二ノ三、死霊の幻影

「なんですか親方、そりゃあ」

「入場曲だよ仁ちゃん。大事だよ、演出は」


 野次を飛ばすような感覚で、つい鬼天が呼びかけると、サムズアップなどしながら桜風は胸を張って、役に立たないアドバイスを返してくれた。


「ま、演出はどうでもいいんだけどね」


 桜大海が隣の靖実に言うのが聞こえる。


「ちゃんと見ときなよ靖実。師匠オフクロの相撲なんて、なかなか見られないからね」


 はい、と答えながらも靖実は、桜風が仕草で指示した曲の停止を行うためにポータブルプレーヤーを操作しに行き、それから師の背後に立った。


「さて」


 桜風のひと言に伴った衣擦れを最後に、部屋は静寂に包まれる。師匠の羽織っていた着物を受け取った靖実が姉弟子の隣に戻るのを待っていたかのように、桜風ウメの相撲が始まる。

 土俵は二人で務めるものではある。その場合には、土俵の東西の端でそれぞれが蹲踞の姿勢をとるところから死切りしきりが始まり、続いて断ち相となる。死切りとは、死霊波動収縮デコヒーレンスにより死霊同士の干渉状態を整える所作である。それから勝負を経て、勝ち残った理器士が計算結果を保持したまま、両者は再び死切りを行って相撲を終える。最後の死切りにおいて勝者から結果を受け取る役目を負うのが形而ぎょうじであり、ゆえに形而上とは実体のない死霊の世界をいい、形而下とは実体のある計算結果の世界をいうのである。協会で採用されていない亜流の相撲には、東西両者をそれぞれ、根の国への案内を行う案内人あのうどと、仮想的に葬儀を行う仮葬人かそうどと呼ぶものもあった。

 一方で、一人であっても死霊計算を行うことは可能である。重要なのは計算に必要な数の死霊ビットを土俵上に呼び出せるかどうかであり、その原理でいえば理器士が何人だろうと問題はない。ただし理器士の計算力には差があるため、計算結果である予言の精度を保つには、二人で行うのが順当ではあった。とくに理器士同士で技を掛け合うことで、互いの体内に呼び出してある死霊ビットに干渉し、死霊状態を変移させることにより計算を促進する効果もある。だが、高位の理器士においては、その限りではない。

 桜風は踵同士をつけて立ち、そのまま膝を広げながら上体を直立に維持しつつ腰を落とす。蹲踞。左右に広げた両腕は、指先を揃えて開いた掌が天を向いている。その両手をゆっくりと正面にまで持ってくる間に掌を向き合わせ、打ちつける。柏手。

 室内が染み込まれるように暗くなる感覚があった。見回すと、まだ明かりは入ってきている。ただ、鬼天たち見学する者の心理が、桜風の一挙手一投足を追うことに集中させられていく。ふたたびの柏手。

 大師匠の足元から吹き上がるそよ風があるかのごとく、桜風の長い白髪がそろりと浮き上がり、魔解を形成していく。言わずと知れた大畏弔が出来上がるまで、左右に真っ直ぐ広げた両腕で、じっと桜風は呼吸を重ねてゆく。

 老体は白い枯れ木のごとくと形容されるであろう。けれど、今の桜風は部屋の陰に沈み込み、まるで半ばを土と同化した朽ち木のように見えた。それが魔解の形成に合わせて、往時の夜虚綱の姿を現してゆく。むくむくと脚に筋肉が満ちてゆく。二百年を超えてもなお六つに凹凸を成していた腹筋は、陰影を強化した上に悠々と脂肪を抱えた腹となる。萎びて垂れ下がっていた乳房が胸筋の充実に引き上げられ、脂肪の盾を纏って浮き上がっていた胸骨を隠した。

 みたびの柏手。厚くなった掌が打ち合わされる音は、いっそうの清浄な響きで室内に神聖を感じさせた。隆々とした筋肉があることが一見しては分からないほどに、今や桜風の腕には脂肪が乗っている。全身をして丸を印象付けられる、理器士桜風はそうした夜虚綱であった。

 立ち上がり、一歩前に出る。その動きで両足の間に肩幅ほどの距離をとっている。死切りを終えた桜風には、周囲の自然界を飛び交う微弱ではあるがノイズとなる死霊波動とは切り離された死霊状態が現れていた。両手を左右それぞれの膝に置きながら、地から来るものを胸で受け止めるように体を開き腰を落とす。死呼はまず、その姿勢から右手と右足を高々と掲げる。丸々とした体型からは不可能にさえ思える片足立ちで、ひと呼吸の静止を挟んでから、水中にでもあるかのごとき緩やかさで地に足を着ける。

