二、事象予報にて理器士が役目を果たすこと

二ノ一、土俵ブローカー

「お師匠さま……」


 悲しげに言って、伊藤宗太は言葉に詰まった。十歳程度の年齢がするには、あまりにも沈痛な表情を滲ませて、鬼天仁太郎の事象予報士事務所で待ち続けていた少年は、開いた扉から入ってきた人物へと、長い嘆息をつく。

 そうなる可能性はいつでもあった。ただ宗太少年は、自分がまだ未熟な修行中の身であって、何もできないことを、そのたびに苦く感じていた。いつも師に教わり、どんなときも師に助けられてきた。自分がもっと力になれていれば、と思わないときはなかった。


「また、破いちゃったんですね」

「すまん」


 今月だけでも、何着目だろうか。失った白ワイシャツの枚数は、もう宗太にとっても集計を諦めるほどになっていた。ただでさえ、禁土俵法が施行されてこのかた、事象予報士の収入は以前に増して厳しくなっている。

 裸の上半身にジャケットを着た格好で、鬼天は片手で頭を掻きながら、やや遠慮がちに入ってきた。髪やスラックスには土塊がこびり付き、埃で白や灰色にまだらな模様ができている。


「ちょっと、埋められちまってな。脱出するのに手間がかかったんだ」


 クリーニングに出す代金と、自分で手洗いするのと、どちらがお金がかかるんだろうか、と宗太は考えてみるが、よく分からなかった。試しに一度洗濯機に放り込んでみようか。


「なんていうか……そうでしたか。でも、しばらくは塩モヤシだけですよ、ごはん」

「すまん」


 力なく言う宗太に、また謝って鬼天は脱いだジャケットを渡す。歪んだバックルのせいでベルトが外せず、けれど宗太には言い出しにくいが、どうしようかと困っていると、できる弟子は黙ってハサミを渡してくれた。すまん、とまた言うと、もういいです、と返事をされてしまった。それでベルトを切って、スラックスを脱ぐと、パンツ姿で風呂場へと向かう。扉を開けると、


「熱いかもしれません」


 できすぎる弟子の声が後ろから、熱い蒸気が前から届いて、湯船が準備万端であることを報せてくれた。


「すま……ありがとう」


 四度目の繰り返しは、さすがの鬼天も避けた。どういたしまして、の声を最後まできちんと聞き終えてから、鬼天は風呂場の扉を閉めて、魂の洗濯を始めた。


  ■


 桜風部屋の親方衆のうち、百年の長きにわたって部屋の師匠を務める桜風さくらかぜウメは、その超長期にわたる夜虚綱と師匠の期間によって、理器士たちからは生きる伝説として驚嘆と畏敬の念とともに大師匠と呼ばれていた。

 その大師匠が、円根宗に乗り込んだ翌日に弟子の取的を遣して、鬼天に礼をしたいから都合の良い日に出向くので、と予定を伺ってきたので、慌ててこちらから参りますと返事をした。すると、では翌日では如何でしょう、というので宗太を伴って桜風部屋へと向かっていた。


「うまいちゃんこを食わせてもらえるぞ、きっと」

「お師匠さま……まあモヤシには飽きてますしね」


 折から秋らしい匂いのする雨が降り出しており、傘を差して歩道をゆくふたりを追い越してゆく、まばらな自動車たちもこころなしかゆっくりと走っているようだ。


「そういえばお師匠さま。桜風親方ってどんな人なんですか?」

「ああ、あの人はなあ、まあひとことで言えば、化けもんだな」


 弟子の疑問に正直に答えた鬼天ではあったが、その回答では宗太に納得してはもらえなかったらしい。はあ、と曖昧な声を出す弟子に、会ったことなかったか、と鬼天が訊ねると、こくりとひとつ頷きが返ってきた。


