが大事なのだそうです。
「そうね」
アガタさんは笑みを絶やしません。
なごやかなお茶会で、アルトゥール様は幼い頃レオノーレ様の隣にちょこんと座って姉さま方や従姉たちが楽しそうにおしゃべりしていたことをふと思い出したそうです。
帰り道、小さい広小路に続く細い路地をアルトゥール様とチェシャが並んで歩きます。
「アガタさんって独身なのか」
詳しい事情は知らないものの、アルトゥール様にとってそれは意外な事実だったようです。アルトゥール様はその年十八歳でしたが、独身をずっと通す将来が想像できなかったそうです。ええ、旅を無事続けるため男装してはいますが、心は乙女のままですから。
「美人だから、却って高嶺の花にみえてしまうのかもしれませんね」
「……ジネディーヌが好きそうなパターンだ」
チェシャの言葉にアルトゥール様は頷きました。そう、ジネディーヌ様は女性のほんのちょっとした心の隙間にいつの間にかすっと入り込んで心を奪ってしまうのです。
そんな会話を続けながら歩いていたアルトゥール様の足がつと止まりました。
思わず見つめたその先、空の彼方に目をやると、見覚えのある白い気球がタンポポの綿毛のごとくふわふわと漂っていくではありませんか。
「……いかがなさいます?」
「……ここは見過ごすとしよう」
怪しげな気球はクシロの街には気をとめず東の方へと漂っていき、やがて白い風船が雲にまぎれてしまいました。
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