羽音

 羽音   平家物語 Ver2.1


 女の身投げの死体が三条河原に上がった。二条の橋から身投げした死体が三条の橋の桁に引っかかり、そのまま鴨川の西の河原に打ち上がったのだ。

 見るも無残な姿だった。

 京雀たちは、その朝、都を統べる平家の役人よりも早く、遺体を見つけ、騒ぎ出した。

「病むごとなき際の女人だそうな」

「何処か何れかの女房だそうだ」

「死に装束にそれは見事な十二単を着て、身を投げたそうだ」

「いずれの高貴な方の想い人ではあるまいか」

 一番、迷惑そうなのは、橋のたもとを屋根に河原で暮らす者たちである、要らぬ嫌疑がかけられては迷惑とばかりに遺体すら覗かず、河原の端か橋の下に隠れるよう見を縮め膝を抱えている。

 三条四条に人だかりができて騒ぎになると平家の役人は、飛んできて、女人の遺体の筵をかけるとあっという間に片付けていった。

 しかし、三条大橋の上や鴨川の河原では、当然大きな人だかリが出来、あたりは騒然としていた。

 橋の上に、一人の平家の郎党の武者がいた。その顔をは憤怒にかられていた。

丈子たけこ

 そう吐き捨てるように言い残すと、都大路から早々に立ち去り福原京に向かった。


 源頼朝が挙兵したのは、治承四年(1180年)の八月のことである。

 文覚という謎の荒僧に父義朝の髑髏を見せられ、大いに煽られ、焚き付けられたという。 この髑髏が本当に左馬頭義朝のものなのかどうかなど誰にも一切わからない。平家追討の令旨は既に四月の段階で源行家親子より密かに伊豆まで届けられていたともいう。

 その後、以仁王、源頼政の挙兵をもきっかけとして本格的に兵を挙げた。

 福原にこの事を知らせたのは、大庭兄弟の一人、大庭景親である。

 この数十年間、源氏と平家の間を舞でも舞うように生きてきたこの兄弟は、今回も日和見を決めて生き抜き、願わくは、有利な方につき、領地を広げ官位をより高くあげるつもりだった。


 清盛も有頂天ではあったかもしれないが、まだ老いて善悪がわからなくなって、馬鹿になったわけではなかった。

 多少はグズグズしたものの、すぐに追討の兵を集めた。

 同じ年の四月に後白河天皇の第三皇子の以仁王と源頼政の挙兵が宇治であったばかりである。

 総大将の人選は、簡単だった。この親王と平治の乱で同族の義朝を裏切った頼政の乱を無事に平定した清盛自身の世孫に決まった。


 ここで、一人の輝ける若武者が登場する。

 

 そう、平維盛である。


 宮廷では光源氏の再来と言われ美男子にして、清盛の長男、重盛の長男、いまや、平氏どころか、日本を統べる伊勢平氏、直系の世孫である。

 この時、齢は二十三、五月には宇治川の戦いで以仁王、源頼政を倒し、正に上り調子にして、すべてを持っている男である。

 やや背が低い事ぐらいが難点だが、幼くみえ若くみえると弱点は真逆に作用する。顔には白粉を塗り公家のように天井眉毛を書き、近寄らぬ女房衆など全く居ないわけがない。

 女等、老いも若きも醜女も美女も向こうから嫌というほど擦り寄ってくる。

 面倒くさいぐらいである。

 美男子にして、財力はあり、出世間違い無し、常勝将軍でもある。皇族も平らげた、何事も恐れない男でもある。

 そんな男は、全てにおいて、飽いている。なにをやってもうまくいくし、欲しいものはもう既にすべて揃っている。ほしいものなどもはやなにもない。

 なにかを努力する必要など一切ないのだ。

 うまく行き過ぎてすべてが退屈で面白くない。当然、女など、抱いては捨て、飽きては捨てた。

 ある意味、この時期、この後先の短い清盛より、神武の御世以来、日ノ本で一番、神に近い男だったかもしれない。

  

 維盛の館に清盛の使者が来ても、維盛は礼儀上、失礼がないように答えただけで、嬉しくもなんともなかった。

 ああそうか、またか、ぐらいである。

 清盛の使者は公卿の相談の結果、云々とくどくど語っていたが、要は、祖父の清盛が適当に決めたのであろう。

 それぐらい、すべてをもっていて、何かを求めなくてもいい男、維盛にもわかった。

「あいわかった」

 そう使者に伝えると、維盛は側側と自室に下がってしまった。館の家令が慌てるほどである。

 家令は、「相国様によろしく」と失礼のないように言葉を付け加えた。

 家令が、使者の細い用件を伝えるために維盛の自室にいくと、中からは複数の女房の嬌声と秘めた笑い声が聞こえた。

 もう若殿と呼ぶほどの歳ではないが、家令がかしこまって声をかけた

「若様、副将には、薩摩守様が」

「うるさい、あとにしろ」 

 この男には、心がなかった。

 家令は、維盛のめいのとおり、あとにした。しかし、本当にそのあとはなかった。


 維盛はこの追討軍の総大将として、大軍を率いて征くわけだが、この頃、朝敵を討つ軍はみかどより節刀を賜り、追討に赴くことになっていた。

 そして、節刀を賜るときは、家を忘れ、家を出る時は、妻子を忘れ、戦場いくさばで戦うときは、我が身を忘れるということになっていたが、この男には、元から忘れなければならないものなどなにもなかった。

 全部、新しく与えられ、変えればいいだけなのである。

 副将に任じられた、薩摩守平忠度は、出征に際し、懇ろの女房と和歌を詠みあい愁嘆場を繰り広げたそうだが、維盛には、これが一切なかった。

 

 歴史的には、治承四年、1180年、九月十八日に、当時都だった福原京を小松権亮少将維盛を総大将にして、三万の軍勢とその軍勢を相手に商売する、商人、女商人を引き連れ、出征した。

 この三万のこの商人と女商人も含まれるかは一切定かではない。


 この心のない、男の軍勢は、心がないので恐ろしいほどの強行軍だった。翌日九月十九日には、当時遷都があたりまえだったので数多くあった元、都の京に入った。正確には"山城の国の北のあたり"というべきかもしれない。