「協会の中でも、いや歴史上の理器士を含めても、最も長く夜虚綱を務めて、最も長く師匠をやっている婆さんだ」

「そうなんですか」

「何歳だと思う?」


 正答できまいと思いながら、少しだけ意地悪な気持ちで鬼天が問うと、宗太は深々と悩み始めた。どうやら自分の知っている理器士たちの知識から最年長者を思い出そうとしているらしい。だが百年も前に引退した理器士を知ってるわけもなかろうと、鬼天は二百二十四という年齢を教えてやった。


「え……」


 鬼天の予想通りの戸惑いの表情が、からかわれているのかという疑いを含んで師匠の方に向けられる。いくら人類の科学が進歩しているとはいえ、人間という生物を構成する物質や仕組みが変わったわけではない。寿命の最長を百五十年が限界とする学説は、もう何世紀も塗り替えられていなかった。けれど、例外というのはあるものだ。


「今度、協会の記録を見せてやるよ。夜虚綱を百年、そのあと親方になって、そろそろ百年くらいのはずだ」

「すごいですね」

「化けもんだろ。いまだに相当強いらしい」

「それは……化け物っていうのも分かります」


 喩えを口にすることを躊躇いながらも、ようやく信じたらしく宗太も師匠に同意することとなった。代わりに、そんな人物に会いに行こうとしているのかという緊張感が弟子の顔に滲み出たのを見て鬼天は面白くなって、もう一押し脅かしてみる。


「理器士なら誰も逆らえる奴はいない、大師匠なんて呼ばれてる偉い人だぞ」

「あの、お師匠さま。その」


 遠慮がちに鬼天を見上げてきた宗太の顔は、なんだか泣きそうに見えた。やりすぎたかと反省の気持ちになり始めた鬼天に、弟子はどこか震えるような声で訴えかけてくる。


「そんなかたに、ボク、お会いしてもいいんでしょうか」


 もうこの場から引き返して帰りたいという気持ちが、ありありと伝わってきた。理器士としてまだ拙いばかりでなく、協会に承認された師弟関係でもない。鬼天が協会から脱退した後に弟子になったのだから仕方ないのだけれど、桜大海などの数人を除いて、宗太は協会の理器士たちにどこかコンプレックスのようなものを抱いているようでもあった。

 すっかり反省した鬼天は傘を寄せると、弟子の頭を腕で包み込んで慰める。


「すまんすまん。大丈夫だって。案外気さくな婆ちゃんだしな」

「そうなんですか」

「ああ。どうせ見るなら女の裸がいいって言って、女の弟子しかとらないような婆さんだ」


 言葉を重ねると、ようやく宗太はくすりと笑って、なんですかそれ、と元気を取り戻してくれた。共に微笑みながら鬼天が傘を離すと、それを見計らっていたようにふたりの横に一台の黒い車が寄ってきて停車する。後部座席の窓が開かれて、灰色のスーツに細い眼鏡をかけた女が顔を見せた。年のころは三十後半くらいか。


「教えてもらえるかしら」


 言ってから煙草をくわえ、深々と吸い込む。視線は鬼天に向けたまま、顔だけ横にして紫煙を吐き出した。一見すると普通の会社員とも思われるその女は、けれど世慣れた風格を纏っていて、どこか賭場で賽の目の丁半を問う熟練の壺振りのようでもある。


「なんですか」


 相手の顔の高さに合わせてやや腰を曲げて鬼天が応じる。女の向こうで、車内の灰皿が吸殻で溢れかえっているのが見えた。女の他には運転手が乗っているだけらしい。


「人を探してるんだけどね。一昨日あたりにアタイの客が潰されちまってね」

「お客さんを探してるんですかね」

「違うね。アタイの客を潰した野郎さ」


 鬼天が言い終わるかどうかで、女は鋭く低めた声を重ねてきた。どうやらよろしくない人物らしいと判断した鬼天は、片手の仕草で宗太に後方へと距離をとらせる。こちらが黙っていると、またひと呼吸の喫煙を挟んだ女が、ドスを効かせた声で続けた。


