7. 恋文

 終業時間となった甘味処トバツでは暖簾が下ろされ灯りが消えました。


 店の二階はノビルさん一家の住居になっています。そのノビルさんは夜気を吸いにバルコニーへ出ました。


「どうしたんだろう、この気持ち……胸が痛い」


 ぼんやりと月を眺め、胸を押さえます。脳裏にアルトゥール様とシュンスケさんの姿が交錯し、心が揺らぐのを抑えきれません。


 と、声がしました。


「――お嬢様、お嬢様」

「誰?」


 はっとしたノビルさんは思わずその低くくぐもる声に応えてしまいました。


 はい、バルコニーの下にいたのはワンチョペです。ジネディーヌ様からの恋文を届けに来た次第です。


「さる高貴なお方からの手紙をお届けに参りました」

「手紙?」


 ノビルさんは思いがけない言葉にきょとんとした表情になりました。


 まだ一度も顔を合わせていないのに随分気が早いですね。でも、ワンチョペの見立ては不思議と確かなものだったそうです。


 恋文の写しを手にすると、ワンチョペは普段のだみ声とは違う朗々とした声で滔滔と読みあげはじめました。


「おお、名も知れぬ麗しき少女よ、あなたの黒髪は濡れたごとく艶やかで、白磁の肌がバラ色にほんのり色づき私を惑わせる。穏やかな眼差しは凍てついた私の心すら溶かしてしまい、甘い囁きはこの上なく心地よい響きとなって私の脳をとろかすだろう――」


 でも、あながち誇張ではないのですよ。実際ノビルさんは艶やかな黒髪できめの細かな肌の持ち主でしたから。


「――私はユニコーン。汚れなき乙女の膝元でまどろむことを許されるなら、いかなる障壁を乗り越えてでもあなたの許へと馳せ参じるであろう。私の傷を癒すのはあなたをおいて他にない」


 ワンチョペが読み終えました。


 ノビルさんはワンチョペのおおげさな語り口に耳を傾けていましたが、やがてくすくすと笑いはじめました。


「時代がかったラブレターなのね」

「ジネディーヌ様渾身の一枚でございます」


 ワンチョペは彼の似顔絵と恋文を揃えて細い竹竿の先に挟むと、そろそろとノビルさんに渡しました。


「あら、ハンサムな方ね。どんな人なの? そのジネディーヌさんは」

「アフランシ稀代の漁色家――もとい、理想の女性を追いさ迷う求道者でござんす」


 ワンチョペはそんな主人の従者であることが誇らしくてたまらないという顔つきだったそうです。


「じゃあ私が理想の女性?」


 ノビルさんは悪戯っぽい笑みを浮かべました。


「ジネディーヌ様ならばきっとあなたを淑女として磨き上げることでしょうよ」

「夢のようなお話ね」

「夢のまま終わらせはしやせん。ときに、名も知れぬ少女ではこのワンチョペ、主の許に引き揚げることができやせん。あなたのお名前をば――」

「ノビルよ」

「ノビル、野に咲く蒜のように鮮烈なお名前の持ち主でやんすね。しかと聞き届けやした。では――」


 そういい残すとワンチョペの姿は夜の闇にまぎれて消えました。


         ※


 翌日――


「マイヒメタケ?」


 在庫がこの店にないか尋ねられたシズメさんは棚のあちこちや裏の倉庫を確認して回りました。


「うーん、生憎切らしてるわねぇ」

「この近くで生えているところはありますか?」

「山奥に入ればそこらに自生してるはずだけど、崖に生える茸だから危ないわよ」


 そう答えたシズメさんにチェシャは自信ありげに微笑んでみせました。


 ところ変わって、ヨノヲスの街の大通りです。


 学校がひけたノビルさんが帰りしな路面電車から降りようとしたそのとき、電車に乗ろうと待っている背の高い一人の男と目が合いました。


 この人、どこかで知っていないか? ノビルさんは男の顔をよく見ようとしました。ほんの一瞬ですが瞳と瞳が見つめあい、とび色をした男の瞳に吸い寄せられるようにノビルさんは惹きつけられてしまったのです。


 電車から降りたノビルさんが振り返ると、長身のその男は、小柄で固太りの中年男を従え車内に進んでいきました。


 ――あれがジネディーヌさん。一瞬のことだったのに、とても長く見詰め合っていたようだった。


 体が震えます。自分はあのとび色の瞳を覗き込んだ。しかし、私も覗かれていたんだ。魅入られるとはこういうことか、心臓の鼓動が高鳴り耳元にまで届きます。頬はばら色に高潮し、乙女心がぐらつくのが抑えられません。今一度みたらきっと虜になってしまう、どうして? 話したことさえないのに。どうしたんだろう、私。ノビルさんの胸中で様々な想いが去来しました。


 ノビルさんは走り去っていく路面電車の窓から覗く男の後姿を無言で見つめ続けました。次の路面電車が停まってようやく我に返るまでその場で立ち尽くしていたのでした。

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