 京は、みかどまでなかば清盛に誘拐されて福原にいったので、寂れに寂れていた。というより、捨てられた人と、捨てられた街となりはてていた。すべてが捨てられていた。煉獄もさもありなんという様相だった。このあと、平家はもう一度、京に遷都するのだが、おそらくこちらの決断のほうが、勇気がいったはずである、そうか、ヤケクソだったか。

 三万の軍勢と商人、遊び女を連れて、旅するには、良い日和だったが、打ち捨てられた京は、最悪だった。

 翌朝二十日には、維盛は、京を出立した。相当、酷い宿泊環境だったのだろう。

 

 山陽道から京を経て東海道に入ったあたりまでは、ほぼ、往来の人々が維盛見たさに見物に現れ、ほぼお祭りさわぎであった。

 この心のない男の心もなぜか浮かれていた。寝床に連れ込む女商人の数が福原での数より数人多かった。

 南に、伊勢を挑める、近江あたりまでは、よかった。


 事態が一転するのは、尾張である。

 先ず、維盛を見物する人がぱたっと消えた。それぐらいは、この心のない男にもわかった。

 尾張といえば、源左馬頭義朝が裏切られ果てた国である。それこそ、源氏と平氏の境目をどっち付かずの状態で、ぎりぎりまで日和、一文、いや一銭でもいや、耕されていなくとも寸土の領地を得るか、ほんのすこし得なほうに寝返る輩が跋扈し統べる国なのだ。源氏でもなければ、平氏でもない。


 先ず、流言、非言の類が、軍勢の下々の雑兵からに届き始め、やがて従者へそして徒武者、上の騎馬武者までナメクジのように這い上がってきた。

 曰く。

「源頼朝、は六十万の軍勢で鬼や天狗も引き入れて箱根の山で待ち受けている」

「頼朝は、修験者の力を借りて、雨、雷、雪、あられ 風 地割れを自在にあやつれる」

「頼朝の妻、政子の女陰ほとは縦横十文字に割れているらしい、そんな風に政子の女陰ほと引き裂いたのは、頼朝自身の巨大な魔羅まらのせいらしい」

「頼朝はしくじった配下の郎党をその魔羅まらで気絶するまで殴りつける」

「箱根の山は、空を飛べる天狗以外、人は誰も越えられない」

「頼朝と、奥州藤原氏とは、もう既に呼応している」

「鎌倉は、街に入るぎりぎり手前で深さ、三千丈の深さで裂けていて鳥と、天狗以外誰も渡れない」

「頼朝と叔父の為朝とは呼応しており、この追討に際し、為朝は軍勢を率い九州より東上し上洛するらしい、官軍である追討軍の帰るべき館も、福原京の街すらもう焼け落ちてない」

「東国には変わった仏法があり、兵はみな素晴らしき浄土を信じ死を恐れない」

「左馬頭源義朝、悪源太義平親子は、死んでいない。亡者として永遠の生を受け、夜の間中、先の平治の乱で死んだ亡者の兵を率い、東国中を隅から隅まで徘徊し、墓場の人の死肉を食い荒らしている。そして亡者と亡者の兵を生者の誰も殺せない」

「頼朝は伊豆で平氏一族の刀では決して斬れない鎧を生きたままの人の人骨じんこつ人皮じんぴで織り作っている」

「駿河あたりからは、西国の人間すべては東国特有の流行病はやりやまいにかかり、高熱を発し全身の皮肉ひにくが腐り落ち、たった二日で残らず全員が死ぬ」

 等々などなど、、、、。


 実は、官軍に付随している個人経営の女商人である遊び女と雑色は一対であることが多かった。脱落したり消える場合は、二人対になって消えた。維盛の軍勢は音を立てて減っていった。 

 維盛は軍議を毎日、心なく、開いていたが、なにも言葉を発さなかった。

 しょうがなく、副将の薩摩守平忠度が、毎晩、軍議の後

「方々、よろしいか」の一言で全員、己の陣幕に帰ることが常となっていた。

 

 よろしいはずがなかった。


 官軍の進撃の速度も尾張を過ぎると極端に落ちた。心のない維盛は強行軍を続けたが、維盛一騎が先に進んでも意味がない。一人では、いくさはできない。

 それは、なにも頼朝が天候を自在に操れるからではなかった。

 官軍の全員が頼朝の流言非言に恐れ、進もうとしなかった。

 頼朝は、戦も下手だし、武芸はからっきしダメ、馬にすらうまく乗れなかったが、軍事行動が大きくなればなるほど政治力と密接に絡まっていることを知っていた。

 そして、なにより人の心を誰よりも知っていた。

 平治の乱で自害も出来ず生きたまま捕らえられ、泣きはらし、清盛の姑の池禅尼の嘆願でどうにか生を絆いだ頼朝は、人の心だけはしっかと掴むことができた。

 そうなのだ、泣きはらし、泣いて泣くことで生き残った男なのだ。

 その泣き虫の男の元へ、心のない、すべてを持った男維盛がどんどんその持ち物を捨てながら突き進んでいた。

 維盛は、捨てながら進むことに迷いも躊躇もなかった、どうせすぐに神か、祖父からすべてのものが与えられるからである。


 そして、十月十六日、駿河国、清見関まで維盛の追討軍は軍勢を進めた。

 福原京を三万で出立したわけだが、途中駆けつける、平氏の兵も多数多くあり、官軍の平家の兵力は六万という。


 これは、平家物語だけの真っ赤なうそである。


 副将の薩摩守忠度が頼朝の流言非言に対処するため、土地土地で流した流言非言返しのせいである。

 孫氏の兵法にあるかどうかは、薩摩守忠度自身も知らなかったが、やられたことは、同じようにしても世間が許すことは、幼いころから会得している処世術だった。

 維盛の先陣は、蒲原、富士川にまで着陣していたが、遅れている後陣は手越、宇津屋でもう進むのを諦め合法的というより、合理的に停止撤退していた。総大将の維盛から距離をおくことで、もう既に行動の自由は得ていた。