 桜大海の死呼は地を震わせた。けれどその師による同じ行いからは全く震動が発生しなかった。代わりに鬼天たちのいたはずの部屋は消失し、苔むした森の中に彼らは立っていた。なんという鳥か、れいと鳴く声が小さく連続する。視線を巡らせた宗太の目に入ってきたのは、骨だけになった鳥の骸骨であった。それが虚ろな目で周囲を探るように、きょろきょろと首を振り、合間に嘴を開いて、れい、と呼ぶ。

 死霊はなにも死した人間の魂というだけではない。全て生命は地から産まれて地に還る。人を含めた動物たちの身体は他の動物や植物から作られ、植物は地によって作られる。そうして死後には動植物はともに地に還る。これが世界の循環であり、根の国はその根源となる。ゆえに世界循環を行う死霊は、世界そのものの抽象モデルであり、それは数学によって抽象モデル化された世界に等しい。すなわち死霊によって世界は計算され、死霊計算によって世界循環は予言される。

 右の手足を地に落ち着けた桜風は、続けて左でも同じことを行う。室内に花が散り、実が落ちてまた芽吹く。舞い散る葉が積もってゆく。だが桜風の周囲だけは円形に避けて、草木も動物たちも近付かない。半畳ほどの小さな場所を残して、森は生死に満ち満ちた。その残りが、桜風の土俵である。


「あれは……」


 靖実のたじろぐような呟きが聞こえてきた。鬼天も話には聞いたことがある。桜風の背後左右に、大師匠の姿を写し取ったようなふたつの人影が現れていた。高位の理器士の中には、呼び出した死霊の射影として、ふたつの像を従えることができる者もいるという。その一方を霊滴祓つゆはらい、他方を立母地たちもちと呼ぶ。土俵を霊滴つゆによって祓い清める役目を持つ霊滴祓と、根の国に対する現世すなわち母地もちの位置を示すために立つという立母地である。いずれも蹲踞の姿勢で土俵際に控え、桜風が死呼を続けるのを、じっと見つめている。

 れい、とひときわ鋭い鳴き声が響き、森が消えて、生者の耳目には現実の空間がおぼろげながら戻ってくる。桜風が次の所作に移ったからだ。死呼と同じ足腰でありながら、両腕は左右に広げ、天を支えるように上向きの掌で正面を見る。断ち相が始まる。複数人の理器士で行うならば、断ち相は呼吸を揃えることで、死霊状態を初期値に揃えるという意味をもつ。そして理器士たちはぶつかり合って計算を進めることになるのだが、単独で行う死霊計算においては、初期値は死呼を終えた段階で自ら整えたものを用いると同時に、既に計算は始まっている。

 上体はそのままに、桜風は爪先を軸にして踵を内側に回すように前に出る。次は逆に踵を軸に爪先を前へ。それを繰り返して前進しながら、徐々に膝を伸ばして腰を上げ、立ち上がってゆく。さながら天地を別けて自らの居場所を作り出すかのごとき所作である。真っ直ぐに立ちきったところで上向きにしていた両掌を、桜風はさっと伏せた。断ち相を終えて、同時に計算も完了したのだ。そのまま再び体を沈め、左右の死呼を踏むと、ようやく霊滴祓と立母地の影像が消えた。これで計算結果の死霊ビットを予言として現世に持ち帰る準備に入ることができる。

 死呼を終えた姿勢から立ち、桜風は終わりの死切りのために半歩ほど下がるようにして踵を揃え、蹲踞を行う。また柏手が鳴る。ひとつ、ふたつ、と繰り返されると、鬼天たちの視野に室内がはっきりとその明かりを差し込ませ、夢のようであった現世が実感を伴って取り戻されていった。ほつれるように桜風の大畏弔は魔解の形を崩し、ただの長髪へと垂れ落ちてゆく。大師匠の肉体もまた、細くなった筋肉と薄くなった皮膚で作られた老体へと戻り、かくして死霊計算の儀はその結果を導き出した。

 形而を務める人物を見るべく桜大海に目をやった鬼天を、同じ意図で見返す視線を受けて、自ら依頼した事象予報を自ら受け取るべく、大師匠の正面に立つ。向き合って蹲踞の姿勢となるが、鬼天の右手は上向きの掌で自身の臍の前にある。それは予言を受け賜るための器を表す所作だ。


「市間内郎が、何をしようとしているか、だったね」

「はい」


 桜風の確認に頷きを返す。じっと大師匠の顔を見つめると、鬼天を見ていた目を閉じて桜風はひとつ深々と呼吸を行った。自らの中の死霊ビットと問答するかのように。


「あたしが扱えるのは、せいぜい二十死霊ビットghost bit程度だ。つまり一メガだから百万通りの可能性の中からの確率分布でしかない」

「はい」


 協会の定めにおける予言精度の宣言を、省略せずに桜風は鬼天に提示する。幕内になっても十死霊ビット程度つまり千通りほどの結果しか得られない理器士もいる中で、しかも年齢に比して死霊回路の減退とともに衰微してくる許容死霊ビット数が、未だに二十とは驚いてしかるべきではあったが、この人ならそういうこともあろうと思わせるところが桜風にはあった。だから鬼天も素直に頷くだけだった。


