怪僧、世を謀る

 これは、一人の本朝でも珍しいタガが完全に外れてしまった男の物語である。

 つまり、イッちゃった男の話である。


 ときは、平安末期の末世。世は乱れに乱れていた。乱れていたからこそ、こんな男が世を憚る事なく生きれたのかもしれない。

 世は始めて、武士とかいう乱暴狼藉だけが仕事の男たちが世を統べるようになった時代だった。冷静に考えれば、ものすごく恐ろしいことである。

 もともとは、公家に買われていた警備担当の用心棒のようなものだったが、歴史や人の世のことわりからいっても、物理的実力を持っているものが物理的権利力を始め力を持つのは、至極まっとうなことで、それを人はわかりきっているのか、元からの支配層である公家や、帝は一応あらがったが、気がついたら、武士や侍と呼ばれる集団が歴史において始めてこの浮世を統べることになっていた。


 この男も実は、この武士の端くれだった。おとなしくしていれば、ひょっとすると、この侍の世でお鉢が回ってきたかもしれないが、おとなしくしていられないのが、この男の性分だった。

 名を遠藤盛遠といい。摂津源氏の郎党で、渡辺党の遠藤氏の出身であった。父親は左近将茂遠と呼ばれ、結構偉かった。が、大したことない。そうこの遠藤盛遠は見抜いていた。せっかくの武士の世の中になりつつあったが、お鉢が回ってきても、その鉢が小さいことは目に見えていた。

 父親が顎で使われていることは、十代の遠藤盛遠には明らかで、この父親の様にならないことが、元服し遠藤盛遠と名乗った、この男の最初の目標だった。


 遠藤盛遠は、とにかく努力することが嫌いだった。成果が出るかどうかわからないものに時間を裂き、専心し邁進することぐらい、大博打なことは、ない。と大万丸と幼名を名乗っているときから思っていた。

 武士の生活のタネである行うべき、武芸の鍛錬、かんたんな手習いもすべて嫌った。

 年月かけて、努力して、役に立たなかったらどうする、誰が責任をとってくれる。

 しかもまだ走り出したばかりの武士の世界でも、もう既に、めちゃくちゃすごいやつがたくさん現れていた。源為義に源為朝、源義朝に源光保、平忠盛に、平忠正、平家弘、平清盛。なんで、もうこんなにすごいやつがいるんだ。とくに、源氏平家とも最後の二人は破格だったなにをとっても勝てそうにない。御所の近くで行軍中の義朝の目つきを見て諦めた。清盛の側室の多さにも辟易した。

 しかも、侍の世は、全て己が実力で切り開く乱世だった。コネもツテも関係なかった。

 勝てば、のさばれたが、負けたら、みんな潔く腕を失ったり、足を失ったり、簡単に死んでいった。

 遠藤盛遠は、不具になったりカタワになるのはゴメンだったし、(そういう武者は琵琶法師が歌わないだけで、戦が終わるたびに路端にゴロゴロいてしかも増えていった)死ぬのは、一番嫌だった。

 なぜなら、ついこの前、生まれてきたばかりだ、と盛遠は思っていた。やっと女も抱き、これもまじめな人は犯したとか手篭めにしたとか呼ぶ。酒も飲み、元服したばかりなのに潔く流刑になったり、太刀で斬られて死ねるか。死ぬのは、まず親父の左近将あたりが先だろう。


 こういう遠藤盛遠みたいな男のことをわがままの禄でなしと、この末世でも呼んだ。

 

 で、盛遠は武士として元服し、二三年、親父絡みの渡辺党で北面の武士としてゴロゴロしただけである。盛遠は、武士として戦場いくさばにも二度三度、誰が大将かもわからない戦に与力したかもしれないが、本人が真面目に戦っていないので、参戦したとは、本人も思っていないし、世間も認めない。駆け出しの暴れるだけの武士という職域集団に対しては基本、世の中の目は厳しかった。

 遠藤盛遠はあっさり武士を辞めた。

 これを末世でも逃げたという。


 辞めると言っても、なにか真っ当な生計たつきのタネやネタを持っているわけはなく、行くところと行き着くところは、決まっていた。本当に生きるのをやめてあの世にいくか、出家するしかなかった。

