ロック、アンチロック

 全身に音の塊を叩きつけられた、気がした。

 鼓膜に染みこませるように奏でられていた音楽はいつの間にか霧散している。突如として増大したボリュームは浅井の狼狽に塗れた声さえも掻き消して、一気に公園の隅々にまで響き渡った。脈絡のない豹変に誰もが動きを止める。〈エイブラハムの樹〉以外の人々の時間が停止したようでもあった。

 麻痺した思考にじわじわと音が届く。彼らを初めて知った曲だと思い当たる。聞いた者の価値観を崩し、新たに築き上げるような、衝撃的なロックミュージック。

 セットリストには組み込まれていない曲だった。


 天秤が揺れる、視線が周囲を往復する、唇が戦慄く。

 浅井には正解がわからなかった。理性では止めるべきだと判断しているものの待ち侘びた風景に決心がつかない。躊躇した一秒ごとに公園が素晴らしい音楽に飲み込まれていく。心臓を鷲掴み、背筋を舐め上げ、身体を浮遊させるこの曲には激しさと繊細が同居しており、人々を鼓舞させる力強さに満ちていた。

 しかし、それだけに焦燥が募る。我に返り、慌てて視線を巡らせると遠くにステージを注視する警官の姿があった。批難するような目つきとかすかに動かされる口、それらの冷静な反応に、浅井はようやく自分の過ちを自覚した。緩慢ながらも確かに流れていた配給の列は凍りついたままになっていた。


「みんな、やめろ!」


 浅井の叫びは眼前の聴衆たちに阻まれる。未知の音楽との出会いに聴衆たちは高揚し、歓声とともに腕を突き上げていた。いっそう完成度を高めた曲が観客の感情を絡め取っているかのようでもあった。


「浅井くん、これ」森津の声色は咎めるようなものではなかったが、困惑が滲み出ている。「すごい、素晴らしい曲だよ。だけど」

「すみません、わかってます!」


 浅井はテントから飛び出し、一瞬の逡巡のあと、ステージへと走った。しかし、人々がステージへと駆け寄り始めていて、なかなか前に進むことができない。掻き分けながら進む途中、配給場所を確認する。警官はまだ遠い。今ならまだ間に合う。


 違うんだ、今はそのときじゃないんだ。全力を尽くすのはいい。だが、これは違う。抑えきれずに発散してるだけだ。演奏する音楽がどれだけ素晴らしい輝きを放っていたとしてもその場限りの快感に過ぎない。


 浅井はなんとか人の壁を抜け出し、壇上へと続く階段に足をかける。今は堪えてくれ、と願ったところで――音が止まった。

 観客たちが白昼夢から覚めたかのようにまばたきを繰り返し、辺りを見回す。訪れた一瞬の静寂が困惑のざわつきに変容する。気持ちよさそうに楽器を掻き鳴らし、歌っていた〈エイブラハムの樹〉は全員が混乱し、それから事態を把握したのか、青ざめた顔で立ち尽くした。


「ああ……」


 ステージ上にあるすべての機材に繋がった電源ユニットが停止している。

 恐る恐る振り返ると、警官が一人、森津のいるテントに駆け寄ってきていた。

 漏れそうになった溜息を必死に堪える。まだ最悪の事態には至っていない。事情を説明し、謝罪して警官の注意をすべて飲み込めば継続できるかもしれない。浅井は急いで踵を返す。その間際、視線を感じて振り向くと滝の口が小さく動いているのが目に入った。

 ごめんなさい、と言っているように、見えた。


          〇


「悪かった」


 公園内にある小高い丘の上で足を投げ出し、配給の列や森津の青空市場を眺めていると背後から桐悟の沈んだ声が聞こえた。身体の向きはそのまま、肩越しに見やる。自責の念に俯き、唇を噛みしめる彼の表情からはいつもの不遜さはみじんも見受けられなかった。「まあ座れよ」と促したが、彼は黙ったままで腰を下ろそうとはしなかった。


 二日が経っていた。

 テントに赴いた若い警察官は頑なで、どれだけ謝罪を繰り返しても態度は変わらなかった。申請なしに始めた演奏を黙認していたのが譲歩できる最後の地点だったのだろう。円滑な配給を一時的にでも滞らせた時点で先はなかった。

 乾いた空気の中で、浅井は流動する人の動きを見つめる。本来は雨が予定されていた日であったが、配給が続いているせいで晴天も終わらない。

 この公園に配給を受けに来る人数は明らかに目減りしていた。政府の熱心な誘導と情報交換により人々は分散し、もっとも最適な区域で列を作るようになったのだ。配給担当者も作業に慣れたらしく、市民の回転は格段に早くなっている。森津の青空市場の存在や中央管制塔の近くという信頼感が残っているのか、この公園は他の区域よりも混雑しているが、蝸牛さながらの前進速度だった渋滞はもはやどこにもなかった。