「最も起こる可能性の高い事象、それは……世が死霊に満たされる。根の国が生物の姿を纏って現世に浮き上がってくるであろう。市間内郎という男は、地球上の全てに死霊を満たして巨大な分散死霊コンピュータとする企みを持っている。その結果――」


 死霊を世に満たす、ということは、やはり円根宗のようなものを通じて、粗製土俵をばら撒き、未熟な計算者による低精度の予言を流布させるつもりなのだろうか。そうなれば予言はたちまちデマに等しくなり、それによる混乱は社会を痛めつけるだろう。加えて、理器士でもない人間たちが死霊計算を実行すれば、彼らが死霊に汚染されることも予想される。死霊を扱うための死霊器官、またの名を死霊回路という臓器を持たない人間は、体内に自分の魂以外の霊を入れておく場所がない。だからすぐに自分の魂と呼び出した死霊とがごちゃ混ぜになって、区別がつかなくなる。死霊汚染が起こる。死んだ魂が生きた肉体に適合するはずがない。肉体が勝って死霊を追い出すなら問題ないが、ほとんどの生物は魂には逆らえない。よって壊れた身体が腐敗や崩壊に至る。それはつまり、円根宗の地下二階で見たような半霊半人が、町中に溢れかえるということだ。確かにそれは地上に根の国を再現したような光景となろう。

 だが、その結果、どうなるというのだろう。急に押し黙った桜風を、鬼天はじっと待ちながら、あり得る可能性を検討してみた。生物全てが死霊となれば、たとえそれが巨大分散死霊コンピュータとなっても、計算の初期値を設定する者も、結果を受け取る者もいなくなってしまう。無意味に死霊がうごめくだけだ。市間に破滅願望があるというのなら、たしかにそれで目的は達せられるだろう。しかし鬼天の見るところ、市間はそういう人物には思われない。もっと世の中をどこか異なる視点で眺めているような、そんな男のような気がする。その視点が役に立つものなのか、そうでないのか、といえば、少なくとも死んでしまった王鬼親方や変わってしまった勇王山、それに今回の件のように死霊の餌のように扱われた若い理器士たちを思えば、鬼天にとっての答えは決まっている。どのような結果になると予言されようとも、市間には思い通りにはさせない。


「……まあ、それはそれとして、少々分かりにくいが、聞いてもらおう」


 桜風の声で、いつの間にか自分も閉じていた目を開くと、正面で鬼天に向けられていた視線があることに気付いた。いったいいつから桜風に見られていたのだろうか。そのときまで桜風の瞳に含まれていた僅かな憂いが消え去ったことに、このとき鬼天は気付くことができなかった。

 視線を合わせて、鬼天が予言の続きを受け取る準備ができたと判断した桜風が、語り始める。


「死霊は実体のない形而上の存在である。死霊計算もまた然り。予言はそれを形而下の、実体のある存在に持ち込む業である。なぜならそれは、生物が形而下の存在であり、確率的に存在することが不可能であるからだ」


 死霊の非決定性は、ひとつの死霊ビットに複数の状態を確率的に同居させることが可能であり、それにより死霊コンピュータは量子コンピュータと同等の計算能力があるとされる。このことは同時に、予言もまた複数の可能性が、それぞれ生起しうる確率を伴って得られることを意味している。簡単に言えば、明日の天気が晴れるか雨になるかを予言すれば、晴れる確率と雨の確率を同時に得ることになる。実のところ死霊にできるのは、ここまででしかない。最終的に確率を収束させ、現世に実現するのは、実体をもっている形而下の存在としての生物の役割である。だから理器士の予言は最も高確率のものだけを述べることになっている。起こりうる事象を並べ立てることによって、人間の考えをそれらの中から選択することのみに束縛するのではなく、最高確率以外の事象を伏せておくことで、予言に含まれる事象には存在しない未来を自由意志が創造する余地を残すためだ。


「だが死霊は異なる。死霊たちにとっては物事がひとつに定まらないことの方が自然であり、確率的に得られる予言とは、すなわち死霊たちの未来そのものに等しい。世を死霊で満たすことにより、世界は形而上へと引き上げられる。確率的に複数の世界が同時に存在し、過去も未来も無数に分岐することとなる。つまり死霊で満ちた世界は死霊コンピュータであり、死霊計算こそ世界そのものであり、計算が未来も過去も形作る。未来はやがて現在になり、現在は過去になるのだから、現在もまた計算であるということになる。すなわち、世界は数学となるのだ」


 一気に言い終えて、分かるかい、と問いかけてくる桜風に、鬼天は正直に、いまいちと返答した。あたしもだ、と応じてニヤリと笑んだ大師匠は、その顔のまま計算の終了を告げる。


「予言は以上だよ。弟子を助けてあげな」

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