 この頃、出家して仏法の世界に行くと言っても、厳しい戒律をもって仏様につかえている僧たちもいたが、概ねは、ちょっと生きなおしてみようぐらいの感覚で名前をすて、ちょっとかっこいい音読みの唐風の名前に変え、頭を剃り、墨染の衣をまとっているだけだった。

 でも、立派な僧侶がたくさん居るおかげで、少し偉くなった感じで扱ってももらえた。

 人はしっかり人を見るので、盛遠の場合、えらく扱ってもらえるのは少しだけだった。

 やっぱり、末世でも世の中厳しかった。


 遠藤盛遠は文覚と名を改め、出家し僧侶となった。

 十九歳のころのことである。


 しかし、文覚は、修行というものから真反対のいき方をしてきた男なので、どこの寺も受け入れられなかった。

 しかし、この男、文覚なりに一応の出家の覚悟はあった。

「一度、修行とやらをやってみよう」

 言うのは、易しである。

 しかし、この辺が、人生の正念場であることは、文覚にも分かっていた。持ち金は恐ろしい速度で底をつきそうだった。

 それにこれは、当たり前で、驚くべきことではなかったが、走り出したばかりの武士の世界にもすごいやつがもう既にいたように、仏法の世界にも桁外れのすごいやつがゴロゴロもう居た、仏教伝来がそれこそ六百年ほど前のである、みかどはだれの御世なのだ。

 文覚は手習いも確かでなかったので(睡眠時間だった)、みかどは神武天皇以外、誰もしらなかった。神武天皇を知っていることが自分でも驚きだった。

 しらなかったほうが、いいこともある例だった。

 文覚は

 「これは、武士をやってて不具になって、酒浸りになり嫁や子供を殴ってたほうが楽だったかな」

 とか思い出していた。

 

 出家しても、この男、文覚のいき方は変わらなかった。


 文覚は、正当な修行は一切行わなかった。

 修行はすべて文覚の規定する方式とやり方で行われた。

 これを世の中は例え末世でも、変人とか独りよがりや、まじめな人は、迷惑行為と呼ぶ。


 文覚の修行は、すべて、我慢比べだった。それが、この男の感覚と定義だったので、他の選択はなかった。

 とある、人の入らない荒れた山に、七日間日照りになったまま、虫に刺され放題で仰向けになって寝ていた。

 これを人がたやすく死んでいく、末世でも、修行でなく、ふて寝と呼ぶ。

 または、行き倒れとも呼ぶ、そうなったほうが、世のためだったかもしれない。

 しかし、人はそんな長時間寝ていられないし、空腹は万人平等に襲いかかる。

八日目に文覚はむくっと起き上がると、全身蚊や虻に噛まれ人相は結構、ある意味、人として箔がついていた。

 文覚は人に、この七日間の行のことを他人に話しても、口も開けない答えが返ってくるか、視線をあわせてもらえないことが概ねだった。

 末世でも、文覚のような人間を変わり者と呼んだ。


 文覚は、生き方とおなじようにこの本朝を彷徨って生きていた。

 気がついたら、熊野に参詣していた。本能的にこういうところにいくと、僧侶として格が上がるのではないかと、変な感覚があり、参詣していた。

 しかし、末世でも、文覚の場合だけはこれを参詣でなく訪れたと呼ぶ。

 文覚は、招かれるように有名な滝に近づいていった。修行とはそういうものだ。しかし、時期が悪かった。いや仏法的にはよかったのか?。

 時節は十二月十日のことである。もう、文覚にも元号の感覚がなかった。しかし、これは、この男でせいではなかった。施政者は天災や戦が続くと簡単に元号を今より遥かにフレキシブルに変えていた。試しに荘園の農奴に尋ねてみればいい、誰も答えられないから。 とにかく、真冬である。

 滝は氷柱となり凍りつき、その上に雪が降り積もっていた。

 どこもかしこも、真っ白だった。滝も北面の武士仕様に設定されていた。

 修行は我慢だという定義で行を行っている文覚には、もってこいだった。これこそ、ふて寝とか行き倒れとか言われずに済むだろう。文覚は、まだ凍らずに残っている滝壺に歩を進めていった。

