中央管制塔天候管理局

        【浅井 1】



 先輩の指示で靴を飛ばしたんです。


 そんな言い訳を考えながら浅井あさいは「あしたてんきになあれ」と腿を振った。

 半端はんぱに履いていた革靴が緩やかな放物線を描き、床にぶつかってわがままな幼児のように身をよじったあと、動きを止める。仰向け、と表現していいものか、靴の底を天に向けていた。


「雨、だな」と同僚の波多野はたのは調子外れのリズムで口ずさむ。

「いや、雨ですけどね、局長になんて報告するつもりです?」

「知らねえよ」波多野は無責任に言い放ち、半袖のシャツを肩までまくる。「お天道様のご機嫌が、とか書いとけよ」


 彼は嬉々とした様子でコンソールに表示されたスライダーを操作しており、その様子に浅井は上司からの叱責を想像して嘆息を漏らした。国の運営を司る中央管制塔の、一際高層にある天候管理局の大窓から眼下を覗く。雲のない空から前触れもなく落ちてきた水滴に、市民たちは慌て、我先にと屋根の下へ駆け込んでいた。


「あーあー、降ってるねえ」


 波多野が長く伸びたぼさぼさの髪の毛を揺らしながら大窓に近づいてくる。よれた半袖のシャツに短いズボン、汚れたサンダルをぱたぱたと鳴らす彼の姿はやはり公職者のあるべき姿からは遠く離れている。


「降らしてますねえ」

「おい、あそこ見てみろよ。野球してる奴らがてんやわんやだ。コールドゲームにしてやろうか」

「意地が悪すぎですよ。ただでさえ中央管制塔の職員は風当たりが強いのに」

「知らねえよ」

「知らねえって、この前、会議に来た偉い人がげんなりしてたじゃないですか」

「会議なんて出てねえよ」

「あ、そうでしたね」

「だいたい、そいつは俺より偉いのか?」

「たぶん、地位も勤務態度も波多野さんよりは」

 波多野は「地位も勤務態度もかあ」とさして興味がなさそうに呟いたあと、「それで」と話を戻した。「それで、風当たり、そんなに強いのかよ」

「今さら、ですよ。公職者が愛される時代がありましたか?」


 それもそうだ、と波多野は自分の席へと戻り、再びスライダーを弄った。だが、雨が穏やかになる気配はなかった。むしろ、雨粒が強かに打ちつけられ始めている。不規則でありながらどこか調和が取れている音はドラムの演奏を思い起こさせる風情があった。


「どうだ? 風も強くしてやったから差し引きこっちの勝ちだよな?」


 天気に勝利とか敗北とかはないんですよ、と浅井は呆れるしかない。和気藹々わきあいあいと野球をしていた面々はベンチに引き下がったのか、運動場から人の姿が消えていた。道路で食料供給管の整備をしていた工事関係者が疎ましげに窓を見据えているような気がしたが、米粒ほどの大きさであったため、その真偽はわからなかった。思い過ごしでありますように、と願い、窓際から離れる。


 浅井は自分のデスクへと戻ると経過報告の備考欄に雨量の増加についての釈明を記していった。近年では国民の大多数が夢中になって参加している仮想空間と連動しているため、急激な天候変化を納得させるにはそれだけの理由が必要だった。波多野を諸悪の根源として槍玉に挙げることもできたが、そうするつもりはない。マニュアルに従って置物のように座っている他の同僚よりも彼のほうがよほど人間らしく、好感が持てたからだ。浅井は空気中に舞う埃の濃度や湿度など、さまざまな数値をチェックして雨を降らせた理由をでっち上げていく。


「もう梅雨も終わりましたね」


 古来よりこの国は豊かな四季に溢れ、自然はその時々により目を瞠るほどに表情を変えます。浅井は天候管理局の事業説明にあった一節をぼんやりと諳んじる。過去の天候をトレースして、七月になる明日からはじりじりと温度を上げていく予定だった。


「梅雨はよかったよなあ。雨を降らせても文句言われないのがよかった。晴らしたら晴らしたで感謝されるんだぜ」

「局長は報告を読んでぼやいてましたよ」

「言わせておけよ、そんなの。……それで、夏ってのはいい感じの天気、あんのか?」

「いい感じ、って言われても」


 波多野が天候管理局に異動してきたのは浅井よりも前ではあったが、日がな一日、どうすれば人を困らせられるか、ということだけに心血を注いでいるため、知識量は乏しい。例年の天気を学ぶより通り雨に降られる市民を眺めるほうが性に合っている、というのは彼自身の弁だ。