「あんただろ、円根宗にカチ込んだ鬼天とかいうのは」

「サービスが行き届いているじゃないか、客の代わりに意趣返しか」

「そうさ。禁土俵法のご時勢とはいえ、土俵を売りさばくのは楽じゃないのさ」


 そういえば勇王山が、方形土俵を業者から買ったと言っていたな、と思い出しながら鬼天は、長いため息をついた。楽をしたければ、余計な手間をかけてわざわざ会いに来てくれなくてもいいんだ。鬼天のそんな思惑を知ってか知らずか、女は煙草の灰を山盛りの灰皿に叩き落しながら次の言葉を発する。


「だけどまあ、安心しな。今日は警告だけさ。法律大好きなバカでも半端な正義漢でもなけりゃ、二度とアタイの邪魔はするんじゃない」

「残念ながらバカだし半端だし、好き嫌いはしない方だぜ。正義はどうでもいいけどな」


 投げやりに応じた鬼天を無視するように、女はまた深々とニコチンを摂取し、煙をゆっくりと吐き出す。最後の一喫を終えると満員の灰皿に無理やり突っ込んで揉み消し、即座に次の一本を取り出して火をつけ、何事か考えるように、あるいは鬼天が報復について考える時間を待つように、意味ありげな沈黙下で二度三度と煙を車内に吐く。


「分かったね」


 たっぷりと凄みを声に乗せながら念を押すと、女は吸い込んだ煙草の煙を鬼天の顔に吹きかけ、前にある無人の助手席を蹴った。咳き込んでいる鬼天を置いて、車は走り去ってゆく。入れ違いに宗太が駆け寄ってきた頃には鬼天は立ち直り、車道の先を見据えながら面倒くさげに呟いた。


「土俵ブローカーか」


 禁土俵法は密造土俵や偽造土俵の横行に拍車をかけた。違法であればあるほど、危険であればあるほど、跳ね上がった値段をつけた密売が盛んになる。次々とああした連中が参入するからだ。

 面倒事にならなきゃいいけどな、と思いながら鬼天は、心配する弟子を大丈夫だと安心させつつ、桜風部屋への道程を再開した。


  ■


 三階建ての近代的なビル丸ごとひとつを、桜風部屋は使用している。一階には稽古場と桜風親方の部屋、二階は弟子たちが共同生活をする大部屋、そして三階が住み込みの親方たちや階級の高い弟子に与えられた個室となっていた。


「すごいですね」


 建物を目にしたときからずっと宗太は、桜風親方の部屋へと通された今になっても、そればかり口にしている。相撲部屋も所属人数の多寡はあれど、ここまで大きく、またビルまで建ててしまうほどなのは、桜風親方の偉大さがあればこそだった。普通は間借りするとか、師匠の家に弟子だけ同居して親方衆は通いといったところだろう。

 稽古場に箒掛けをしていた取的の一人に案内してもらった六畳間は、清潔に保たれていて、畳敷きに置かれた座布団にも座卓にも色褪せや傷みのひとつもない。お待ちください、と言って座布団をすすめてくれた娘は、いちど退室したあとにお茶を運んできてくれてから、丁寧に頭を下げてまた退室していった。師匠を呼びに行ったのだろう。

 胡坐でくつろぐ鬼天の隣で、宗太は正座をしてさきほどからきょろきょろと落ち着きがない。あまりに行き届いた行儀作法を見せられて、また緊張してきたのだろう。ずず、と出された茶をすすりながら鬼天が、楽にしていいんだぞ、と言ってやるのだけれど、そういうわけには、などと恐縮しきっている。

 そうこうするうちに、さっと襖が開く。けれどそのあと少し何も起きなかった。


師匠オフクロ、ほら照れてないで」

「照れてるんじゃないわい」


 促す桜大海の声に応じるしわがれ声が聞こえてくる。それから、ひょいとブイサインが部屋に入ってきた。続いて半笑いの老婆が顔を出す。伸縮性のある体にぴったりした紺色の長袖の上に、桜色の半袖Tシャツを合わせて、一歩踏み入ってきた脚はダメージジーンズという格好だった。

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