三ノ三、倉庫

「なんだ。ここまできて金が惜しくなったか」

「いいええ。ただ、そういえば、一応倉庫の中を確認させていただければな、と思いましてね」


 じろり、と松井が市間を睨み付けたのが、桜大海の距離からでも伺えた。この段階に至ってなお、信用を疑われたのだと松井は感じて、怒りと拒絶を態度で表している。それほど明確に嫌がられているというのに、市間の表情は煮溶けたといえるくらいのにこやか笑顔であった。


「いいだろう」


 低くドスの効いた声で、ひとことだけ松井は発する。それを受けて市間は跳び上がって喜んで見せた。やっほーい、などと叫びながら。

 来い、の言葉もなく松井はさっさと先に歩いて倉庫の間に入っていく。どうやらこのあたりの倉庫ではないらしい。桜大海は、市間の疑い深さにも松井の用心深さにも、舌を巻く思いだった。面倒なもんだね取引ってのは、と口の中でだけ呟く。松井の後を追って市間も姿を消し、それに続こうと腰を浮かしかけて、桜大海はすんでのところで踏み止まった。他に彼らを追う人影がある。ひとりではない。十数人ほどだろうか。その集団を率いる人物に桜大海は見覚えがあった。


「餓蝶、なんでここに」


 桜大海と同じく市間を捕らえようとしてか、あるいは土俵密売の咎で松井を捕らえるためにだろうか。だが餓蝶が市間を危険人物だと知る機会があったのだろうか。それに協会外の計算資源が彼女の属する管理委員会の管轄であるわけがない。いずれにしても、桜大海には餓蝶の目的を見極める必要がある。餓蝶が松井を狙っているならば事を構えてでも手掛かりを確保しなくてはならないだろうし、市間を拘束するならば、尾行対象を松井から餓蝶に変更するだけで勇王山と戦う機会が得られるかもしれない。

 桜風師匠の顔が桜大海の頭を過ぎる。餓蝶と揉めれば、協会を通して桜風部屋に懲罰が与えられるだろう。これ以上、師匠が頭を下げている姿を見たくはない。けれど、妹弟子たちの魂が齎してくれた、せっかくのチャンスなのだ。市間を逃したくはない。

 逡巡しているうちに餓蝶と手下たちは行ってしまった。他に後を追う者がいないことを慎重に確かめて、桜大海は一団に続いて狭い通路に踏み込んでゆく。先を行く人影は、予想以上に何度も角を曲がり、ときに危うく見逃しそうになる。そうこうするうちに桜大海は、さっきまでいた場所から遠いか近いかよく分からないながら、同じ倉庫街にしては全く違う景色の一角に立ち止まることとなった。そこには築年数の長い倉庫が多いらしく、窓には亀裂を補修した跡があり、壁はあちこちで表面が剥げ落ちている。よく見れば扉には大部分に錆が浮いていた。桜大海が足を止めたときには既に、餓蝶一味は姿を消している。彼らに見つからないかを気にしながら、そろそろと市間たちの様子が伺える場所に桜大海は身を隠した。

 倉庫を背に松井が立っている。その手に持っているのは倉庫の鍵だろうか。


「中まで見ないと気が済まないってえんじゃなかろう」


 もういいだろう、と言外に述べながら松井は、片手で鍵を差し出し、もう片手で金の入ったカバンをよこすように要求した。対する市間は横に首を振る。


「またまたあ。ご冗談が過ぎますねえ。私は最初に言ったじゃあないですかあ、倉庫の中を確認したい、とね」


 立てた人差し指を目の前に突きつけてきて振ってみせる市間に、松井はあからさまに嫌悪感を表す顔つきになった。取引相手に投げつけたかったのか、まだ半分も吸っていない煙草を放り捨てて、すぐにまた新しい一本に火をつける。深々と吸い込んだ新しい煙で心を満たして、気持ちを新たに入れ替える。そして振り向き自ら解錠して、扉は開けずに市間へと場所を空けた。勝手に中を見ろとばかりに、赤々と灯る煙草の先で促す。


「どうもどうもどうもお」


 楽しげに言いながら市間は扉に手を掛けて、それを開けようとするが、押しても引いても鉄扉の動く気配は全くない。さすがの市間も意地になったか、全体重をかけてなんとか動かそうとするとギギギと音が鳴り、それでようやく僅かに隙間ができた。扉を横へスライドさせるためのレールまでも錆び付いているらしかった。

 その隙間に目玉を押し込むかのように噛り付いて、市間は中を覗き込もうとしている。ジャケットの内ポケットから取り出した小型の懐中電灯で、頭の上から隙間の中を照らしていた。彼の様子をひとつ鼻で笑って、松井は倉庫から数歩離れる。倉庫というよりも市間から離れたかったのかもしれない。彼女のその背に、不意に光が向けられた。市間が振り向き、その懐中電灯で松井を夜の中から浮かび上がらせている。


「いいですよお! 餓蝶さあん」


 片腕を使って頭の上で丸を作ろうとしながら市間は呼ばわった。接収すべき密造土俵が、たしかにそこにあると明白になった合図だ。土俵ブローカーを拘束するには、まずその証拠を確認するというのは、餓蝶が頑なに譲らなかった条件だった。