 彼の価値観は世間の価値観と異なる。例の選別には慎重に慎重を期さなければならない。浅井はおどけ、外国語を直訳するように言った。


「夏は、晴れます。夏は、暑いです」

「そうじゃなくだな、もっと俺の琴線をびんびん弾くような天気だよ」

「じゃあ」と半ば投げ遣りに答える。「夕立とかはどうです。わりと個人の裁量に任せてもらえてますけど」

「ユーダチ?」

「午後とか夕方とか、そのくらいの時間に降る通り雨ですよ。っていうか、常識じゃないですか、知っておいてくださいよ」

「知識や技術をひけらかすのはいい趣味じゃないぞ」

「これ、仕事なんですけど」

「趣味みたいなもんだろうが。俺はもともとセキュリティ部門の人間だぞ」

「それ、前も言ってましたけど、ここにいるってことは飛ばされたってことですよね」

「違うっつうの、俺は雨を降らせたくてここにわざわざ来たんだって」


 その言い様は自身の非を認めない子どものようにしか見えず、浅井は追及を断念した。左遷も賢明な判断だと思う。これほどいい加減な人間をセキュリティなどという重要な部門に就かせたこと自体が間違いだろうとすら感じた。彼はしばしば知識量の不足や悪戯の弁明として部門異動を挙げていたが、その説明では誰も納得しませんよ、と何度忠告を繰り返したか、数えられない。


「で、なに? 夕立、だっけ」

「ほら、見たことありません? もこもこしたでかい雲」

「ああ、格闘家雲な。戦士雲だっけ?」


 勝手なネーミングだ、と浅井は噴き出しそうになる。ただ、あながちその形容も誤っているとは思えなかったのも事実だ。一面の青空の中、悠然と姿を現す積乱雲は筋骨隆々とした格闘家を彷彿とさせたし、雨を降らせる使命に燃えて快晴と争う戦士の雰囲気がないと言えば嘘になる。


「夕立、ねえ」


 波多野の声色を耳にし、浅井は机の下に隠した拳を握った。


「いや、個人の裁量に任せられているとは言いましたけど、始末書の存在、忘れないでくださいよ?」

 言いながら、横目で監視カメラを確認する。ほら、俺は止めてるでしょ?

「温度も上がるって言ったな」

「今はやめてくださいって言ってます」知らず、声は弾んでいる。

「浅井、お前にいいことを教えてやるけどな」


 波多野は窓辺から大股で迫ってきて、浅井の顔の前でぴんと人差し指を立てた。波多野の口にする「いいこと」は公共の福祉にそぐわず、大多数にとって「いいこと」ではなかったため、耳を塞ぎたくなった。


「いいか、勝利にはな、二の矢三の矢が必要なんだよ! 一回だけなら誰にでもできるからな、誰かと協力してもいいから、何度でもしつこくやることが大事なんだ!」


 だから、勝利とか、そういうのはないんですって!


          〇


 勤務を終え、中央管制塔から出た浅井は空を見上げた。大規模な投影装置に映し出された雲は絶えず流動し、刻一刻と形を変えている。淀みのない青空の端から夜の塊がにじり寄ってきていた。

 つい先ほどまで波多野が降らせていた雨は既に他の職員によって停止させられている。公園の通路は水はけのよい素材で作られているため目立った水たまりはないものの、広場を覆う草の上には水滴が転がっており、夕日の反射で目が眩みそうにもなった。


 浅井はベンチに腰を下ろし、コンタクトレンズ型の視覚補助デバイスに時刻を表示させる。波多野が会議室に連れ込まれてから三十分以上も経過していた。

 勤務終了後、彼が上司に呼び出される光景は飽きるほど目にしたものだ。食事の約束をしている日くらい、と考えないでもなかったが、無為なことでもある。改善を期待するくらいなら縁を切ったほうがよっぽど生産的であるとも言えた。もちろんそんなつもりは毛頭ない。


 ――六月は日が長い。

 そのせいか、未だ多くの人が公園内を行き交っていた。子どもたちは雨で固まった砂場をこれ幸いにといじくり、大人たちはジョギングに汗を流している。若い、十代と思しきカップルが手を繋いで闊歩する様子もいくつか見受けられる。中央管制塔付近の住民の行動としては珍しいものではない。一帯の住民は政府関係者とその家族によって構成されており、推奨運動プログラムだとか自然とのふれあいだとか、物理的空間における接触をいとわないよう、丁寧に教育されている。一般市民が集まる住宅地ではこうはいかない。非労働者層が多く集まる地域の公園には人影などまるでないのが常だった。