 誰も死にたくない、戦争などしたくない。

 それに一緒に二週間ほど一緒に旅すると本能的にこの軍勢の将がどんな男か、身分の低いものほどわかるものだ。

 なんとなくだが、敵の頼朝のほうが、朝敵の汚名まで着ているのに度量が広そうである。

 怖いが、逃げるときは、来た道を福原京まで戻るより東に逃げたほうが、慈悲を期待できそうだった。

 そんなことを互いで話す、雑兵と女商人の組み合わせも中には居た。

 心のない男は、そんなこと考えているわけがなかった。なにせ心がないのだ。



 維盛は、後陣をまたずに、到着している先陣だけで最後の軍議を開いた。

 心のない男も流石に、多少苛ついている様子だった。顔に塗られた白粉おしろいがいつもより多い。近習の騎馬武者のものは、もう白粉の量、維盛の顔の白さで維盛の機嫌がわかるようになっていた。

 陣幕の寝屋に引き込む遊び女の数ももう半端な数でなく成っていた。

 この軍議は、いつもの軍議と様子が違った。

 一頭最初に維盛自身が、切り出した。

「この維盛の軍略では、足柄山を越えて、坂東本拠で坂東武者を一網打尽にするつもりだ」

 諸将は、最初、維盛が何を言っているのか理解できなかった。総大将が言っていることにいきなり反論することは難しかった。お互い顔を見合わせた。そしてその意味を推し量った。

 もう少し、進みたいということなのか、山越えをしているうちに後陣を待つという意味なのか、足柄山とは、もっと北のはず、頼朝の流言を信じ、箱根の山は避けるのか?。

 どちらにせよ、どの山でも、山を越えるということ事態が困難なことは、明々白々だった。

 官軍の諸将はこの軍勢の副将の薩摩守平忠度でなく、上総守藤原忠清を見た。

 というのも、維盛の乳父がこの上総守藤原忠清だったからである。

 維盛に意見を出来るのは、この上総守藤原忠清だけだと誰もが思っていた。これは諸将が思っているだけでなく、紛うことなき事実だった。

 上総守藤原忠清は、立ち上がると、堰を切ったように喋りだした。上総守は賢くも心のない男の祖父を持ち出し、その心を動かそうとした。

「小松権亮少将殿、福原京で入道様は、戦いは、この上総守にお任されあれとおっしゃいました」

 上総守忠清はここで間をおいた。息子とかわらない維盛に冷静になれと言っているのだ。軍議に出ている将の全員が今度は、維盛を見た。

 軍議は言葉のいくさである。

 維盛も、流石に清盛の名は大きく重かった、越えてもないし、越えられないかもしれないまだ挑んだことのない存在だった。父とは戦えても、祖父とは普通人間戦いにくかった。

 上総守忠清は、維盛が黙っているので、畳み掛けた。

「坂東八平氏と申せども、坂東八国のつわものどもは、おそらく、兵衛佐、頼朝についておると、この忠清は見ます」

 諸将は、云々と大きく頷きたいぐらいだ。

「我が軍勢、七万騎と申せ、国々から寄せ集めた、烏合の衆にて、しかも福原京よりのこの東下向の大長征、ここにて、もう一度軍勢の序列を再編成する意味でも、後陣の到着を待ったほうがよいのではとこの乳父は存じまする」

 上総守忠清は、清盛を持ち出し、最後に自分が育ての親であることを印象づけて、発言を締めくくった。

 上総守忠清の諌言は、うまくいったかに見えたが、間髪おかず一人の武者が発言した。

「恐れながら申し上げまする」

 会議では、最後に発言するのも相当な力を持つ。決定権がある場合もある。

 その場の将が全員声の方を見た。

「この上総介藤原忠綱は、先に富士川を渡っておくことを進言いたしまする」

 維盛は、驚いた表情をしていた。

「戦には、勢い、地の利、時の利がございまする、そして、総大将が仰るとおり足柄山を越え、一挙に坂東の本拠を叩くことを進言いたしまする、今なら、兵衛佐ひょうえいのすけも準備ができておりませぬ」

 発言したのは、なんと上総守藤原忠清の実の息子、維盛の乳母子にあたる藤原忠綱だった。

「控えんか、忠綱!」

「はっ」上総介藤原忠綱は、座ったままだが、一礼して、頭を垂れた。

 維盛は、相変わらず、無表情だった。

 維盛の本意は諸将にはよくわからなかった、が、維盛は、清盛の使者が福原京の維盛自身の館に訪れた時と同じ返事をした。

「わが乳父、上総守藤原忠清の申すこと、あいわかった」

 とりあえず、山越えはなくなった。




 そのころ、泣いて慈悲にすがり命を絆いだ兵衛佐頼朝は、実は死んでいない左馬頭源義朝や鎌倉悪源太義平、松田殿こと源朝長と平治の乱で亡くなった、亡者の兵とともに駿河国黄瀬川にまで軍勢を進めていた。

 その数、二十万騎。

 平治の乱で亡くなった亡者の兵を率いているとしか思えない数だった。

 頼朝の元には在郷の坂東八平氏はおろか、甲斐や信濃の源氏まで山を越え駆け下りて馳せ参じていた。



 

 副将の薩摩守忠度より、事実上のこの追討軍の軍師である上総守藤原忠清は必死だった。

それが、配下の徒武者にも伝わったのだろう。

 見張りで陣幕の外で立哨していた上総守藤原忠清の配下の徒武者が東軍の将である常陸源氏である佐竹太郎の雑色、五郎太が富士川を越えてきたところを捕らえた。

 京へ連絡をつけるところだったらしい。

 手紙そのものはそれほど重要なものではなかったが、敵情を知る情報源として有用だった。

 手段はあまり選ばれず、情報収取の速さが求められた。つまり拷問だ。一言が指の一本ととって変わる可能性があった。

 上総守忠清自身が、直接虜囚の尋問に当たった。

「実際のところ、兵衛佐の軍勢はいかほどか、、」

 佐竹太郎の雑色、五郎太は痛めつけられる間もなく、ペラペラ喋っていた。黙っていて、得になるときと、そうでもないときがあることぐらい、その身分の貴賤にかかわらず、わかる。

「ここいら、数日で駿河の道々は武者で溢れかえっておりまする、この五郎太、数は、千より上は数えられませんが、五千や、六千では、効きません、食い物が足らず、駿河中食えるものを味方同士で奪い合っておりまする。この五郎太の上役の侍大将が申すのには、黄瀬川に参じておる味方は二十万騎だとか、、」

