爆弾魔の配慮

〈ヤーン〉に到着したのは十九時を過ぎたあたりだった。エラが来店しているのではないかと期待したわけではなく、波多野から食事に誘われたからだ。彼の誘いを聞いたときは耳を疑い、別の店を提案したが、押しの強さに負けて不承不承ながら応じさせられる結果となった。

 店の前で周囲を見渡したあと、ガラス越しに店内も覗いてみたが、波多野の姿はない。しかし、彼が時間を守った試しなど数えるほどしかなかったため、怒る気にもなれなかった。以前、誕生日に高級なクォーツ時計をもらったと披露されたことがあったが、それがどういった意図で送られたのか、彼が察知することは生涯ないだろう。このまま店の外で待っていても時間を浪費するだけだと悟り、屋代はひとまず席に着いていることにした。

 からん、とドアベルが音を立てる。

 屋代を迎えたのは件のバンドマンウェイターだった。


「いらっしゃい、ませ、ってあれ、オーナーさんじゃないすか」


 浅黒い肌と黒い短髪をした彼は陽気な笑みを浮かべる。この前のウェイトレスと異なり、彼とは何度か顔を合わせたことがあった。物怖じせず、肩肘を張らない態度は屋代の目指していた空間に合致していて、客からの評判も上々だった。

 彼は厨房を一瞥する。つられて屋代の視線も奥へと向いたが、島田は気付いていないらしく、BGMの隙間にかすかな調理の音が聞こえてくるばかりだった。


「呼びます?」

「いや」勤務中の若者をしようで小間使いにするほど傲慢なつもりはなく、遠慮する。「気にしないで構わない」

「今日、何かあるんすか?」

「不本意ながら食事に誘われて、不本意ながらこの店になった」

「自分の店なのに」ウェイターの顔が綻ぶ。「どうせ波多野さんでしょ」


 見透かされてるな、と屋代は肩を竦め、仕事をするように促した。先日と違い客はまばらにいるだけだったが、ウェイターが長々と立ち話をしているのはいい印象を与えない。彼も「ですよね」と返し、テーブル席に座る客の元へと歩いて行った。

 弾むようなジャズが薄く流されている店内、右手のテーブル席には客が一組、正面のカウンターには客が二人、座っている。カウンターの一人は顔見知りの常連で手を挙げて挨拶してきたため、会釈を返しておく。ついでに厨房を覗こうと首を伸ばすと、島田と以前体調不良を訴えていた調理師が談笑しながら料理を作っていた。


「余裕そうだな」


 話しかけると島田は「あれ」と素っ頓狂な声を上げて手を止めた。その合間に薄く切られた玉葱が包丁の側面から剥がれ、力なく横に倒れた。彼は身体を捻って壁に投影されたカレンダーを確認し、首を捻る。


「この前来てからそう経ってないけど、屋代さん何しに来たの?」

「ここは俺の店だぞ」姿を現して文句を言われる筋合いはない。「波多野に誘われてきたんだ」

「ここは屋代さんの店ですけど」

「ぜひ波多野に言ってくれるか」

「店は客の注文を受ける立場で客に注文をつける立場じゃないんだよね」


 島田は尊大に言い返し、そばにあった折りたたみ椅子に腰掛けて大きく息を吐いた。流れるような動作でグラスを手に取っている。勤務中であるにも関わらず堂々とビールを呷る姿はやけに馴染んでいて、ともすれば見過ごしてしまいそうなほどだった。


「少しくらいなら構わないが、俺の前でやる態度じゃないだろ」

「屋代さん、俺は未来を恐れないんだよ。未来を恐れてないから経営者の前でビールも飲むし、従業員と上司の悪口で盛り上がったりもする。押し寄せる民衆にだって立ち向かってみせるよ」

「よし、わかった。こっちもお前の悪評を流してやるからな」

「悪評に怯んでたらガリレオは地球を動かせなかったし、忠敬は日本を作れなかったよ」

「お前がその主張を突き通してもせいぜいビールが美味くなるだけだ」

「屋代さん」島田は人差し指をぴんと立て、力強く構えて、朗々と宣言した。「俺は美味いビールを飲むために働いていると言っても過言ではない」

「じゃあ、働いてくれ」

「……あー、それもそうだね」


 いやにあっさりと引き下がる島田に訝る。不穏な気配に振り返ると波多野が入店してくるところだった。どうりで、と納得する。厨房を戦場へと変えるのが客であるならば波多野はまさしく一騎当千の兵と評価してもよい。