 これを乱暴狼藉の武士が統べる末世でも、無謀とか自殺行為と呼ぶ。


 真冬に滝壺で荒修行である。文覚はあまりの水の冷たさに意識を失い。滝壺から流れ出る川面を数町流されていった。それを一人の童子が文覚を助けた。

 末世でも思いやりはあった。

 人々が焚き火なおこして文覚を温めた所、文覚は一息ついたところで、激高しだした。

「おれは、ここで、慈救の呪文を三十万遍となるつもりだったのになんだ、これは!」

 周囲の人々は呆れ、もう文覚を助けないことにした。

 次の日も文覚は同じことをした。真冬に滝壺に入っていった。すると、八人の童子が現れて、文覚を引き上げた。真冬の滝壺で修行をする文覚にまともな感覚はなかった。

 周りの周囲の人は、この時、文覚は軽い仮死状態だったとも言う。

 この八人の童子のうち二人が文覚にとっては、重要だった。

 なんと、二人の童子がいうには、二人は、大聖不動明王の御使いの金伽羅と制多伽だという。

 文覚がとてつもない、修行を行ってるので合力せよと大聖不動明王がのたわまったという。

 そういうや、二人の金伽羅と制多伽は天高く舞って、去っていった。

 仮死状態は事実だとして、その後も、童子のくだりは幻覚である。

 文覚はやっぱり解釈も手前勝手な男だった。


 ただ、やはり、真冬に滝壺に入るなど、尋常ではないので、文覚は半分変人として評判だけは、かなりあがっていった。

 このあとも、手前勝手な修行は日ノ本中に展開して続く。文覚の荒行の伝説をもつ土地はほうぼうにある。

 確かなところでも、那智に千日篭り、大嶺に三回、葛城に二度、高野、粉河、金峰山、白山、立山、伊豆、箱根、戸隠、羽黒と日本中で、修行を、否違った、

迷惑そのものをかけまくった。


 これだけ、ほうぼうを周り、文覚の嘘八百も手伝へば、文覚の名と噂だけは、売れに売れた。


 この程度で。やめておけば、名僧としてひょっとしたら、仏法の書物に名を残したかもしれないが、いい加減をしらないのが、こういった男の常である。

 末世でも、こういうのをやりすぎと言った。


 文覚は、修行で高雄に訪れた、そこには神護寺という名刹がある。称徳天皇の御世に和気清麻呂が建立したと言われる。

 そこがかなりいたんでいた。

 ほっておけば、いいものの、文覚は、良かれと思ったのか、功名心も手伝ったのか、後白河法皇のところへ直接礼儀もわきまえず強訴した。しかも、勧進帳まで持ち出し、滔々と読み上げ、大いに後白河法皇とその周囲をわずらせた。

 直したければ、自分で直せば、いいのである。

 こういうのを、末世でも調子に乗っていた、という。


 後白河法皇は当然、取り合わなかった。

 その後も、いけなかった。文覚は、位は低いとはいへ、元北面の武士である。

 それこそ、院の御所で刀を抜いての切った張ったの大騒ぎになってしまった。

 文覚は勧進帳があれば、そべてが通ると思っていたのである。

 所詮、荒行だけのにわか荒僧でしかなかった。 

 これを、末世でも、揉めたと呼ぶ。


 文覚は、伊豆へ流罪ととなった。 

 この伊豆へ流されるだけでも、文覚は、竜王を呼びつけたり、一悶着あるのだが、このあたりから、どこまでが、事実で、どこからが、文覚のハッタリなのか、もう誰にもわからなくなってくる。

 もう末世でも、嘘つきと言ってもいいのではないか、と評判がていちゃくしてくる。


 このとき、伊豆に誰がいたのか、考えてもらえれば、だいたい、その後の展開がわかってもらえるはずだが、。実際その通りとなった。

 四年ほど頼朝と文覚が仲良く話し友達になっていたという記録もあるが、筆者は信じられない。

 よって、この物語では、その説は拾わない。

 

 文覚は、兵衛佐頼朝ひょうえのすけよりともが伊豆に居ることを、どこらへんから聞きつけたのかは、定かではないが、白い布で包んだ謎の塊を持って兵衛佐の元へ直接現れた。

 頼朝も逼塞中の同じ流刑人の身である断る理由がなかった。

 

 頼朝の屋敷は、草庵と呼んでもいい、質素なそれでいて、落ち着いた。草生す小さな館だった。

 晴耕雨読にはもってこいの屋敷だった。周囲の者誰もの尊敬を集めているのも無理はない感じがした。

 文覚が腰の高さほどの生け垣から、庭を覗くと、小さな畑まで出来ており、頼朝自身が耕し、茄子や菜っ葉など自ずから育て、食するのだという。周りの農民に受けが良いはずである。