「二十万、、、」

 上総守忠清には言葉がなかった。

「で、こちらの陣の次の食事は何時になるんで、、」

 上総守忠清は頭を抱えた、なんということだ、、。

 維盛殿を諌めたのは、恐るべき愚策だった可能性がある。時を稼ぐは、日和見を決め込む、畠山や大庭兄弟が兵衛佐に着くおそれがある、、、。

 悔しさ半分で、上総守忠清は、歯噛みをして五郎太をにらみつけていた。

 しかし、これも馬にも満足に乗れない泣き虫頼朝の策略だった。この戦が始まろうかというときに、京に文をだすほど、マヌケな武者は居なかった。ましてや、荒ぶる坂東武者だ。文盲の武者さえ多数いた。

 この五郎太も兵衛佐が放った間者だった。




 その晩は、この戦いの趨勢を決める重要な出来事が多く起こっていた。

 大将軍権亮少将維盛は、その夜は、陣幕に遊び女を入れておらず、平家の諸将と旗本衆が呼ばれ酒を酌み交わしていた。

 その中に、坂東の案内人として、この戦に与力している、長井を領地とする斎藤別当実盛が居た。

 そして、当然、維盛の乳母子、藤原上総介忠綱も居た。

 維盛は誰よりも、酒が進んでいた。

「ときに、実盛、貴公ほどの強い弓を引く武者は坂東八国にいかほどいるのか?」

 維盛が尋ねた。

 斎藤別当実盛は、高笑いをして、杯をぐっと空けると平家衆には恐ろしい話しを喋りだした。

「この実盛、たかだか、十三束程度の弓矢でしかございませぬ。坂東で大弓を引くと申せば、十五束程度が、およそ。十三束など、それこそ、そこいらの武者でない領民でも田畑の獣よけで引きまする」

 平家の諸将からは、言葉がない。

 斎藤別当実盛の話は更に続く。

「弓も大弓なれば、五六人張りが普通。このあたりの弓取りが弓を引きますれば、鎧の二三両重ねても、容易に貫通かんつういたしまする。正に、姦通かんつうでございまするな、がはははは」

 斎藤別当実盛が平家の将を怖がらせようとわざと言っているのか、大げさに言っているのか、ちょっと判断がつかなかった。

「坂東に近いせいか、今宵は酒が旨うござる。続けても、よろしいか、、」

 続けるのは、酒か、話か、どちらかわからなかった。

 斎藤別当実盛は続けた。

「このあたりだと、何世代にも渡り互いで領地を奪い合ってきた家柄、名のとおった大名などと申せば、抱えておる騎馬など、五百騎以下など、怖おうって夜も館や砦で寝られませぬ」

 嘘だとは、言う理由が見つからない。

「騎馬の腕前も、悪路や山道を駆けてこそ、普通で一人前。落馬や馬を倒すことなど、女人やワッパの様にて、それこそ、考えられませんな、、また、騎馬での戦いぶりも西国とは全く違いまする。領民と武者の境目がございませぬし、騎馬武者たるもの親が死のうが、子が討たれようが、その屍を乗越えて戦ってこそ武者。その程度ができなければ、あの世で我がいえの先祖のものにあの世でもう一度切り殺されまする。それに、こんな痩せた大地に寒風吹きすさぶ気候。寸土をめぐって親と子が兄弟と嫁いだ姉妹が奪い合い、決着を着けるのは、相手を殺したときのみ。丁度口が減って良うございまする」

 坂東衆は、獣か?。

「西国の戦いは、この実盛が訊くに、親が討たるるば供養し、喪が明けてから、攻め寄せ、子が討たるるば思い嘆いてから、復讐だとか申して寄せる始末。もう、そんな頃には、かたきはその場におりませぬぞ。がはははは」

「実盛の申し様、最もだとも思える」

 珍しく、維盛が合いの手を入れた。

「また、西国では、糧食が尽きると領地に帰り、田を植え、収穫しから攻むるとか、どうしてそのまま、攻めて、相手の糧食をお奪いなさらぬ。また、夏は暑いから駆けられぬと申し、冬は寒いから陣幕で寝られぬと申しいくさを避けるとか、、笑止千万。それこそ、かたきが弱っておる時こそ、攻め時であられよう。平家の衆、いかがか?」

「いかにも」

 今度は藤原忠綱が相槌を打った。

 実盛は更に続ける。

「此度の戦、源氏に遺恨を持っておる畠山や大庭はともかく、甲斐や信濃の源氏勢が肝でございまする。このあたりなら、騎馬の遠駆けで十二分に案内あないしておりましょう。いわば、己が館の庭のようなもの。付け加え、我ら官軍は、今、陣を張っておると申せ、弱い"はらわた"を甲斐、信濃の源氏勢にさらしておるのでございまするぞ、今このときに、搦め手にされて全滅しても、ちっとも不思議ではござらぬ」

 もう合いの手を打つものはいなかった。

「この実盛、此度の戦で生きて帰ろうなどとは、思っておりませぬ」

 強烈な一発。

 平家の衆は、みな酔いまで覚めた様子だ。

 忠綱が続けた。

「ところで、兵衛佐ひょうえすけの流言は、誠なりや」

「がははは、、、、」

 実盛の笑い声はなかなか止まらない。

「左馬頭殿はともかく、悪源太義平など、貴公ら平家衆が処刑し鴨川の河原に首を晒したのでは、あるまいか」

「確かに」これは、維盛。

 しかし、確かにと答えども、平治の乱など、維盛はたった二歳でしかない。

「悪源太など、義賢殿に仕えておった実盛殿のかたきでは、あるまいか?」と忠綱。

「ほう、よう御存じで」

「いや、この忠綱もようは知りませぬが」

「左様、悪源太めが我が主君を斬ったため、このように平家の禄を食んでおりまする。亡者の件はようには知りませぬが、八尺の"あやかし"が悪源太の首を胸にいだきて、奇声を上げながら、徘徊しておるのは、よう噂を聞きまするぞ」