 悪口なんて言ってないですよ、と涙声で喚くもう一人の調理師を宥め、屋代は波多野が好んで座る席へと陣取る。挨拶もしないうちに着席した彼はメニューも開かないまま料理の名前をいくつか列挙した。


「さあて、飲むか」遅刻を悪びれもせず、波多野は運ばれてきたグラスを掲げる。

「その前に何かないのか」

「料理はすぐに来るって。ここ、いい店なんだよ」

「そうじゃない。久しぶりだな、とか遅刻してすまない、とかあるだろう」

「たかだかひと月で久しぶりとも思わねえし、それを考えたら十分そこらの遅刻なんてないと一緒のことだ思うとしようぜ」にやり、と波多野は口角を上げる。「なあ、爆弾魔」


 息を呑み、屋代は慌てて周囲を窺った。

 波多野の一言が確固たる響きを持って店内に行き渡ったのではないか、と気が気でなかった。冗談めかした口調ではあったが、だからといって聞かれていい事柄ではない。近くの客や厨房にいる島田の表情を見澄ます。高鳴った鼓動とは正反対の、穏やかなテンポに変わったBGMが料理の香りをまとって漂っているだけで、幸いながら話を聞かれた様子はなかった。屋代は浮かせた腰を落ち着け、笑いを押し殺している波多野を強く睨んだ。


「そういうのは、やめろ」

「悪い悪い」彼は一応の謝罪をしたが、声色に真摯さはまるでなく、むしろ屋代の苛立ちを募らせるべくふざけているのではないかと疑いたくなるほどに愉快そうにしていた。「もうしない」


 信用はできなかった。波多野とは大学時代に知り合ってからの付き合いだが、何度彼の口約束に振り回されたか数え切れないからだ。善悪の基準が「面白いか否か」で左右される彼の人格は天真爛漫と呼ぶには悪意に満ちている。年齢が上の彼に敬語を使わない最たる理由がそれだった。

「本当にやめろよ」と念を押し、屋代は嘆息する。波多野は「オッケーオッケー」と掲げたビールを揺らし、不安になりながらグラスの縁をぶつけた。澄んだ音が鳴り、酒とともに諦めを胃に流し込む。


          〇


 波多野に爆破計画を打ち明けたのは四ヶ月前、春の兆しを冬の寒さが押し返そうとしている時期のことだった。

 口を滑らせたわけではない。閉店後、自身で作ったつまみで酒を飲んでいたが、酔いはいささかも感じていなかった。計画になんらかの不備がないか、誰かに勘づかれていないか、根拠もなく恐れ、眠れない日々が続いており、むしろ酔いに身を任せたいとすら思っていた。


 すっかり夜も更け、島田ら従業員は既に帰宅していた。憂いがアルコールを分解しているのではないかと疑い始めたとき、薄暗い店内に騒々しい声が突き刺さった。何事かと振り返るとすぐに原因が判明した。波多野が我が物顔で店に乗り込んできていたのだ。既に酒が入っているらしく、顔は赤く染まっていた。我が物顔で赤ら顔、だ。

 波多野は屋代の隣に腰を下ろし、横柄に酒を要求した。かねてからの不安と強襲による狼狽で言葉をなくした屋代はその指図に従うほかなく、目の前の狼藉者にグラスを差し出した。波多野はグラスを傾けて一気に飲み干し、アルコールの強さに呻いた。


 気分転換がてら誰かと杯を交わすのも悪くないと思ったのか、波多野に翻弄されていたのか、よく覚えていないが、屋代は波多野を追い出さなかった。そして、ぺらぺらと愚痴を撒き散らす彼につられて爆破計画を漏らしてしまったのだ。

 屋代は今なお、彼に計画を話した自分の意図を掴めていない。表面化していなかっただけで微酔が身を潜めていたのか、それとも彼の歪んだ善悪の天秤に期待し、背中を押す言葉をかけてもらおうとしたのか。

 動機はさておき、結果は悪くなかった。波多野は眉を顰めこそしたが、拒絶も糾弾もしなかった。それどころか「こんなのは慣れてる」とのたまい、応援するほどだった。その真意はさておき、彼の超然とした態度が屋代の胸中にとぐろを巻いていた暗澹たる蛇を取り除いたのは間違いがない。