 これが、文覚のような男には、面白くない。滝壺で荒行中に死にかけて助けてもらって怒鳴りつけるような男である。源氏の御曹司が土台、一族ほぼ誅殺されているのに生きながらえていることそのものがおもしろくない。それも、こんなに小さく行儀よく。

 馬鹿ではないかと思っている。

 後白河法皇のときと同じ、強訴の手段に出た。文覚にとってみれば、強訴なんて気持ちすらない。同じ武士として武士としての挟持を教えてやるぐらいの勢いである。

「御免!」

 文覚はそうどなるや、いきなり、勝手に生け垣をあけ、屋敷の土間に白い布の包とともにはいっていった。

 さすがに、土間では、下男に引き止められた。

 だが、文覚は、少し待つや、どかどか屋敷に上がり込んでいった。後白河法皇にまで直訴した男である。

 流罪人の源氏の御曹司など何の遠慮がいろうか。

 屋敷の奥の間の上座の板の間に兵衛佐頼朝、下座に白い包みを持った文覚である。庭への戸は開け放たれて、茄子が育っている畑が見える。

 文覚は、怒っている。この男は怒っているぐらいが、言葉ポンポン出てきて、調子がいいぐらいである。

 末世でもこういう男は、相当な割合で嫌がられた。


 頼朝は、地味な色の直垂ひたたれに垂れ烏帽子と下男とほぼ変わらない身なりである。静かな目をし、思慮深気な顔立ちをしている。それも文覚の怒りの勢いを大いに付けた。正直、すべてが面白くない。

 口火を切ったのは、当然文覚だった。

「ときに、清盛公の嫡子、豪胆にして、智謀に長けるこの小松内大臣重盛公がこの八月に死んだことをご存知か!」

 当然、頼朝はある意味、文覚より重盛のことは、よく知っている。平治の乱のおり兄義平と待賢門で五分の戦いを繰り広げたと平家のものどもは言い、源氏のものどもは、義平が追いかけまわし重盛が御所の左近の桜、右近の橘を七周も逃げたという。

 頼朝が何かを言おうとしたところに、文覚が続け様に言い放った。

「公は、源氏の御曹司、このような、田舎に引っ込んでおられずに、なぜ都に責め上がられぬ」

 文覚の言いは、直截だった。

 頼朝は、慌てず、落ち着いたままで、静かな口調で返した。

「なんということを仰られるる、この聖の御坊殿は、、、この頼朝は、亡き池禅尼様に生きている甲斐のない命を救っていただいた身の上。毎日毎日それこそ、亡き池禅尼様の後世を弔うために法華経の一部を転読しておりまする」

 なんで、法師でもない、頼朝が経をあげ、この僧侶の文覚が明確な謀反を焚き付けているのだ。

 文覚の表情は仁王像のようになった。

 そして、怒りのあまり、思いっきり拳で板の間をどかどか叩きつけた。板の間に二三箇所、音が違うところがあった。

 頼朝は、覚めた目を取り繕い、板の間の音の違いを聞き流していたが、内心ヒヤヒヤだった。

 それをこんな大雑把な文覚がしかも怒りに駆られた文覚が気づくはずがなかった。

 文覚は、墨染の衣の懐から、白い布に包まれた、ものを出すと、頼朝の目の前に転がした。

 髑髏が一つ。転がり出た。髑髏のひたいには"源義"と小刀で彫られていた。よくわからないが、文覚は、その"源義"と彫られた部分をぱっと手で隠した。

「御坊様、これは何でございましょう?」

 兵衛佐頼朝は、さすがにやや驚いた様子で、尋ねた。

「これこそ、公のお父上、左馬頭義朝殿で、あられる。拙僧は、平治の乱の後、牢獄の前の苔むす草の中に打ち捨てられておった、左馬頭殿の首を拾い、この間、懐に隠しもち山々寺々を拝み周り、弔い続けておったものの、、拙僧文覚、左馬頭殿に対し奉公し奉っておったのである」

 よくよく聞くと、意味の通らない台詞ではあった、ならば、平治の乱のおりに与力してくれれば、よかったのである。平治の乱は、最初こそ奇襲に成功したが、二条天皇が逃げてのちは、ずーっと義朝一党は兵力不足にあえでいたのである。