 平家衆の声が一斉に止まる。

「悪源太の嫁御にて、祥寿御前とか申す、八尺の大女にて」

「確か、新田氏の源義重の娘であろう」

「左様、噂では、夫を殺され、狂ひ申したそうな、実家にも帰らず、夫のかたきを一人づつ噛み付いててまわっておるそうな」

 またもや、平家衆の声でなく、杯を注ぐ音まで止まる。

「ときに、悪源太が義賢殿を攻めたとき、そのお子はどうなされたのじゃ?確か、駒王丸とか申された?」

 維盛が尋ねた。

 これには、実盛が黙り込んだ。

 明らかになにか隠している様子だ。

 駒王丸は、源義仲と元服し、木曽でものすごい荒武者に成長している、駒王丸の兄は、源仲家と元服し、源頼政のところで育っている。頼政亡き後、宮廷の官職についているという話だ。

「今宵は、よい酒を飲み申した、明日に備えねばならぬので、これで」

 斎藤別当実盛は、急に切り上げると、自分の陣幕へ引き下がった。

 平家衆は、維盛とともにその場に取り残された。 




 追討軍の総大将平維盛は一週間待った。しかし、後陣の軍勢は現れなかった。

 維盛にしては、相当堪忍して待ったほうである。

 逆にこの男に心がないから、待てたのかもしれない。

 変化は色々あったが、どれも平家方に不利な出来事ばかりであった。

 しかし、兵の数はそのまま、いや富士川を境目にして陣を張ってからも、雑色や雑兵、徒武者、ほぼ傭兵など身分の低いものほど、どんどん抜けていった。

 それと対照的に、富士川の向こうの兵衛佐ぼ東軍は毎日、兵の数と炊飯の囲炉裏の灯り数が増えていく。

 富士川を掘りにみたてて、遮っているものの、これほどの恐怖はない。


 十月十七日。武田信義から、維盛宛てに、挑発的な内容の文がとどく。使者が二名持参して届けた。文には、以前より、維盛に会いたかったとある。

 これで、武田信義は頼朝に付くことが決定した。

 維盛は流石に心のない男なので、冷静にこの文を読んだが、維盛の乳父の上総守藤原忠清はそうは、いかなかった。

 実は、忠清は以前にも、佐竹太郎の配下という五郎太と呼ばれる雑色を拷問したあげく、酷く残忍な方法で殺していた。普段冷静な男ほど、キレたとき怖いものはない。

 武田の二人の使者を上総守忠清は、殺した。ぶち殺したとか、言う表現が適当だと思う。

 普通の殺し方ではなかった。


 


 十八日は、大庭家の旗頭はためきの音とと鬨の声、軍馬のいななき、騎馬の蹄の音で平家の諸将は目覚めた。

 源氏に対し恨みをもつ、正確には、義平と、義朝にだが、大庭兄弟が、千騎を引きつれ、富士川で着陣している維盛に合流しようと北側の富士川の上流より突貫をかけたが、富士川の上流、北部を抑える武田信義、甲斐源氏または、頼朝軍に阻まれて、大庭兄弟の兵は一人たりとも、維盛の陣営にたどり着けなかった。突貫はその日、四度おこなわれたが、二度目の突貫が、一番大きく声が聞こえた。

 一番近くまで援軍が迫ってきていたのだ。

 大庭家と呼応して、こちらからも打って出て頼朝軍を挟撃すべしの声も陣営で上がったが、富士川の正面に頼朝の亡者の本隊がいるのだ。即背ならびに、背後を責められる。

 しかし、頼朝挙兵の一報を福原京に伝えたのは、大庭兄弟だ、見捨てられない。

 如何ともしがたいのが、歯がゆかった。

 夕刻迫る四度目の大庭兄弟勢の鬨の声のあと、声も馬のいななきも聞こえなくなった。

 しかも、四度目はときの声も馬のいななきも全て一番小さかった。

 これほど、悲しい静けさはなかった。

 大庭兄弟が諦めたことより、自分たちが、頼朝軍に北側を完全に包囲されている事実が重くのしかかった一日だった。


 包囲されたとは、いえ、北側の河の上流の側面をふわっと囲まれているだけで、後方はしっかり確保されていた。そう、駿河に着陣したあたりで、副将の薩摩守忠度は、援軍の派遣を早馬で福原京ならびに、伊勢本国に送っていた。不確かな幾度かの早馬の伝言のやりとりによれば水軍が太平洋側を東下向してやってくるという話だった。

 水軍といえば、瀬戸内海で海賊狩りをなりわいとしていた、平家の最も強い軍勢でもある。

 丁度、大庭兄弟が四度突撃を仕掛けた、翌日だった。

 今度は、くじらが遡上してきたのか、と思ったら、伊藤親子の水軍だった。

「入道様は、我らを見捨てておられぬ」

 と平家方の全員が、駿河湾の海岸方面へ駆け出したが、大庭兄弟の突撃が音による、絶望だったとすると、伊藤親子の水軍は正に景色光景による絶望だった。

 それに、東国に、海がないわけではないことも思い知らされた。富士川が太平洋に注ぎ込む駿河湾に伊東水軍が見えたかとおもうと、平家方からみて、左手の東側の伊豆半島からものすごい数の頼朝側の水軍の船が漕ぎ出してきて、丁度、伊藤親子の駿河湾への侵入を封鎖するように、展開した。

 あっという間に、伊藤親子の水軍は、蹴散らされてしまい、湾外へ、押し戻された。伊藤親子は水上戦に慣れているはずだが、伊豆半島の陰で見えなかったのか、まさか、頼朝軍に水軍が存在することを知らなかったことが大きかったようだ。

 決定打になったのは、火矢を放ったのが、頼朝軍の方が一瞬だが早かったことだった。それと風向き。

 いつもの西風でなく、東風が湾の入り口では吹いており、伊藤親子の水軍は自軍の船に火が着くのと船団が燃え上がるのと、同時だった。

 地獄の光景は富士川の河原からでもよく見えた。燃え上がる自船から衣服や鎧に火がついたまま、飛び込む伊藤親子の兵があいついだ。伊藤親子の水軍は粉々になっており、水面もその残骸で燃えていた。文字通り、伊藤親子の水軍は全滅した。

