四ノ二、ファンと餌

 じゃあ、と言い置いて、せっかくの名刺も見ずに来客を迎えに行く桜大海の背へと、鬼天は声を掛ける。


「あんまり一人でやりすぎるなよ。俺なら暇つぶしくらいには、つきあってやるからな」

「そりゃあどうも。でも兄さん、あたしの師匠の頭は、そう易々と下げさせられるほど安物じゃあないんだよ」


 肩越しに振り向いて応じる桜大海を見ながら、師匠を尊敬しすぎるにも限度があるよなあ、と鬼天は苦笑した。さて自分も帰るか、と歩き出そうとしたとき、稽古場から出ながら客の名刺に目を落としていた桜大海が、今度は身体ごと振り向いて、その紙を差し出してくる。不思議に思いながらも受け取った鬼天へと、桜大海は上機嫌で言った。


「ちょうど暇つぶしの時間だろ、兄さん」

「ああ。これはまたずいぶんと大きい暇だな」


 名刺に記されている松井江利という文字を見ながら鬼天は応じた。松井と市間の繋がりを鬼天から桜大海に話してはいなかったが、夜通しの説教の原因を聞いて、その必要はなくなっていた。自慢気に、取引相手が市間だったという自分の発見を語る夜虚綱に、知っていると言って悔しがらせる効果は抜群だったが。桜大海が自分ひとりだけで松井に会わずに、鬼天にも教えてくれたのは、その悔しさの意趣返しだったのかもしれない。

 名刺を桜大海に返そうとすると、あたしはもう一枚持ってるからいいよ、と言うので鬼天は松井の名刺を自分のポケットにしまった。向こうから訪ねて来るというのが不可解ではあったが、タイミングとしては好都合ではある。たまたま居合わせただけだと言えば、部外者の鬼天を巻き込んだと桜風が頭を下げる必要もないだろうからだ。

 桜風部屋の玄関まで、ふたりで出迎えに行くと、そこでは松井が右へ左へと同じ場所をぐるぐると落ち着かない様子で歩き回っていた。そこは、大勢が出入りすることもあり、学校の下駄箱のような大きな下足入れがあって、三和土たたきも広くとってある。ついでに言えば、建物の中は禁煙であった。単に誰も喫煙者がいないだけではあったけれど、松井はどうやら自分がヘビースモーカーであることなど忘れてしまったようで、勝手に煙を吐くどころか手に持ってすらいなかった。いつも通りのスーツ姿の、どこかのポケットには入っているのだろうけれど。


「待たせたね」


 桜大海が声を掛けると、どういうわけか松井は両手で口元を覆いながら、ひゃっ、などという可愛らしい悲鳴を漏らしてあとずさる。こういう反応自体には見覚えがあって、桜大海はそれが何だったのか思い出そうとしてみるが、どうにもうまくいかなかった。


「何の用だ?」


 首を傾げている桜大海の隣で鬼天が問いかけると、松井は覆った手の下であからさまな舌打ちをしてから、両手を下ろして夜虚綱に向かって深々と頭を下げた。腰の角度にして九十度はあろうか。その動作の中で見えた土俵ブローカーの顔が、以前に見たときよりもかなり化粧が濃く施されていたように鬼天には思えた。心なしか松井の髪にも以前より艶があるような気がするし、スーツもクリーニング直後のようなメリハリがついているようでもある。そして、せっかくの出会いを鬼天に邪魔されたとでもいうような、あの舌打ち。


「ひょっとして、おまえのファンか?」

「すみませんでしたっ!」


 鬼天と松井から同時に言われて、桜大海の口からは奇天烈な声が飛び出した。自分でも己の声に驚いたらしく、今度は夜虚綱の方が自分の口元を覆った。


「何言ってんの兄さん、馬鹿なの? ――あと、あんたも馬鹿でしょ。なに急に謝ってんのよ」


 動揺して、鬼天と松井を順に指差しながら、桜大海はどちらもを馬鹿呼ばわりする。とはいえ実のところ、自分が感じていた松井の態度への既視感が、自分のファンであると名乗る人々、とりわけ女性から向けられるものに類似していることに、鬼天の指摘によって気付かされてしまっている。普段なら鷹揚に受け取って礼を返すところだが、いくらなんでもあの任侠といった雰囲気の土俵ブローカーがそうだとは、直感が受け入れても理性が納得していない。