 そういえば、と浅井は高校時代の友人を思い出す。

 中学生にして親元から飛び出した彼の境遇が象徴的だった。彼の両親は仮想現実空間での生活に溺れ、実社会における健全な生活を送ることもままならなくなっていたそうだ。

 そして、そのしわ寄せはすべて、彼の元へといった。

 ネグレクト、という言葉が刺々しい輪郭を持って頭に浮かぶ。


 十二歳以下の子どもを持つ家庭に対して行政のきめ細かい指導がなされる規則はあったものの就労人口の減少は著しく、彼は手が回らない「一部」の子どもになってしまっていたそうだ。その理由から彼は自身の親が没頭している仮想現実システムを毛嫌いしており、そうなるともはやこの国では交流ができなくなる。あらゆるものが仮想現実システムを前提としている以上、卒業以来疎遠となってしまうのは自然な成り行きでもあった。


 屋上や校舎の裏でした、彼との会話が甦る。

「青春は遠い空から飛来する」と彼は忌まわしげに、地中に作られた空を睨み据えていた。その頃の浅井は冗談や突飛な比喩として受け取ったが、こうして職業として関わるようになると真実味を帯び始めてしまう。この国のシステムは人間的な不合理さえ排除してシステマチックに動いている。支配していると表現してもよい。外国との交流も必要最低限に抑制されていることに鑑みると彼がこの人工の空を憎む理由が分かる気がした。この国を覆う巨大な天井こそが青春の鮮やかな色彩を奪っているのではないか、とその言葉を鵜呑みにしたくもなる。まさに自分がそれを管理しているというのに、だ。

 なんてままならない、と浅井は大きな溜息を吐いた。


 さらに三十分ほど公園のベンチで過ごしているとようやく波多野が姿を現した。たっぷり一時間は説教されていたはずなのに、堪えた様子が見受けられず、自浄作用はないのか、と管理体制を嘆かずにはいられない。


「今日は長かったですね」


 当て擦るように言ったが、期待した反応は返ってこなかった。波多野は皮肉ではなく同情と受け取ったらしく、「そうなんだよ」と大げさに嘆いた。


「下らねえ問題で呼び出されて困ったもんだ」


 浅井の頭に浮かんだのは突然の雨で作業中断を余儀なくされた工事現場だ。ほとんどすべての公共事業は行政の出す天気予定に従って動いている。約束を反故にした以上、口頭注意という軽い処分だけで済む問題ではなかった。少なくとも浅井が同じ行動を取ったら正式な懲戒処分を食らうのは間違いがない。

 理由は薄々わかっている。波多野は仮想現実システムのシェア一位を守り続けている会社、そのセキュリティ部門にかつて在籍していたからだ。ヘッドハンティングという形で管制塔職員に転職した経歴があるため、罷免ひめんまで踏み切れなかったとしてもなんら不思議ではなかった。


「困らせているのは誰ですかね」

「俺のせいじゃねえよ」


 責任転嫁するばかりで反省の色などない。また、謝罪もなく、さっさと歩き始めてしまったため、浅井は急いで後を追った。


「それで、今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」

「小さいけど」話題が変わると横顔から覗く彼の目が爛々と輝く。「いい店だぞ」

「へえ、珍しい」

「なにがだよ」

「波多野さんが真正面から誉めるなんてそうないですよ。そんなに美味いんですか」

「味は普通だよ。美味いっちゃ美味い」

「なんですか、それ」

「いや、知り合いの店なんだけどな、ちょっと前にかわいいウェイトレスが入ったんだ」

「なんですか、それ」


 苦笑しつつも悪い気はしない。知人の店ならもっと早くに紹介されてもおかしくはなかったが、最近になってそのウェイトレスが雇われたのであれば多くは言うまい。浅井は続きに耳を傾ける。


「そこの料理長が言うには美人をひっそりと眺めるのは男の使命らしいぞ。一理あるよな。美しさに出会ったとき、人はしまい込むか広めるかのどちらかだ」

「さすが波多野さんの知り合いですよね。気持ちいいくらい軽薄だ」

「ああ、違う違う。そいつとも仲はいいけど、昔からの知り合いはオーナーのほう」


 どちらにせよ、そのオーナーとやらも世間的にはよくない熟語、たとえば変人だとか前科者だとか、で形容されるタイプの人物に決まっている、と浅井は断じた。波多野の人脈は一癖も二癖もある人物ばかりで形成されており、広いというのに切り立っている。人脈のアルピニストがいるとして彼の前に現れたならばきっとその巨大さと勾配を目にして悲嘆に暮れるに違いない。


 誰もいない、かつて音楽のライブやフリーマーケットが行われていたイベントスペースの脇を通り、公園を後にする。

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