 大庭兄弟の軍勢の四度の突撃など駿河湾ではなかった。

 たった一度のそれもほんの少し早く放たれた火矢がすべてだった。


 これで官軍は、駿河湾も失い、制海権も失った。駿河の国で完全に孤立した状態となった。

 しかし、両側面は失えど、唯一、どうにか自軍の背後だけは確保していた。これも、のちの戦いの大きな要素となる。

 このことが、官軍の平家型の兵の脱走をより進めたのだ。

 時が経てば経つほど、官軍は兵を失った。



 十月二十三日の夜、本当の最後の軍議が官軍、平家方で行われた。

 陣幕には、名のある諸将が全員揃った。

 総大将の維盛を一番奥に、矢盾を机にし、一本の縄を富士川に見立て、机に流どおり、また合流地点うねっている箇所も再現されている。

 そして、両軍の兵力に合わせて、碁石ならぬ、富士川の河原の石が数を合わせて置かれている。

 一週間も対峙しているとお互いの兵力もよく把握できる。

 維盛の自軍は、たった二千騎。

 対する、頼朝軍は、死肉を食らう平治の乱の亡者の兵を入れて四万騎。流言の六十万騎などいれば、海向こうの宋の国の中原でも制覇できるだろう。

 夜な夜な墓場の死肉を漁る平治の乱の亡者の兵なども居なかった。

 悪源太の首を持った八尺の狂女をみたものもいない。全員が源氏並びに、坂東、この東国の在郷の半農半武の武者共だった。

 源氏の旗で富士川の対岸からもう一つ確認できたのは、武田信義の軍勢の旗。

 平治の乱の後、泣き暮れた頼朝、慈悲で命をどうにかつなぎ、伊豆の蛭ヶ小島に流されてから、二十年。どうして、たった二十年でこの荒れ狂う坂東武者の連中の心をつかめるのかが、平家の諸将にはわからなかった。

 頼朝は、母親こそ、由良御前といい、熱田神宮の神官の娘だが、ほぼ幼少期も都の京で育った正に都武士みやこぶしだ。十五で自分の叔父を斬った生まれも育ちも坂東の鎌倉悪源太なら、まだわかる、十三で伊豆にやってきて、都から見れば、蛮族といってもいい坂東衆に馴染めるはずがないというのが、平家の歳いった頼朝を実際見ている、平家の諸将の主な意見だった。

 彼らは、刑場に引き出されてえんえん声を上げ泣いている頼朝しかしらないのだ。

 泣いて生き延びれるということは、逆に芯が強い証拠なのだ。

 死ぬのも商売みたいな武士だ、時には、死ぬ決断をするほうが、楽な場合もあるだろう。

 泣き、慈悲を請い生きるほうが、ひょっとすると何百倍も辛いことかもしれなかった。

 一思いに死ぬより、酷に生きる生のほうが、辛いのは、誰にでも容易に予想がつく。


 この辺が、恐怖となって平家方にのしかかってきていた。

 挙兵した、朝敵の頼朝を征討にきた、官軍の平家方のほうが、数が少ないというのは、どういったことだ?。


 軍議は、今までどおり、沈黙から始まった。

 しかし、今までと違うことがたくさんあった、維盛は白粉を塗っていなかった。殿上眉も描かれていなかった。眉のない、若干やつれた背の低い美男子がそこには居た。

 というより、沈黙のまま、終わりそうだった。

 今や、征討軍の平家方が、まつろわぬ頼朝の川を越えての来襲に怯えている状況だ。

 狂ったように篝火を焚いて、川面を煌々と照らしている。

 沈黙のまま終わるわけには、いかなかった。側面は包囲されているものの、未だ、背後は確保されていた。

 何時でも逃げられた。これが、維盛軍が著しく数を減らした要因なのだ。

 二十三日の最後の軍議でも怖いぐらいの沈黙のなか、二度全員撤退の進言が諸将からあった。

 維盛は、答えなかった。

 三度目の全軍撤退の発議があったのち、維盛が低く小さな声で、言った。

「一戦もせずに撤退だけはありえぬ」

 諸将からは、ため息も出なかった。

 一人の武将、西山文五武親が立ち上がった。

「二千対四万ですぞ、話しにならん、出直して、伊勢あたりで体勢整えて再度押し出すことぐらい、恥でもなんでもござらぬ、少なくとも、この武親こんな地の果ての東国で死ぬつもりはない」

 そう言うと、踵を返して、自分の陣幕へ向かいだした。

「座れ、武親」維盛が心のこもっていない声で、言った。

 武親は、振り返った。顔には若干の怯えがあったが、撤退しこの場から去る信念もその顔にはあった。

「諸将の方々よ、この武親、維盛殿と運命をともにする気はない」まで西山文五武親が言った時、かぶせるように、維盛がいった。

「これは、頼んでいるのではない、命じておるのだ。我が言の葉は、入道宰相、みかどの言の葉と同義ぞ」

 西山文五武親は、一瞬怯えた表情になったが、座らなかった。

 ぐえ、嫌な音が、西山文五武親の喉から聞こえた。

 武親の側に居た上総守藤原忠清が、大刀で武親の喉を水平に切り裂いていた。

 武親は、喉から、血を大量に吹き出しながら、ひゅーと空気の漏れる嫌な音を立てながら、跪き倒れた。武親はその自信の言葉通り、維盛と運命をともにすることはなかったが、自分が嫌った、地の果ての東国で死んだ。