「桜大海姉さんとは知らず、これまで数々の無礼を働き、申し訳ありませんでした。何本指を詰めたらよろしいでしょうかっ」


 意気込んで言う松井には必死さすら感じられた。それゆえに桜大海もようやく落ち着きを取り戻して、応じる。


「いやいやいや。ゼロだよゼロ。何も詰めなくっていいから。でもなんでまた急に?」


 問われるがまま、松井は昨晩に感じたことを包み隠さずに明かすと、ようやく頭を上げて、桜大海の目を見つめながら言った。


「あれから寝て起きて、でもまだ気持ちが少しも減ってないし、むしろ決意はより固くなっていたので、こちらに伺いました。今後は何があろうとも姉さんの傍から離れず、一挙手一投足を見守り続けて、何から何まで学ばせていただきます!」

「ええっと……」


 困惑の表情を鬼天に向ける桜大海ではあったが、愉快げな笑みを返されて選択の余地などないらしいという諦念を得ることとなった。鬼天からすれば、情報が向こうからやって来たこともだけれど、ひどく動揺している桜大海という珍しいものを見ることができたというのもまた、たいへん愉快である。


「がんばれよ、姉さん」


 からかい混じりに言ってやると、当人からは苦笑が、そして松井からは鋭い睨みが送られてきた。ついでとばかりに、うるせぇぞてめえ、などというドスの効いた台詞もつけてくれる。過剰なサービスへのお礼に肩をすくめると、固めた拳で殴りかかってきそうになって、慌てて桜大海が松井を抑え、それにも構わず、鬼天は知りたかったことを訊ねた。


「それで、市間内郎の連絡先、知ってるよな。教えろよ」


 桜大海の腕の向こうで松井が顔を背ける。それと鬼天を見比べて、面倒くさいとばかりにため息をついて、桜大海は同じ問いを投げかけ直した。


「あたしにも教えてちょうだい。市間内郎は、どこにいるのか」

「はいっ! 姉さんがそう言うなら、姉さんのために、姉さんにだけ教えます!」


 即答のうえ、飛びつかんばかりに桜大海へとにじり寄り、松井は気合の入った表情を見せる。そのまま懐から名刺入れを取り出し、その中から一枚を選び出して、両手で捧げ持つように桜大海へと差し出した。受け取り、確認してから、桜大海はそれを鬼天にも見せるべく差し出す。その手から市間の名刺を摘み上げつつ、鬼天は悲しみと憎しみの混ざった松井の視線にさらされて、面倒くさいなあと思い始めていた。市間の名刺には、印刷された文字で所在地や連絡先が記されており、名前そのものは手書きのペン字だった。平仮名で、いちまうちろー、とぐにゃぐにゃ歪んで斜めになった字が躍っている。どうやら市間の居場所は、さほど遠くないらしい。


「あのあたりは、畑ばっかりだったと思ってたけどな」


 名刺を松井に返そうとしたら受け取らないので、桜大海に渡して返してもらいつつ、鬼天は所感を述べた。頷いて桜大海も同意する。


「まあ、行ってみるしかないだろうね」


 松井は桜大海から戻ってきた紙切れに口づけしてから名刺入れに戻していた。それを見て呆れながらも、鬼天は桜大海の言葉に頷き、決意を固めた。手掛かりがあるなら活用すべきだ。桜大海も同じ考えであるらしく、厳しく引き締めた表情になっていた。

 その頃、桜風部屋の裏口からは谷村靖実が、稽古を脱け出してどこかへ駆けて行ったことを、鬼天たちはまだ知らなかった。


  ■


 電車とタクシーを乗り継いで、靖実は市間内郎の家にまでなんとか到着した。タクシー代の持ち合わせが足りなくて、市間を呼んで払ってもらい、ようやく上り框に腰掛けてひと息つく。教えられていた住所を頼りに初めて来たが、思ったより遠かった。

 田畑の中を走っていたときには、本当にここでいいのか不安だったが、到着してみてもやはり違和感しかない。小さな家に、あとは奥にひと部屋といったところだろう。そちらは襖がぴったりと閉じていて、どうなっているのかは見えなかったし、襖自体もその前に積み上がった本の山で、半分ほど隠れている。