 最初で最後のチャンスだったのかもしれない。

 劇的に物事を変化させるためには劇的な状況が必要だ。屋代の起こした事件は〈エイブラハムの樹〉にとってうってつけだったというのにそれももう迂闊に利用することができなくなっていた。あのライブにまつわる騒ぎは公的機関の間で迅速に共有されている。人は目に見えない意図よりも確固たる形として現れた結果を重視する。浅井と〈エイブラハムの樹〉が配給を妨げたという結果だけがまたたく間に伝えられ、配給期間の公的施設利用は一向に認可される見通しが立っていなかった。森津にも厳重な注意がなされたらしい。処罰されずに済んだことは不幸中の幸いではあったが、彼に謝罪を繰り返させたことには負い目しかなかった。

 浅井は大きく息を吸い、再び桐悟に座るように促す。彼は無言のまま、隣に腰を下ろした。その態度に苦笑が漏れる。


「そんな顔するなよ。しっかり言わなかった俺が悪いんだ。それに」

「浅井に責任はねえよ」彼は地面に顔を向けたまま、消え入りそうな声で言う。「……もしかしたら、と思ったんだ」

「もしかしたら?」

「市民大会のときみてえに……みんなが俺たちの曲を聴いてくれるんじゃねえか、受け入れてくれるんじゃねえかって思ったんだ。ほんの数曲であのときの観客は信じられないほど盛り上がってただろ? だから、今回もそうなってくれるんじゃねえかって思ったんだ」

「だからセットリストを二つ、作ったわけだ」


 公園に到着したときのことを思い出す。あのとき、彼らに問いただしておけばこんなことにはなっていなかった。後悔をごまかすように頭を掻く。実行したのは確かに桐悟ではあったが、それを監督するのは浅井がやらなければいけないことだった。


「段々と人が集まってきてよ」桐悟は自分への怒りを吐き出すようでもあった。「堪えきれないほど興奮したんだ。だから、あいつらに指示を出した。欲張ったんだ。今ならもっと届くんじゃねえかって」

「少なくともあの場にいた人には届いてただろ。サイトに登録した〈エイブラハムの樹〉のページもアクセスは増えてる」


 音源も画像もアップロードされていないというのに、噂が噂を呼んでいるのか、彼らのページには多くのアクセスがあった。少ないながら感想も書き込まれている。手放しに褒め称える文面ばかりではなかったが、好意的な意見が大半を占めていた。

 だが、桐悟はそれをよしとはせず、「そんなの今は」と唇を噛みしめている。自身がした行為を恥じているのは訊くまでもなく、わかった。そして、彼が屋代に少し似ていることも。桐悟の親は中古品売買業者であると隼は言っていた。減らない在庫に頭を抱えた中古品売買業者の一人、だ。幼少期から音楽に傾倒していることに鑑みると、彼の中に重大な不足があってもなんら不思議ではない。

 たとえば、受容される実感、であるとか。


「桐悟、そんな顔をするなよ。まだ全部が終わったわけじゃないだろ?」

「……浅井、なんで怒らないんだ?」

「え?」

「怒ってくれよ」桐悟の拳は色が変わるほど強く握りしめられている。「浅井のおかげで何もかもが変わり始めてたんだ……それを俺が台無しにした、少し考えればどうなるかなんてわかることを、ガキみたいに」

「お前を怒る理由はないよ」


 桐悟が目を見開く。感情が爆発する予兆を感じ、浅井は先んじて言った。


「誰よりも自分自身の言葉がいちばん強いもんだ。俺だってお前を責めて楽になりたくないし……あと、なんだ、最初に言っただろ。おまえたちが若気の至りで失敗しても責任を取るって」


 それに、と考える。

 もし、自分が同じ立場だったとして、あのとき本当に聴かせたい曲を強行的に演奏しなかっただろうか。他人に認められていく様子が視覚化され、それを目の当たりにしたなら同じことをしたに違いなかった。周囲に否定され、蔑ろにされ続けてきた者にとって承認欲求は麻薬に近い。一度味わった甘美なまでの快感を再び求めるのは自然な衝動だった。


「なあ、桐悟。そりゃ俺もあの瞬間は泡を食ったけど、あれもロックだろ。過ぎたことは忘れて今後を考えよう」

「浅井、俺たちは」

「焦ってもどうにもならない。早く切り替えろよ」


 浅井は立ち上がり、伸びをした。芝が飛沫となって飛び散っているかのような、濃い青さが鼻腔をくすぐる。頬の横を過ぎ去っていった風が遠いステージの方向へと吹いた。


「帰るか。また作戦練らなきゃな」


 努めて笑顔を作り、桐悟が立つのを待ったが、彼は動こうとしなかった。後悔か悲痛か、拳を握りしめ、冷え切った視線で眼下の風景を睨んでいる。もう一度呼びかけたが反応はなく、浅井は仕方なく別れを告げて坂を下りた。配給を待つ人々のそばを通り、幹線道路の脇を歩く。数日までは考えられなかった、二日前より少ない、人の流れの中で帰路を辿った。

