ギヤ

 結論から言えば、浅井たちは求めていた機材のほとんどを入手することができた。

 僥倖と言うほかない。また、渡すべき対価も、森津が最後まで固辞してくれたおかげで微々たる出費にしかならなかった。

 予想外だったのは業者が用意したトラックに乗りきらなかったことである。コップに水を注ぎ、表面張力が溢流いつりゅうを堪え、やがて縁を越えてこぼれ落ちる、そのような具合だ。森津が「トラックくらい貸そうか」と提案したものの、ライブハウス前の狭い路地に二台のトラックを駐車できるはずもなく、また、これ以上世話になるのも申し訳なく、断らざるを得なかった。


 そこで面目躍如の活躍を果たしたのが美波の策略によって重しとなっていたリヤカーだった。残っていた荷物はぎりぎり収まる程度のもので、浅井は滝たち三人と帰路を辿ることとなった。波多野はそのあまりある薄情さを発揮し、森津とともにどこかへ去ってしまっている。恨み言を述べる隙もなかった。


 車でなら十分で到着する距離も重い荷物を牽きながらではそうもいかない。浅井たちがライブハウスに辿りついたときには既に運搬業者の姿はなく、買い取った機材がフロアの隅にまとめられているだけだった。


「おかえり」空調の効いた室内でアイスクリームを舐めていた美波が浅井たちを迎える。「まさか本当にリヤカーを持っていくとは思ってなかったけど」

「美波! お前のせいで大変な目に!」


 汗だくになった隼が。もともと短い距離を往復する用途として使われていたのか、リヤカーには自走機能がついていなかったのだ。暑いさなか、若い男女が四人固まって荷物を運ぶ姿はかなり珍妙な光景とも言える。途中で行き会った老婦人が労働に勤しむ若者だと誤解して「がんばってるわねえ」と微笑んだのも無理はなかった。自棄になった浅井が「おばあさんもやります?」と訊ねたが、老婦人は上品に棄却した。


「大変って言ってるけど」美波は機材の詰め込まれたリヤカーを指さして、言う。「活用してるじゃない。災い転じて福となしてる」

「それはそうだけど……」


 冷たい風が噴出している空調の前で滝が精一杯の不満を口にしているのを聞き、おかしくなる。そもそも災いをもたらすなとでも言えばいいのに、と苦笑しながら、それでも助かったのは間違いなく、浅井は美波に礼を言った。


「結果としていい判断だったよ、ありがとう」


 それから、スポーツドリンクに口をつける。外気温で温くなった液体は喉を締めつけるほどに甘ったるかったが、気にせず一息に口の中へと流し込んだ。日頃から運動する習慣があるとは言え疲労は隠しきれず、壁により掛かり、そのまま腰を下ろす。見れば良志だけが不満を顔にすら浮かべず、黙々と機材を搬入していた。寡黙で真面目な良志は止めないと倒れるまで働くのではないかと不安になり、「一旦休憩しないか?」と声をかけたが、返ってきたのは「問題ないです」という力強い低音だった。


「それで、浅井」とそこで美波が歩み寄ってくる。「成果はどうだったの? 見たらだいたいわかるけど」

「ああ、大漁だ。手に入るわけないと思ってたものもあった」


 浅井は隣に置かれたさまざまな機器を見やる。オークションや輸入代行に依頼したら目が飛び出るほどの金額を取られていたかもしれないものもあり、彼らが演奏するにあたって必要な物はほとんど揃っていた。


「お金、すごい取られたでしょ」

「それがそうでもないんだ」


 浅井は頭を振り、かかった費用を述べた。美波の眉がぴくりと動く。さすがに彼女も驚いたらしく、「嘘」とだけ短く言って目を白黒とさせた。経緯を説明すると納得したのか、ふうん、と息を漏らし、溶けて斜面を落ちるアイスの雫をしずしずとすくい取った。


「もらえるならもらっちゃえばよかったのに」

「そうもいかないだろ。これだけの量だし」

「まあ、浅井さんがそう言うのなら構いませんけど。私のお金じゃないですし」


 美波は興味なさそうに言って、浅井の隣に座った。ふわり、と長い髪の毛が揺れ、柔らかな髪の毛が鼻孔をくすぐる。途端に汗の臭いが気になり、しかし、無作法に臭いを確かめるわけにもいかず、視線を落とした。