「あの、こちらに教祖様はいらっしゃいますか?」

「教祖ってゆーと、ああ、円根宗の?」


 市間に問い返されて、靖実は頷いて肯定した。それを見た市間の顔がにんまりと笑みの形に歪む。あらかじめ、いくつかの単語リストを暗記させてある。たとえばその中には、市間内郎の名前があるし、松井江利の名前もある。半霊半人やゾンビ、死霊都市とか分散死霊コンピュータなどの単語ももちろんあり、最近になって餓蝶麻子の名前が追加されていた。それらの単語について、協会の決定や直接の来訪などがあった場合には報せるように指示してある。円根宗の中で、特別な望みを口にした者に与えられる交換条件だ。


「ってことは、キミは何か新しい情報を持ってきたってわけだ」


 もうひとつ頷いて、けれど慎重にも靖実はそれを明かす前に、望みが叶えられるのかを問いかける。


「それで、教祖様にはお会いしていただけるんでしょうか」

「もっちろんだともー」

「今すぐにですか?」


 もちろん可とも、もちろん不可とも、どちらでもない市間の応答に、まんまと靖実は自分に好都合な意味を見出してしまい、重ねた問いに対して相手が黙ったまま笑んでいるのをも肯定と解釈してしまう。だから素直に、桜風部屋に松井江利が来たことを、市間に伝えた。

 靖実の話を聞きながら、市間は特製のお茶を淹れている。キッチンの引き出しからは、もちろん薬包を取り出してある。ただしそれは幽根湯ではない。ただの毒薬だ。


「いやあ、わざわざ遠いところを、よく来てくれたねえ。情報も助かったよ。ささ、お茶飲んで。ぐいーっと飲んで。ぜーんぶ飲んで」


 歌い上げるように朗らかに言いながら、市間は靖実に毒茶を差し出す。見た目には何の変哲もないただのお茶と、どう見ても変な人に見える市間とを、靖実は交互に見てから、出されたお茶には手をつけずに、情報の対価を要求した。


「いいえ。お茶は結構です。それよりも、教祖様に会わせてください。教祖様とお話しできれば、全部解決するんです。禁土俵法も教祖様が撤回させてくれるし、桜風部屋の土俵も教祖様が復活させてくれるんです。教祖様が居るからわたしは強くなれるし、教祖様を見てわたしは目指す相撲が理解できるようになるんです。お願いです。早く教祖様に会わせてください。こちらに情報を持ってくれば、望みが叶うんですよね。もう教えたじゃないですか。早く教祖様に会わせてください」


 長々と真偽も不明なことを述べる靖実は、やはり正常な判断力を欠いていたのかもしれない。市間が他人の言うとおりになることを面白がるはずもないし、しつこい要求を突きつけられて穏やかな気分でいるはずもない。


「いいから飲めって言ってんだろ!」


 唐突な怒鳴り声を上げた市間は、乱暴に靖実の髪を掴み、引き倒しながらサイドポジションをとって靖実の首を抱えるようにして床に押し付けつつ、もう片手で湯呑みを持ち上げて、彼女の顔面にぶちまけるような勢いで毒茶を口内へと注ぎ込む。思いのほか腕力が強い。靖実は溺れるような感覚から懸命にもがいて逃れようとするが、キキキキと甲高い笑い声を上げながら茶でいっぱいの口を手で塞いでくる市間の拘束から脱することができない。西洋死霊術レスリングにおける袈裟固めけさがためである。相撲にはない寝技への対応方法が分からないまま、十数秒のうちに靖実は最後の抵抗を力なく失敗に終えた。市間内郎は日本国内における仮の名だ。本名はウッディーロ・イーティム、東欧の生まれであり、西洋死霊術レスリングを少し齧ったことがある。勇疾風の死体を使って勇王山と会話をしたのも、その術の応用のひとつだった。

 ふん、と鼻先から力を抜いて、市間は身体を起こし死体を放り出して、家の奥、襖の方へと目をやって呟く。


「教祖様はお忙しくていらっしゃるからねえ。あんまり頼みごとをたくさんしちゃあ、良くないんだよねえ。それに、今のキミの方が教祖様に会いやすいよ、たぶんね」


 それからふたり分の湯飲みを流しに片付けて、奥の部屋に向かい、襖にごくごく細い隙間を作って、その中を覗き込んだ。部屋に横たわるのは人体がふたつ。その一方を目玉の動きだけで捉えて、順番待ちの患者を呼び出す看護士のように、市間は名前を口にする。


「餓蝶さぁん。餓蝶麻子さあん。出番ですよー」


 急造の半霊半人がどれほどうまくできているか。この動作試験は面白いデータを提供してくれるに違いない。にやにやが止まらない。

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