「テメェっ!」


 殺意のこもった松井の叫び声は、すぐに人垣の中に閉じ込められる。一斉に光の輪の中に飛び込んだ餓蝶たちによって、松井の逃げ道は空か地中に限定されてしまった。囲みの六人ほどを除き、残りは市間の元に集まり、力づくで倉庫の扉を難なく開け放ち、中身を運び出し始める。彼らの装束は、左前の白い着物に、上向き三角形の白い仮面である。あの顔では視界など確保できるはずもないが、彼らは何の苦も無く活動している。そのことに、死に装束であることが重なって、桜大海はひとつの可能性に思い至った。彼らは半霊半人であり、市間はそれを制御する方法を編み出したのかもしれない。


「あんだぁテメェらぁっ!」


 松井が半死者の中で何かを抜き放ったようだ。どうやら短刀であるらしい。次々と死に装束に突き立てている動きが見える。だが人垣には塵ひとつの乱れも表われなかった。


「なんだっ、なんなんだよぉっ!」


 徐々に彼女の声に恐怖が混ざり始め、泣き声の色を帯びてゆく。餓蝶はゆったりとその外側から歩み寄り、誇らしげに宣言した。


「諦めなさい。貴女を、八百万の神々と根の国の死霊たちへの暴虐を罪として拘束します。悔いたのちに、せめて死霊となって我々の役に立ちなさい」


 そして餓蝶は、高々と掲げた片腕を正面へと振り下ろしながら命じる。


「神事――執行!」


 応じて動き出した半霊半人たちによって地面へと押さえつけられる松井を見て、桜大海はやむなしと決意を固めた。隠れていた場所から飛び出し、松井の囲みへとぶつかっていく。オフクロごめん、と呟きながら。


「誰なの!」


 餓蝶の鋭い声が聞こえたときには、既に桜大海の体当たりを受けて人垣は崩れていた。松井の腕を掴んで、ともに下がりながら、餓蝶や半霊半人たちから距離をとる。


「あ、あんた。なんなんだ、今度はアタイの味方だってのか」

「私の神事執行を邪魔するなんて、悪い子よ、桜大海」


 震え声で強がる松井は腕まで震えていて、一方で冷たい声色で敵意を突き刺してくる餓蝶は、後々の懲罰を予告するがごとく、ひときわゆっくりと夜虚綱の名を呼んだ。そうした騒ぎを聞きつけて、倉庫の中でさまざまな土俵を物色していた市間は、顔を出してひと目で状況を把握すると、餓蝶に言い置いてまた倉庫の中へと姿を消した。


「ありゃあ。まあ、こちらは餓蝶さんに任せますよ。ブツは私にお任せあれえー」


 その間にも、倉庫からは次々と見たこともない形の土俵とやらが運び出されていく。事が順調に進んでいることを横目にたしかめて、餓蝶が桜大海と松井に片手の指先を真っ直ぐに向ける。


「いますぐに、それを渡しなさい。いかな夜虚綱といえど、神々への反逆者をかばうことは許されないのよ」


 分かるでしょう、と付け加えながら餓蝶はふたりに歩み寄ってくる。従う六人の死に装束たちも、同じように間を詰めてくる。桜大海の行動の理由さえも聞く気はないらしい。


「あ、アタイは誰にも捕まったりはしないよ。まだ死ぬ気もないしね」


 そう言いながら松井は桜大海の袖にしっかりと掴まっている。得体の知れない連中に囲まれて殺されかけたと思えば、それも仕方のないことではあろう。けれど桜大海は知っている。殺されるのではなく、目の前の死に装束たちの仲間入りをさせられたであろうことを。

 それを教えてさらに怖がらせる意地悪を思いつくよりも早く、餓蝶の手振りで死に装束たちがふたりを覆うべく襲い掛かってくる。桜大海だけだったなら、鍛えた身のこなしで避けることは容易かっただろう。けれど、がっちりと松井に掴まれていては、それもままならない。代わりに桜大海は懐に手を入れると、中から紙を一枚取り出した。それを自分の足元へ落として、片足で踏む。紙に描かれた円が、桜大海の足で覆い隠された。靖実から受け取ったまま持ち続けていた円根宗の紙土俵である。足よりも小さな円だが、それが土俵であれば、夜虚綱は今、間違いなく土俵の上にいる。たちまちのうちに威風堂々たる体つきになった桜大海を見て、松井は驚き、掴んだ手を離して後ずさった。土俵ブローカーの視界の中で、魔解が大畏弔の威厳をもって桜大海の頭上に安置される。


「あ、あんた、あんたも何なんだよっ」


 すっかり当初の威勢を失って、松井は狼狽を隠すこともせずに叫んだ。その間に桜大海は襲い来る死に装束の六人を三人にまで減らしている。いずれも相撲を知らない身体であったらしく、どこかぎこちない動きの割には勢いよく駆けてきたが、ただそれだけだ。突き、張り手、また突いたところで、夜虚綱は腕についた黒い泥を振り払いながら松井に答えてやった。


「見たことないのね。これが理器士。本物の事象予報士にして、正統の死霊計算術者よ」

「ほ、本物……」


 松井のようなヤクザ者から土俵を購入しようという人間には、ほとんど真っ当な者はいなかったのであろう。事象予報士を名乗るだけの詐欺師や、占い師としては確かな腕があるものの土俵は扱えない者、あとは自分で使うわけではない客などなど。ゆえに理器士がどういった存在なのか、実際に目にする機会がこれまで無かった。松井は桜大海の圧倒的存在感に心奪われ、呆けたように口も目も開きっ放したまま、その隆々とした背筋が波打つのを眺めていた。その顔に、四人目の死に装束が突き崩された泥の飛沫が散り掛かる。今の松井には、そのようなことは気にならなかった。ただ夜虚綱にのみ、心が惹きつけられていた。

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