 その視界の端に彼女の腕が映る。――しなやかで細い腕だ。どうやればこの腕であれほど激しく、繊細なリズムを生み出せるのだろうか。彼女のドラムは素人が耳にしても滑らかで隙がない。そして、心臓を鷲づかみにする迫力と肌を優しくなで上げる心地よさがある。

 それほど長い時間釘付けになっていたわけではなかったが、美波が不思議そうに「なに」と言ったことで浅井は我に返った。「いや別に」とごまかす。彼女はやはり平坦な口調で「そう」とだけ返してアイスクリームのコーンを口へと放り込んだ。


「状態はいいみたいね」

「そうらしい」


 浅井には楽器や機材の詳しい知識がない。滝や隼、良志、それと森津の目利きからでしか把握できていなかったが、どうやら少し調整すればすぐさま使用できる状態であるそうだ。それを素直に喜ぶと美波がぽつりと呟いた。


「……浅井が来てから速度がすごい」

 誉められるのはむず痒く、正面に機材を運搬している良志が目に入ったため、照れ隠しにおちゃらける。「良志の歩行速度?」

「まさか。会ってからまだ数日なのに、私たちの立ってる場所が信じられない勢いで移動させられてる。それが、少し」

「きみたちだから、だと思うけどな。もしきみたちじゃなかったら、こうはなってない」

「私たちだけだったらきっとあのままずるずる行ってた。浅井は猪突猛進で何を考えているか曖昧だけど、押し進める力がある」


 謙遜したいわけではないが、同意するには恥ずかしく、浅井は頬に当たる視線から顔を逃がした。


「俺はただのきっかけだよ。押し進めているのは金の力だし」

「それも含めて浅井なんだと思うけど」


 美波はさらりとそう言って、そばに置かれていた小型の冷蔵庫へと腕を伸ばした。彼女の手に握られたミネラルウォーターを見て、思わず唾を飲み込む。手元にあるスポーツドリンクの容器は既に空になっており、その軽さが手のひらに染みこんだ。


「浅井、これ」と彼女は冷えたボトルを差し出してくる。「飲みます?」

「あ、ああ、ありがとう」


 浅井はボトルを受け取り、開栓した。抵抗なく蓋が回転し、飲み口が露わになる。発汗は収まってきていたが、未だに喉が渇いている。冷たい感触が手に心地よく、口をつけ、一気に傾けた。

 その瞬間、浅井の身体のどこかから濁った声が飛び出した。口の中に広がった強烈な違和感に咽せ、全身が強張る。腹筋が脈動し、その反動で水が鼻へと入り込んだ。頭蓋骨を震わせるような痛みが走り、涙がこぼれそうになった。


「美波」咳が治まらず、息も絶え絶えに声を出す。「なんだよ、これ」

「あ、浅井さんも美波に引っかかってるじゃん!」


 一部始終を目撃したのか、隼が手を叩いて喜んでいる。滝すらも腹を抱えて笑い転げていて、急に恥ずかしくなった。何が起こっているのかわからず、恐る恐るボトルに口をつける。舐めるようにして飲むと強烈な塩気が咥内に染みた。全身が乾いていくかのような脱力感に襲われる。


「これ、塩水じゃないか」

「まあね」


 まあね、ってなんだよ!


          〇


 休憩を終えると全員が荷物の運搬を開始した。一時間以上もリヤカーを牽いたときと比べたら大した苦でもなく、すぐに作業は終わった。荷台に残された荷物は一つだけだ。


「これ」良志が浅井を窺う。「波多野さんのですよね」

「そうだな」蓋を開け、例のがらくたが入っていることを確認し、すぐに閉める。「間違いない。後で届けておくよ」

「ねえ、誰それ」

 怪訝な美波に答えたのは滝だ。「〈ヤーン〉の常連さんで、浅井さんの友達、かなあ」

「浅井の知り合いは変な人が多いの? その森津って人もそうだけど、こんなロープと手錠を大事にしまってるのはただごとじゃないと思うんだけど」

「俺の知り合いが変なんじゃない、波多野さんの知り合いが変なんだ」

「そしたら浅井さんも変になっちゃわない?」


 隼の揶揄に浅井は愕然とする。まさか、と声を上げそうになる。


「なあ、俺って変か? 違うよな、普通だよな」

「変だと思う」

「少なくとも一般的じゃないよね」

「ちょっと言いづらいですけど」

「浅井さん、残念ながら」


 何も言えず、浅井が梱包の移動に従事していると奥の部屋から桐悟が姿を現した。寝ていないのか、顔に疲労が浮かんでおり、披露とは黒に近い色をしているのか、と浅井はぼんやりと考えた。


