2. ノビルとシュンスケ

 それから数日、空に目をやると気球がゆったりと東に向かっていました。


 白い風船は澄み切ったセルリアンブルーの空によく映えます。


 バスケットに乗っているのは二人。ジネディーヌ様ともう一人、背は低いけれど固太りで赤鼻の中年男がいて、麻製の質素な上下にメッシュのベストを羽織っています。はい、その男がワンチョペという名の従者です。


「アルトゥール様を置き去りにするとは、ご主人も人が悪うござんす」


 下卑た笑いを口許に浮かべながらワンチョペはバーナーの操作をして風船に熱い空気を送り込んでいます。


「あやつは放っておけ。どうせ自分でなんとかする」


 ジネディーヌ様はアルトゥール様がどうなったか一切関心がないようです。


 下界に広がるのはアが国。いわゆるハポネです。緑豊かな島国ですが、行く手に大きな街が見えてきました。


 ワンチョペが望遠鏡で街の様子を探ります。


「あの街はいかがでやんしょ?」

「ふむ、牢獄暮らしはさすがに堪えた。しばらく英気を養うか」


 ジネディーヌ様の言葉に合わせるように気球は眼下の街へとゆっくりと降下していきました。


 彼らが降り立ったのはヨノヲスという歴史ある街で、復古調の家並が続いています。


 古風なのには訳があります。後で話しますが、アルカイック様式と呼ばれる時代なのです。


 街の中心に石造りのいかめしいホテル・ヨノヲスが建っています。街一番の高級ホテルで、そのまた最上階のスイートルームにジネディーヌ様の姿がありました。


 脱獄して間もないジネディーヌ様ですが、上物の襞胸つきのシャツと羊毛製の長ズボンに着替えてくつろいでいます。獄中生活で伸びた栗色の髪はそのままですが、無精ヒゲはきれいに剃られてこざっぱりとした姿です。


 ソファに横たわって脚を組むと、丁寧に磨き上げられた上物の革靴がにぶく黒光りしました。


「さてと、ワンチョペ――」


 おもむろにジネディーヌ様が口を開きました。


「何でござんしょ?」


 ワンチョペは何の気なしに尋ねます。


「早速だが下見に行ってこい」


 その言葉にワンチョペは露骨に嫌そうな顔をして、厚い絨毯の引かれた床にへなへなとへたり込みました。


「ご主人、お願えでござんす。明日にしましょうや。私ぁ、気球の操舵に後始末、宿の手配に衣服の調達とてんてこ舞いで。疲れが骨身に染み込んでこの通りでやんす」

「この一月程、女日照り。荒ぶる魂がうずいてしようがない」


 また病気がぶり返したようです。


 ワンチョペは懐から手帳を出すと、いかにも使い込んだ風な黄ばんだページをめくり、読み上げはじめました。


「ガリアで四十一人、ブリタニアで三十三人、ゲルマニアで二十五人、ルーシで八十八人、ヘラクレスの柱を抜けてアメリゴじゃ百六十人。アトランタにキャンベリア、ウルス、ターキー、エジプタス、イスパニヤ、ペルシャ、テンジク、シャム、カラ、コマ、ハポネ……〆て九百九十九人でさあ」


 つまり、ジネディーヌ様はこれまでに九百九十九人の女性を奪ったというかとっかえひっかえした訳です。ええ、もちろん牢獄に入れられていたのも刺客に襲われたのも、全てそれが原因です。


「千人まで残すはあと一人。今度こそ、理想の女性が私を待っている」


 矢も楯もたまらない、心がはやり体がうずいてならない……とかく男はそういうものですが、ジネディーヌ様は人一倍、いえ十倍も百倍もそうなのです。稀代の漁色家と噂される所以です。


 またいつもの病気だとうんざりしつつ、ワンチョペもさらっと言い返します。


「どんな上玉も三度で飽きるジネディーヌ様。今度も同じでやんしょ」

「なにをいう。さあ探して来い。さもなくば骨身に染みるほど酷くぶつぞ」


 眼光鋭いジネディーヌ様にじろりと睨まれては、さしものワンチョペもぶつくさ文句を垂れながらスイートを出ていくしかありません。


「たまにはおすそ分けも欲しいやね」


 ええ、実際三度で飽きたかどうかは知りません。ですが、どんな女性であっても深く知れば知るほど彼は醒めてしまったのです。ありもしない理想の女性を追いかけては周囲に散々な迷惑を撒き散らし、それでもあくまで己の信ずる道を軍隊アリの群れさながらに邁進するのがジネディーヌ様なのです。