 そのとき、武親を斬った、上総守藤原忠清でなく、その息子、上総守藤原忠綱が維盛の前にさっと進み出た。

「この忠綱に良策がありまする」



 明けて、十月二十四日の早朝、富士川の東岸に陣を張る東軍、源氏方は異様な匂いで目が覚めた。

 人が焼ける匂いである。

 否、人肉が焼ける匂いである。 

 富士川の河の真ん中には、ばってんに組み木された丸太に逆さに手足を貼り付けにされた、死骸が轟々と燃えていた。

 その数、四体。

 燃える直垂の具合から死骸は武者のものと見うけられる。

 あたりは、吐き気を催す、異様な匂いで充満している。

 東軍の武田信義は、富士川の流れの一番手前まで歩み寄ると、

「我が郎党ではあるまいか」低い、小さな声で言い放った。維盛に差し出した文を持った使者は武田信義のもとには帰ってきてはいなかった。

 しかし、七日近く前の出来事でもある。死骸は轟々と燃えており、武田信義の位置からは顔まで判別することはできなかった。

 残りの二体の燃える死骸も誰かわからなかった。

「我が郎党に違いあるまい!!」

 武田信義は、手に持っていた、馬上鞭を両手でそれこそ、対岸の平家方まで聞こえるほどの勢いで、へし折った。

 頼朝は、対照的に一切表情を変えなかった。

 四体の死体は、河の真ん中で等間隔に置かれ、逆さばってんにされ、轟々と音を立て燃え上がっていた。

 頼朝は、知っていた。生ける者は事を成すが、死んだ者はなんの事もなさないことを。

 これは、挑発以外の何物でもなかった。

 富士川の西岸に陣を敷く、平家方は昨晩までとはうってかわり、陣幕と矢盾がすべて外され、幾本も乱立する赤い平家の旗印以外なにも遮るものがなかった。

 そして、陣の中央には小松権亮少将維盛その人が、太刀を履き、赤地の錦の直垂に萌黄色威の鎧を身に着け、連銭葦毛の馬にまたがり、その陣の先頭に位置していた。

 まるで、攻めて来いと言わんばかりである。

 しかし、騎馬、兵の数は、異常なほど少なかった。

 その数、千騎もいるかどうか。



 源頼朝は、平家方のその騎馬武者の数の少なさを危ぶみ、武田信義に使い番を出そうとしたが、遅かった。

 功を焦る、雑色、遺骸を晒され火まで付けられた、武田信義の配下の兵は、名乗りも上げず、鏑矢を放つ間も待てず、我れ先にと騎馬、徒武者、一体となり富士川を渡りだした。


 

 維盛は、頼朝の統制が効かず、四万騎とも言われ怒涛の如く押し寄せる、源氏方を見て、ニヤリと笑った。この維盛の美しすぎる微笑みに幾人の女姓がその身を許したことか数えられない。

「われ、勝てり」

 そして、連銭葦毛の馬上から、さっと左手をおろし、左翼の兵に合図を送った。

 すると、夜のうちに捕らえておいた富士川の水鳥が一斉に放たれた。

 水鳥は、ものすごい数である。

 水鳥は一斉に、朝焼けの富士川を飛び立ち、北の富士川上流へ向かった。

 そう藤原上総介忠綱率いる平家本隊の騎馬武者が居る、雨乞山に向かい雲霞の如く飛んでいった。

 維盛の笑みが更に大きくなった。

 坂東衆は、今、足場の悪い富士川の中に歩を進めていた。燃え上がる死骸を餌に食いつき罠にかかったのだ。


 

 維盛や頼朝が睨み合っていた、富士川のほんの上流、雨乞山では、平家の騎馬武者の本隊千五百騎が合図を今か今かと待っていた。

 数で劣勢な彼ら平家方は、もう相手の大将、源頼朝を打ち取ることでしか、勝利はなかった。

 それに、東軍の坂東勢こそ、平家方以上に寄り合い所帯である。源氏の御曹司、左馬頭義朝が残しし一子頼朝を旗頭に纏まっているだけなのである。

 頼朝が居なくなれば、それこそ、大義名分どころか、武器をもって集まっている目的そのものを失ってしまうことになる。

「上総介殿、あれを!」

 合図の水鳥が雲霞の如く飛んでいる、まるで、雷鳴を補った黒雲が空を覆わんばかりの勢いである。

「まだじゃ」

 維盛の乳母子、藤原上総介忠綱は言った。

「坂東勢の兵が残らず突貫し頼朝が丸裸になるまで、は、待つのじゃ、これぞ、頼朝を討つ千載一遇の好機、逃してはならぬ!」

 その時、雨乞山の山陰に隠れている、平家方の騎馬武者千五百騎、誰も上総介忠綱が兜をかぶっていないことに気づかなかった。



 武田信義の配下の騎馬武者に、徒武者、雑色は、川の中央のさかさばってんの燃える遺骸を蹴散らし、突き進んでいた。

 この四体の遺骸は、藤原上総守忠清が斬った、武田信義の使者二名に、同じく、上総守忠清が斬った佐竹太郎が家臣、五郎太に、平家の武将、西山文五武親だった。全員、ブチ切れた、藤原上総守忠清が斬っていた。もう戦場の誰も燃える遺骸が誰なのかなど気ににしていなかった。