「桐悟、調子はどう?」


 溌剌とした隼の声に、桐悟は「ぼちぼちだ」と曖昧に返した。語調には、ぼちぼち、という気配は感じられない。難航している雰囲気が滲み出ていた。

 桐悟と美波は昨晩から曲の手直しを行っている。運搬作業に参加しなかったのもそれが理由だった。完成している曲を調整するだけなのだから、と浅井は高をくくっていたが、そうもいかないらしい。手を入れれば入れるほど気になる箇所が生まれてくるそうだ。咄嗟に蟻地獄が想起される。すり鉢状の穴の中でもがけばもがくほど足を取られ、滑り落ちていく。彼もまさにそんな状態にあるようだった。


「美波が厳しいんじゃないの」隼が美波に囁く。責めるような口調ではない。

「でも、こういうのって遠慮してもしょうがないでしょ」


 よくあることなのか、浅井の心配をよそに〈エイブラハムの樹〉のメンバーは落ち着いた様子だった。「桐悟も美波もこだわるからな」と良志が腕組みをし、滝も「ありがとね」と申し訳なさそうにしている。それから、彼女は思い出したかのように続けた。


「でも、見てよ、桐悟くん。今のよりずっといい機材、揃ったんだよ」


 桐悟は気怠げに顔を上げ、滝が指し示すほうに視線をやった。その途端、彼の口から感嘆が溢れ、披露が削れていくのが目に見えてわかった。目に輝きが生まれ、肌に朱が刺している。活力とは明るい赤色をしているのか、と浅井は学ぶ。


「すげえな、見直したよ、浅井」


 楽器類の他、スピーカー、ウーハー、ミキサー、アンプ、エフェクターやマイクなど個人が持つには豪華すぎる機材に桐悟は舌を巻いた。彼に手放しで称えられると普段の悪態からの落差で面映ゆくなる。浅井は含羞がんしゅうを紛らわすために殊更ことさらに胸を張ってみせた。


「そう言ってくれるとありがたい」

「まあ、まだ録音できる曲はねえけどな」

「それは予定通り後々、なんだろうけど」そう言ったのは美波だ。「とりあえず当面についての打ち合わせでもする?」


 彼女の提案に滝と隼が満面の笑みを浮かべる。二人は顔を見合わせ、「やっぱりライブやりたいよね」「ライブしかないよな」と幼い兄弟のようにはしゃいだ。

 反対に渋い顔をしたのが桐悟だ。曲の調整が終わっていないことがやはり気にかかっているのだろう、餌に釣られてのこのこと人前に出るのは言語道断だと言いかねない雰囲気がある。それを察知しているのか、良志が先んじて言った。


「しかし、『いつ』と『どこ』が問題だな。劇的に曲が変わらないにしても練習は必要だ」

「そっか、そうだよね」と滝が興奮をそのまま、頷く。「仕上がるまでどのくらい?」

「明日にはできる……美波がリテイク出さなきゃな」

「私だって編曲やってるでしょ。確かに作業量はそっちのほうが多いけど、その言い方だと私の意地が悪いみたいに聞こえる」

「じゃあ、とりあえずできあがってるやつから個人練習してこうぜ」


 剣呑になりかけた空気を壊すかのように隼が呑気な調子で口を挟むと、桐悟は「ぜひそうしてくれ」と盛大に欠伸をした。個人練習でさえさまざまな楽器を担当する桐悟がもっとも苦労するはずなのに、彼がそれを懸念している様子はない。技術的な意味ではなく、精神的な意味でとてつもなく強靱な存在にも思えた。