          〇


「計画は順調かよ」


 波多野の飲んだ酒量は普段よりも多く、そう訊ねた口調には明らかに酔いが滲んでいた。懸念材料はあったが計画自体には支障はなく、それを伝えると彼は「そうか」と嬉しそうに呟き、二人分にしても多すぎる料理を我が物顔で囲い込んだ。あのときと同じ我が物顔で赤ら顔だ、とぼんやり考える。

 二十一時を回っていたが客足は衰えていなかった。常連たちは既に退席していてカウンター席に座っているのは屋代と波多野だけになっていたが、テーブル席はすべて埋まっている。厨房にいる島田も、時折顔を出して雑談に混じるくらいにはゆとりがあるようだったもののほどほどに慌ただしさを感じさせていた。


「で、島田には」波多野は厨房を気にかけながら囁く。「言ったか?」

 その話題か、と屋代は歯切れ悪く答えた。「いや」話題にされているとも知らず、島田はフライパンから料理を皿に盛り付けている。

「お前なあ、わかってるだろ? 理由はともかく、そろそろここを明け渡さないと踏ん切りがつかなくなるってことくらい」

「まあ、な」


 未練、なのだろう、おそらく。

 屋代は内心におぼろげに浮遊した感情をそう結論づけていた。

 本来であれば、駆り出されることになったあの日、切り出すつもりだったのだ。しかし、せっかく島田と二人になったというのにこの体たらくだ。活気溢れる〈ヤーン〉とそこに集う人々の様子に決意の端がわずかに揺らいでしまっていた。計画を中止にするほどの強烈な感傷に溺れたわけではなかったが、ぎりぎりまで手放したくはないと思うほどだった。


 あれだけの〈爆弾〉を仕掛けたというのに。

 屋代は苦笑をごまかすようにグラスへと口をつける。

 蜘蛛の糸爆弾は非労働参画者の家庭が居を構える一帯を主な狙いとして埋設されている。集合住宅で暮らす彼らは仮想現実の利用率が著しく高いこともあって最適な標的だった。


 最低限所得保障も無料同然で食事を提供する店もあるのだ、飢えに苦しむことはない。


 というよりも、そうならないように爆弾を配置していた。単に被害を拡大させるためであればのべつまくなしに爆弾を仕掛ければいいだけだが、それでは目的は達成されない。屋代は付近にある飲食店、それも〈ヤーン〉のような、材料から調理する店にだけは打撃が加わらないよう仕向けていた。

 理由は簡単だ。

 計画を実行し、自宅で食事を摂られなくなったとき、機械によって生産される無機質な食事ではない、人の手によって作られた料理を提供する場所がなかったら意味がないからだ。他にも理由はあったが、波多野には話していない、はずだ。他者のためではなく、エゴに塗れたあまりに馬鹿馬鹿しい理由で口に出したら赤面してしまう。

 とはいえ、赤面では済まされない問題があることは承知していた。


 他の飲食店とは異なり、屋代、つまり、加害者が経営していた〈ヤーン〉は苛烈な批判の矢面に立たされることになるのは想像に難くない。特に店長である島田がどんな罵詈雑言を浴びせかけられるかは考えたくもなかった。

 島田が新たに店を構えられるだけの蓄えを持っていたら悩まずに済んだのに、と波多野に溢したことを思い出す。屋代にとってしばらく仕事をともにしてきた島田はもはや単なる従業員ではなく、積極的に認めるのは辛いが、友人と称してもよい存在となっていた。その彼に尻拭いをさせるのは心が痛む。だが、当然のことながら波多野には「自分勝手すぎる」とひどい罵倒を浴びせられた。反論する余地もない、自然な意見ではある。


 だが、屋代が代価として渡せるものは〈ヤーン〉しかなかった。爆弾の作成によって資産は底を尽きかけていて今は雀の涙ほどになってしまっている。島田にとって〈ヤーン〉が価値のある存在であることを祈るしかなかった。

 そして何より、自分が作り上げた〈ヤーン〉という居場所がなくなるのはあまりに寂しい。独善であるのは百も承知だ。しかし、と屋代は思う。

 独善かもしれないが、たった一度のわがままくらい許してくれてもいいではないか、と。


「なあ、波多野」


 屋代はグラスに注がれた残り少ない琥珀色を煽り、俯いた。冷たい酒は口内で熱へと変わり、飲み込むと血中に溶けて広がった。いくらアルコールを摂取しても酔えなかった以前とは違い、今は快がまだらに浮遊している。その一方で油断すればすぐさま沈殿しそうになるほど思考は重苦しくなっていた。酒気が原因なのか、心痛が原因なのか、定かではなく、それがいっそうもどかしい。