 兵衛佐頼朝は、ここは泣くところだと、分かっていたが、ちょっと文覚をいじってみた。

「わが、父といえば、乳母子の鎌田の叔父上と二体同心の筈、政清の叔父上の首は何処に」

「見つかり申さなんだ」

 これは、文覚の明白なうそである。まず探していない。

「豪の者として名を轟かした我が長兄、兄義平の首は何処に?」

「あり申さなんだ」

 これは、事実だった、六条の首台に文覚は行ったが、本当に義平の首は名札こそあったものの 首だけなかった。

 噂では、八尺の大女が、薙刀片手にその髑髏を持ちさり、つぶてを六波羅の屋敷に投げ込み義平の首を刑場ではねた難波なにがしを投殺したという。

「この頼朝より文武に秀でた我が次兄朝長の首は何処に?」 

「あり申さなんだ」

 これも、事実である。悪源太義平と同じく、朝長の首も名札だけおいてあり、首はなかった。 

「なんと、、、おいたわしや、、、、この頼朝、一族の首のはてなど露知らず」

 そこまで、文覚に詰問してから、、、、兵衛佐頼朝は直垂の袖を目に当て、さめざめと泣いた。

 そして、文覚が、どんどん言わせて、音が違った板の間の場所に突っ伏すように倒れると、うわーんと、慟哭した。 

 これだ、これが、文覚が見たかったものである。世の中はこれぐらい冷たいのだ。しかも頼朝は武士ぞ。

 文覚は、うんうんと頷きながら

「泣きたいときは、泣かれませ」

 とか、完全な上から目線で突っ伏して泣いている頼朝を見ている。しかし、まだ、髑髏のひたいの"源義"と彫られた位置は手で隠していた。

 はっきり言うと、これは、源義朝の髑髏ではない。だいたい、平治の乱など、二十年近く前の話である。今頃首を探しに行って、ほいっと出てくるはずがなかった。文覚は、適当に河原で白骨をひろうと、こうしたほうがいいかな?ぐらいの気持ちで、"源義"と掘ってもらった。この男、僧侶ありながら、文盲だったのである。そしてこの頼朝のところに持ち込んでいた。

 しかし、女の様に泣き突っ伏す頼朝を見て、文覚は、なんと気持ちのいいことよ、と思っていた。

 なぜか、爽快感があった。どうしてだろう?。

 これは、後白河法皇との揉め事の意趣返しなのだろうか、とか、自分で思っているうちに、泣いている頼朝の直垂からチラチラ見える手の平の豆に気がついた。


 ん?


 これでも、文覚は、世俗のころは北面の武士だったのである。れっきとした武士。

 どんな稽古を行えば、どこに豆が出来るか知っていた。

 農機具を持つ百姓とも違う、武芸で手のひらにできる豆である。

 今泣いている、頼朝の手の平の豆の位置は、これは、相当各種武芸に秀でいた武士の手のひらに出来る位置である。

 どこかおかしい。

 この男、努力とかは一切しなかったが、感だけは鋭かった。それに、屋敷でこの間に通じる一間だけ締め切った間があった。

「御免!」

 文覚は、その障子を開けることなく、文字通り、足で踏み倒した。

 この男、後白河法皇と院の御所できったはったのあら事を繰り広げるぐらいの荒事師である。こんなの朝飯前だった。

 踏み倒すと、そこには、怯えた表情の弱々しいもう一人の生まれが高貴そうな武士が居た。

 文覚の表情が変わった。

「貴公が、兵衛佐源頼朝か」

 正に怒髪天といったありさまで、声が逆に小さかった。

 そのひ弱そうな武士は弱く、小さく、頷いた。

 文覚は、ありったけの膂力で"源義"と彫られた髑髏で

はかったな!」と一喝するや、本物の頼朝を殴った。

 頼朝は、殴られると二三間、真横に吹っ飛んだ。

 文覚は言った。

「そんな猜疑心が強ければ、公が長生きすることはあたふであろう、しかし、家は長う持たんぞ、この愚か者め、」

、そして文覚はその首をそこらに転がし、帰っていった。

 

 これを、末世でも、予言と人は呼ぶ。


 ちなみに、影武者の頼朝が隠した、板の間の下には、弓矢に兜に大鎧が隠されていた。

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