「ここにいるのは普段から即興でアレンジしやがるのがうぜえんだよな、トチるしよ」

「ほとんど変えてない曲も多いし、問題ないでしょ」

「アレンジしたほうが気分が乗るからな」


 良志の意外な発言に浅井は噴き出す。いつもあれだけ真面目なのにステージに立つと変わるのか、と愉快になっていると、桐悟がじろりと目を鋭くした。


「浅井、笑い事じゃねえんだよ……まあ、そういうのはもうわかりきってる。絶対に押さえなきゃいけないポイントは押さえてあるからせめてそれには従ってくれ」

「それで」と浅井は話を先に進める。「全部合わせてどのくらいかかるんだ?」

「練習含めて一ヶ月、はかからねえか。もともとやってたし」

「こういうのは勢いが必要だからあまり時間を空けるとになると思う」

「美波の言う通りだな」浅井は大きく頷いた。「勢いってのはたまに技術を凌駕する。できるだけ早くこっちも用意するから、それまでには仕上げてくれ」

「ん? 浅井さんは何するの?」

「残った機材の発注もそうなんだけど、人を集めなきゃいけないんだよな」

「会場押さえたところで人が来るのか、わからねえけどな」

「どうせ暇人ばっかりだって!」と隼がおどけたが、桐悟がすぐさま厳しい視線を返した。

「暇人さえ見に来ねえって言ってんだよ。誰も俺たちのことなんて知らねえんだ」

「じゃあどうすんのさ。浅井さんの有り余る金を通行人に握らせる?」

「……それもありだな」


 意地の悪い顔で頷く桐悟に、浅井は「馬鹿言うなよ」と声を上げた。彼が本気で賛同していなかったのは明白だが、釘を刺しておく。「そんなことしてたら金がいくらあっても足りないだろ」

「隼の案はさておいて、どうします? 客を集めるもそうですが、収容する会場も探さないといけませんが」


 調子の言葉に全員が押し黙った。いざライブだと息を巻いてもこれだ、と桐悟が眠気で淀んだ目を向けてきている。わざとらしくならないようにそっと目を逸らしたが、それで済まされないのは当然で、罵倒の予感に、浅井は考えがまとまりきらないまま、呟く。


「ここは逆転の発想だ」

「逆転?」と滝が首を傾げる。


 どうすればいい? 浅井は焦燥が顔に出ないよう努め、必死に頭を捻った。波多野の人脈にかけるか? いや、と胸中で否定する。これ以上あの傍若無人な男に頭が上がらなくなるのは好ましくない。

 何か、視界が一気に明るくなるような劇的な提案はないものか。

 沈黙が漂い、誰もが溜息を吐こうとするのを目にし、浅井は自信なく口を開いた。


「会場を押さえるというより、人の集まるイベントにねじ込むのはどうだろう」


〈エイブラハムの樹〉には知名度がない。満足のいく規模の人数とそれを収容する会場を今から用意するのは現実的ではなかった。ならば機材調達で浮いたお金を主催者に掴ませてでも場所を間借りするほうがよほど実現可能と言える。

 今、焦点を合わせるべきは観客の質ではなく、量だ。


「でも、そんなのできるの?」

 顔を顰める隼に慌てて返す。「もっといい考えがあるならそっちにするけど、何か思いつくか?」

「思いついてたら苦労しないよ」

「ならとりあえずこの線でいってみよう。今月中となるとすぐにでも主催者に連絡しなきゃならないけど、努力する。みんなも何か提案が合ったら言ってくれ」


 浅井はそこで手を叩き、打ち合わせ終了の合図とした。不安はあるが、胸中を占拠し始めているのは高揚だ。全員が同じ気持ちを共有しているらしく、彼らは示し合わせてもいないのに同時に頷いた。

 問題はある。どのイベントの主催者に掛け合うか、よく吟味しなければならない。仕事柄、行事の開催予定には何度も目を通していたはずだったが、音楽を演奏してもおかしくなく、それでいて多くの人が集まるイベントはなかった気がする。疲労で思い出せないだけかもしれないが、咄嗟には出て来ず、浅井はじっと考え込んだ。


「あのさ」


 美波の声に顔を上げる。彼女の表情は感情を読み取りにくく、いい提案なのか悪い知らせなのか判別がつかなかった。


「市民大会」

「え?」

「人が集まる、融通の利く主催者がいるイベント。二週間後に屋内スポーツの大会があるんだけど、開会式をやるステージがあるから恰好もつくと思う。スケジュールも緩いって聞いたし、何より実行委員に私の親戚がいるから比較的頼みやすい」


 美波の声は明瞭な輪郭を伴って響き渡った。


「エラ、って言うんだけど」

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