 蹴散らされた、まだ火のついたままの遺骸は四体とも富士川を駿河湾に向かい、ゆっくりと縛られた組み木とともに流されていった。



 一番、最初に異変に気づいたのは、小松権亮少将維盛の右後方に駒を進めて、控えていた清盛の異母弟、薩摩守平忠度である。

 上総介の動きがなにがなんでも遅すぎる。

 総大将の維盛、自らがおとりになっているのだが、しきりに幾度と上流の雨乞山を見てもなんの動きもなかった。

 あれだけの水鳥である、うるさいほどの羽音といい、維盛の乳母子の上総介が気づかないはずがなかった。

「維盛」

 薩摩守忠度は、弱々しい声を総大将である甥にかけた。

 もう目の前に我先にと手柄を求める坂東勢の騎馬武者が迫っていた。



 雨乞山では、この戦いのある意味本当の戦いが勃発していた。

 それも平家衆同士で。

「上総介殿!!、」

 平家の騎馬武者の本隊は突撃の合図を上総介にしきりにうながしていたが、上総介忠綱は一向に動こうとしなかった。

「上総介殿!、これでは、維盛様の陣所に間に合いませぬ」

 幾人もの平家の騎馬武者が轡を上総介の隣に並べては、促したが、一向に上総介は動かなかった。

 最初は、

「まだじゃ。まだじゃ」と上総介忠綱は言っていたが、もう緊張のあまりか顔が青ざめ、なにも言わなくなっていた。

「ええーいもう、待てぬわ、我らだけでも、馳せ参じようぞ」

 とある平家の騎馬武者一隊が、突撃しようとすると、上総介はなんと、西山文五武親の騎馬武者達を差し向け、その騎馬武者一隊を差し止めた。

「この、軍勢の大将は我、藤原上総介忠綱ぞ、軍律を犯すものは、容赦なく、斬る」

 忠綱は以仁王と源頼政が挙兵したおりに、源兼綱を斬った豪の者だった。

 上総介はそう言うと、ギロリと雨乞山に伏している平家の騎馬武者本隊ににらみを効かせた。

 西山文五武親配下の郎党は、上総介の近習、まるで近衛兵の如く、平家の騎馬武者本隊に向かい、抜刀し、威圧していた。

 西山文五武親の郎党の駒の向きが真逆だった。

 その時、始めて、雨乞山に居る平家衆全員がなぜ、維盛の乳母子である上総介忠綱が兜を被っていないのか、理解した。



 富士川の西岸の維盛の陣営は総崩れとなった。もともと無理な戦いだった。

坂東勢四万騎と平家方二千騎の戦いである。しかも、平維盛は本隊の千五百騎を坂東勢の側面を突くため、雨乞山の上総介忠綱に預けていた。

 富士川の西岸にいたのは、たった五百騎である。ものの数分で平家の陣営は総崩れとなった。

 副将の薩摩守平忠度が維盛の連銭葦毛の轡を無理やりつかみ、西へ逃がそうとしたが、連銭葦毛の手綱を掴んでわちゃわちゃしているうちに、坂東の雑兵に囲まれてしまった。

 平維盛は、この時、生まれて始めて、気づいた。今まで生まれながらの美顔や、いろんなものが、維盛に与えられてきたが、人は死をも他人から与えられることとがあるということを。

 そして、生まれて始めて、追討軍としてみかど与えられた節刀さえ、武具として、振り回し、自分の命を守ろうとしていた。

 維盛が自分のものを守ろうとしたいたのだ。これは、同じく、桓武天皇の血を引く平家の神武以来の革命的出来事だと言っても良かった。

 その時、名も知れぬ、雑色に囲まれて、奮戦する、維盛のところへ、一騎の騎馬武者が颯爽と現れた。

 藤原上総介忠綱である。当然、兜は被っていない、烏帽子である。

「おお、我が乳母子めのとご」維盛は、乳兄弟に助けを求めた。

 武勇に猛る、上総介忠綱は、以仁王と源頼政の挙兵に際しては、源兼綱を斬った猛将でもある太刀を振るうや坂東の雑色共を簡単に一掃すると、維盛の前を遮るように駒を進め現れた。

 今や、乳兄弟でなく、上総介と清盛の世孫の関係ですらなかった。

 しかし、あまり時間はなかった。

 この二人の平家の若武者の鎧は、あまりにも派手過ぎた。

 手柄を求める坂東の雑兵がほうぼうからそれこそ、亡者となった左馬頭義朝や悪源太義平に率いられた死なぬ亡者の兵のように、うようよと現れていた。

 上総介忠綱は、言った。この戦場の誰の声よりも大きかった。

「おまえなど、殺すつもりであったが、考えが変わった」

「なに!」

 維盛には、何のことかわからなかった。

「父、上総守が短気なことも、分かっていたし、我らが陣中にありとあらゆる流言非言を流したのもこの俺だ。大庭兄弟の来襲を坂東勢に教えたのもこの俺だし、伊藤親子の水軍についても早馬を西伊豆に出したのも俺だ」

 維盛は、驚きのあまりいつもの無表情な顔になっていった。

「西山文五武親だけは、余計だったがな」

 維盛は、今、乳兄弟の裏切りを与えられようとしていた。

「忠綱、なぜだ。気でも狂ったか」

「どうして、頼朝がこれだけの数の坂東勢をまとめ上げられたと思う?」

 維盛にわかるわけがなかった。

「おまえの祖父、入道は、己が家のことしか興味が無いからだ。"貴様の名はなんだ?"

"鶴野と申すもの"、"知らぬな"、"高橋と申しまする"、"聞いたことが無い"、"たいらでございまする"、"おおっわが家人か、官職につけてやろう、領地はどこが欲しい"、こんな具合だろう。名字がたいらでなければ、虫けらも同然だ。これなら、泣きはらし池禅尼殿の慈悲で生きながらえておる源氏の御曹司にもすがろうとたけあらぶる坂東の人でなし共も思うだろう」

 忠綱は鬼か、地獄の閻魔大王のようだった。維盛は何も言えなかった。

「入道の世孫よ、違うか?」

 亡者とした左馬頭義朝や悪源太義平に率いられた死なぬ亡者の兵は彼ら平家の若武者二人の周りに集まろうとしていた。

 忠綱は続けた。

「入道は、まだましだ、すくなくとも己が家のためには働いた。だが、お前は違う、維盛。丈子たけこという名を知っているか?」

 女など、鬱陶しいほど周りに寄り集まる維盛が女の名を覚えているはずがなかった。

 女はすべて、名でなく、太った女、痩せた女、色黒のお女、色白の女、うるさい女、嘉がる女、なになにの女としてしか記憶になかった。

「やはり、覚えてもおらぬか、その方の乳兄弟、乳母子、藤原上総介忠綱が許嫁いいなずけぞ。京の二条で鴨川に身を投げたわ。丈子たけこにも、落ち度はあろう。しかし、この忠綱、自分のためにしかそれも、与えられることでしか生きておらぬお前だけは、許せぬ、いや許さぬ」

 忠綱は、更に駒を維盛の連銭葦毛に寄せてきた。

 もう時がなかった、亡者と化した義朝や義平の亡者のつわものが辺りに寄り集まっていた。

「与えられるのは得意であろう、維盛。お前には、死でなく、汚辱を与えよう。何千年も史文の中で物笑いのタネと成れ」

 そういうや藤原上総介忠綱は、籠手で維盛の頬を裏拳で殴り、昏倒させた。

 上総介忠綱は、源兼綱を斬った猛将だった。

 連銭葦毛の鞍の上で倒れ掛かった維盛を忠綱は片手で抱えると、己の馬の尻に乗せるや、風よりも早く、西に向かって駆けた。

 その駒は二人も乗せているとは思えぬ速度で、どの亡者のつわものでも追いつけない、速さだった。

 忠綱は既に丈子たけことともに京の二条で心中した亡者だったかもしれない。 

  

 了。

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