 もしかしたら、この中の誰かがこのまま現実に根を下ろすかもしれない。その一人が〈エイブラハムの樹〉の曲を聴いていたのなら、そこが起点となって輪が広がっていく可能性だってある。悲観することはない。


 悲観することはない、と浅井は小さく息を吐いた。

 屋代は間違いなく追放刑に処されるはずだ。特例措置もあるが、黙秘を続けていればまだいくらか猶予はある。現場の検証と復元、それから裁判が決行され、罪状が確定するのは数ヶ月先だ。刑が執行されるまでには彼が〈エイブラハムの樹〉に触れる機会も出てくるだろう。

 そう何度も自分に言い聞かせる。だが、胸中では強い声が響いている。それでいいのか? と声は言う。お前のちっぽけな価値観と行動力では何もできやしない、と叫んでいる。


 それを耳にした途端、浅井の歩みは緩慢なものになった。

 退屈だと喚き、周囲の不理解を貶め、嘆いてきた。衰退した青春に鬱屈し、ぐしゃぐしゃの感情を紛らわすべく明るく振る舞ってきた。自分自身を省みたとき、少年の頃から抱き続けた打算が翻る。

 浅井はこれまでずっと自身の愛したものを他の誰かにも認めてもらうために紹介し続けてきた。しかし、その根底にあったものは我欲に他ならない。何よりも認めて欲しかったのは自分自身だった。誰も知らないものを知っている、自分。

 

 ――すべての人間が何かを生み出せる存在ではない。

 

 絵も音楽も文章も、浅井がまともに作り出せたものは何一つなかった。だから幅広い趣味を持っていると装い、努力を打ち切ってきたのだ。自分が愛したものに愛されていないと知ることが恐ろしく、継続すらままならなかった。

 人との関係性も同じだ。端から見たら友人は多いように見えたかもしれない。だが、それも必死にそう振る舞っていただけだ。嫌われないように意見を変え、迎合するふりをして、ただ維持だけを目的にしていた。そこには発展など欠片もなかった。


 だから、離れた途端、忘れ去られる。

 きっと、死んだ数日後には自分がいた痕跡など何一つ残っていない。


 その確信に浅井の背筋が震える。怯えと悲しみの蛇が全身に絡みつき、締め上げる。偉人に憧れたわけではない。自分の生きる小さな半径で自己を確立したかっただけだった。

 奥歯を噛みしめる。桐悟に向けて言った言葉が反響する。

 誰よりも焦っていたのは他の誰でもない、浅井自身だった。


 屋代や波多野、森津が羨ましくてならない。彼らは確固たる自己があり、進むべき絶対的な指針を持っていた。陰で馬鹿にされようともぶれることのない頑強な幹が、彼らにはあった。

 それに比べて自分には――。

 浅井は拳を握り、立ち止まる。道行く人が迷惑そうに眉間に皺を寄せ、舌打ちをして避けていく。そのうちに肩と肩がぶつかり、身体がよろめいた。こんなところで立ち止まるなよ、と罵声が聞こえる。作り笑いとともに謝罪し、歩行を再開する。

 自分がない。


 だから、ありもしない「自分」を追い求めて変人を装ってきたのだ。自分の無力さに気付いてから今日までずっと。他人と違う感性を持っていると主張し続けなければ何もない自分が他人の目に留まるはずなどないと考えていた。

 屋代や波多野と交流を始めたのもその浅ましい打算が理由だった。我が道を歩く彼らを理解しているように振る舞えば特別感に浸ることができ、また、他人からも一目置かれるのではないかと思ったのだ。

 いつだって本当に特別な人間のあとを追うことしかできなかった。

 特別な人間は簡単だ。自己を確立しようと苦心する必要がない。

 屋代に連絡を取らなかったのもただ確かめたかったからだった。自分は必要とされているのか、他人とは異なる存在である屋代に認められていたのか、本物の友人になれていたのか。

 自分を認めたのなら彼が動いてくれるだろう、と薄っぺらい期待を抱き、ただ待ち続けることしか、浅井にはできなかった。


 結局、自分は頑強な何かにはなれはしない。


 そう考えた瞬間、無力感と自己嫌悪で地面の感触が頼りなくなった。雲の上を歩いているかのようだ。踏み出した足が沈み、落下するのではないかという杞憂を振り払えない。

 漠然とした、このままではいけないという思いだけが胸中に募る。焦燥が肌を剥ぎ、肉を崩し、骨を砕いて血液を蒸発させていく。

 このままでいいのか、と別の声が強く響いた。また諦めるのか、と。

 ――いいわけがない、と浅井は叫んでいる。

 だが、どうやって?

 暗く淀んだ沼に肩まで浸かったかのようだった。粘着質な冷たい水の中で皮膚が強張り、身動きが取れない。口内に侵入する汚水は苦く、藻が混じっていて、胸の中を暗澹たる感情で満たした。

 頭が重い。

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