「この話はここじゃないどこかでしないか」

「ここじゃなきゃだめだっつうの」

「あいつに聞こえるかもしれないだろ」

「聞こえればいいと思ってるんだよ」波多野は臆面もなく言い放ち、続ける。「いつまで経ってもうだつの上がらないお前に助け船を出してるんだ」


 なし崩しに伝えたくはないというのはわがままだろうか。波多野の返答は容易に予想できたため声にはしなかった。自分でも理解していることだった。

 この気持ちはやはり未練に他ならない。

 島田に店の譲渡を伝えないことも、エラに〈ヤーン〉の存在を正直に話したことも、そもそも爆弾を時限式にしなかったことも、屋代が自身の境遇を諦め切れていなかったからだ。自分は幸福に気がついていないだけで実際は恵まれているのではないか? そうだとすれば固く決心して練ったはずの経学が前提から崩れることになる。

 その可能性がもっとも恐ろしかった。


「どうせくだらねえこと、考えてんだろ」


 この思いはくだらないのか?

 寄辺のない感情を抱きながら波多野に目を向けたが、彼は楽観的な表情をするだけで答えとなる言葉を発しなかった。彼は目の前にあった料理を口へと運び、美味そうに咀嚼しながら屋代の鼻先で箸の先端を揺らす。ぶら下がっていた野菜が振り子のように動き、やがてするりと落ちた。


「お前とは十年近い付き合いだけどよ、悪い癖だぞ」

「……何のことだ」

「お前は、他人に期待しすぎだよ」


 いつの間にか表情から笑みが消えている波多野を目の当たりにし、身じろぎする。


「学生の頃からそうだったよ、お前は。他人が自分の望むとおりのことをしてくれるんじゃねえか、同じ気持ちを持ってくれるんじゃねえかって勝手に人に期待して、そのたび勝手に絶望してた」

「そんなことは」

「ない、と断言できるのかよ」


 声にならない声が喉元で蠢く。

 手元にあったグラスの結露が滑り、指を濡らした。

 ない、とは言い切れなかった。

 波多野と出会った学生当時どころか、高校、もしかしたらそれ以前からそうだったのかもしれない。自分の言動が捻れることなく親やクラスメイトたちに伝わると無邪気に信じていた。知覚できないほど緩やかな坂道を少しずつ登り、気付けばかつての自分が見えなくなるほど高い位置にいる、そのようにして周囲との関係性が構築されるのだと、言葉にしなくても感情が伝達されるような友人や恋人はそうやって生まれるのだと考えていた。


 波多野の指摘は概ね正しい。

 他人にどれだけ親しみを抱いたとしても、いずれはなくなる。直接的に裏切られなくても、時間と場所の隔絶が修復しがたい溝を作り出していく。あれだけ仲が良かった浅井とも疎遠になっているのだ、保証された交わりなどどこにもないことは承知していた。


「なあ、屋代、そういうのはもうやめちまえよ。この国にお前をわかってやろうなんて奇特なやつはいない。お前の居場所なんてあらかじめなかったんだよ。島田だとか、この店に来てる常連だとか、今お前の周りにいる人間も、いずれいなくなる」

「厳しいな」

「俺もお前のことなんてどうでもいいと思ってるからな。だいたい、俺はなんだかんだこの国が好きだし」


 彼の言葉が真実なのか判然とはしなかったが、追及はしないことにした。確かめる意味などない。辛辣で迂遠ではあるが、屋代には波多野の言葉が誘導ではない、まったく別の意図を持っているように聞こえていた。逆説的な制止か、回りくどい激励か、関係性を熟知した放任か。そのいずれにしても悪い感情は少しもないのだ。

 堪えきれず噴き出すと、波多野は「なんだよ」と煙たそうに眉を潜めた。屋代は小さく首を振って、酒を煽った。


「俺はお前のことがそれほど嫌いではない」

 波多野は毒気を抜かれたかのようにぽかんとして、それから舌を突き出し、吐く真似をした。「気色悪いことを言うなよ」

「すまん」

「まあ、なんだ。まだお前が他人に期待してるなら虱潰しに知り合いと会ってみろよ。全員に別れを告げたらもう逃げられねえだろ。立つ鳥跡を濁さず、だ」

「思い切り濁そうとしてる人間へのアドバイスではないな」

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