 そんなこんなでホテルを出たワンチョペは痛む脚を引きずり引きずりヨノヲスの街に繰り出しました。


 天気もよく、空は青く澄み渡り日差しの穏やかな一日でした。


 イチョウの並木道は人通りで賑わい、露店から何やら美味しそうな匂いが漂ってきます。


 恋人たちはのんびりと互いの時間を共有し合い、少年や少女たちは次はどこにいこうか考えを巡らしています。


「おお、嫌だ嫌だ。こんなお勤め、早くお暇いただきたいもんだ」


 それならどうしてジネディーヌ様の許から逃げ出さないのでしょう、並の者では彼の従者は勤まらないのは確かです。


 首と顔はそのままに、ワンチョペは両の瞳をちらちらと左右に動かします。視線の先にあるのは娘たち。年頃の娘はつぼみが一気に花開くように華やぎ美しくなっていくものですが、誰かこれはという娘はいないものか、街をゆく乙女たちを密かに物色します。あの娘、この娘……そうしてワンチョペは一人一人まぶたに焼きつけていくのです。


「この街は可愛い娘が多いのう。が、まだまだつぼみ。手折るのは野暮というものだあね」


 誰かに見られてる、そんな視線は得てして悟られ易いものですが、そこは流石にジネディーヌ様の従者を務めるだけのことはあります。娘たちには決して気取られぬよう密かにじっくりと観察するのです。


 と、一人の少女が前を通り過ぎました。


 はい、彼女がノビル嬢です。ショートボブカットの艶やかな黒髪が色白できめの細かい肌を引きたてます。確か十六歳でしたが、歳の割に発育がよいというかグラマーな体形がやや青みを帯びたグレーのワンピース越しに伺えます。アンダーに紺のラインが一本、胸元を引き締めています。


 案の定、ワンチョペの邪な視線はノビルさんに釘づけとなりました。


 ノビルさんの向かった先は公園でした。ヨノヲスの街にはあちこちに公園があって、気軽に緑と触れ合えるよう配慮されています。


 目的地は鴨池と呼ばれる小さな池のほとりでした。冬になると渡り鳥がここで羽根を休めるのでしょう、今は鳥の姿はなく、小魚の群れが水面をさっと横切っていきます。


 しばらくするとノビルさんは手首を返してはしきりに腕時計を確認しだしました。本当に来るんだろうか、すれ違いにならないだろうか、待つ間はいつの時代でも不安と隣り合わせです。


 きっと学生なのでしょう、遅れてかすりの上衣に紺の袴姿をした一人の若者が駆けてきました。


「ごめん、ごめん」


 若者は息を切らしました。


「シュンスケ、遅ーい」


 ノビルさんはちょっとじれていたようで、ほのかにばら色のさす頬を膨らませました。それがまた愛らしいのです。


「急に先生の用事を言付かって」

「もう、せっかくのお休みなのに」


 シュンスケさんは誰かの書生らしいです。用事を済ませると押っ取り刀で駆けつけたのですね。


 付き合いはじめて間もない若いカップルの微笑ましい光景ですが、物陰からワンチョペがじっと観察していたのには二人とも気づきませんでした。


 シュンスケさんは誰もいないか辺りをうかがうと、ノビルさんの手をとり、木陰へ誘いました。


 木漏れ日が光と影となって二人を穏やかに照らします。


「ノビル、いいだろう?」


 シュンスケさんがうながすとノビルさんは素直にまぶたを閉じました。心持ち顎を上げてじっとシュンスケさんを待ちます。


 シュンスケさんはといえば血走る目でごくりとつばを呑みました。唇をつき出すと、ほのかな桜色の紅をさしたノビルさんの唇めがけ、互いの唇を重ね合わせようとしました。


 みるからに緊張し、ギクシャクしたシュンスケさんは潤滑油の切れたロボットのようです。


 シュンスケさんの視線が下に向き、唇から彼女の胸へと移りました。ええ、彼女が着ていたワンピースの胸元がちょっと開いていましたから、ついそちらに目がいってしまったのでしょう。


 ノビルさんは片目をぱちくりさせ、ボーイフレンドの様子を伺います。


 シュンスケさんは我に返るとノビルさんの唇を見つめました。


 唇と唇が触れそうになった瞬間――


 ふいにノビルさんはシュンスケさんの胸を突き放しました。


「どうしただよ?」


 突然の心変わりにシュンスケさんは不満そうです。


「シュンスケ、本当に私のこと好き?」

「好きに決まっとるがね」

「何かガツガツしてて嫌」


 ええ、年頃の娘はそういうものですよね。


「んなこたぁねえだ」

「だっていつもいつも私の体ばかりジロジロみるんだもの」


 歳の割にスタイルのいいノビルさんですから、きっと男子のそういった視線が苦手なのでしょう。


 ノビルさんは不機嫌そうにプイと横を向くと踵を返しました。


「おい! 待つだよ!」


 それでもノビルさんは構わずに行ってしまいました。


 シュンスケさんはといえば、こういうときはどうしたらいいか頭の中で考えを巡らせては打消し、また考えては打ち消し、結局何もできないでおろおろするばかりです。


 一部始終をうかがっていたワンチョペがククッと含み笑いしました。

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