第2話:心の空洞

 僕には、心がない。ポッカリと空いた空洞が僕の心の中身だ。だからと言って日常生活に支障をきたすほど不便をしているわけではない。僕には、日ごろ培ってきた……もう一人の自分と言う仮面が存在する。その仮面を付けて僕は、日常を上手く過ごしている。仮面は、感情の条件反射だ。その場の雰囲気に合わせて、当たり障りの無い言葉を返す。

仮面が笑った所で本当の僕は、可笑しいわけじゃない。

仮面が泣いた所で本当の僕は、悲しいわけじゃない。

仮面が怒った所で本当の僕は、怒りを覚えているわけじゃない。

本当の僕は、何も感じない空洞だ。

いつも遠くから……もう一人の自分を眺めているような感覚で僕は、生活を続けている。僕が何も感じないのは、何も持って居ないからだ……と最近の僕は、そう思うようになっていた。心と言う感情は、幼い頃に完成する。特に3歳ぐらいまでに自身が取り入れた情報を元に自己を定義づけて喜怒哀楽をまわりの人間……親、友達、先生から学び取るのである。 感情を学ぶと言う行為で一番影響を受けるのは、親からである。性格が両親に似ている子供が多いのは、遺伝的要素だけではなくそう言った日々日常の親から受ける感情をより多く学び取っているからだ。僕の様に感情を理解し心を完成させなければならない時期に空白の時を過ごした人間は、致命的である。大人になったとしても死ぬまで感情や心を理解できなくなってしまう。そう、狼に育てられた人間が死ぬまで笑えなかったように。幸い僕は、言葉を理解する回路が脳内に形成された為、言語を理解できるようになったがもし、空白の時の中で言葉を聞くことが無ければ言語すら僕の中には、存在しなかっただろう。人間の脳細胞は、3歳ぐらいまで活発に神経節を巡らせて経験と知識を自分の物にしようと回路を作りまくる。そして、20歳ごろから神経細胞の炎症を抑える物質が減少し始める。

脳細胞の壊死が始まるのだ。脳細胞の特質としてとても不思議なのは、老人に良く見られる痴呆症である。よく言われている脳を良く使う人は、痴呆症になりにくいと言うのは、嘘である。痴呆症になるのは、食生活による所が高いと統計で出ている。言われているのは、魚を多く食する人が痴呆症になりにくく、肉類を多く食する人は、痴呆症になりやすいのだと言う。魚に含まれているDHAが脳細胞の炎症を抑える働きがあるのだとか。脳細胞は、その数がある一定以下に低下すると再び3歳児の頃の脳細胞の様に活発な動きを見せ始める。これが俗に言う痴呆症の始まりである。

低下した脳細胞の数を補う為に脳細胞は、自身の神経節を活発に伸ばし始める。だが、一つの脳細胞が伸ばせる神経節の数には限界がある。伸びきった神経節は、極端に細くなり、神経伝達物質量も低下する。すると、脳に多大な影響が……現れる。

記憶の混乱、忘却、幻覚から……意識の混濁……痴呆症である。このような脳細胞の特性を学んでも僕には、感情と心について、理解する事は、できなかった。つまり、僕の脳細胞には、感情を理解する回路が出来ていないのだろう。

心は、何処にあるのだろう。 灰色の脳細胞の中に心と言うものは、本当に存在するのだろうか。




 午後16時を少しまわっていた。自分の部屋に篭っていたが、少し気分を変えたくて一階の居間に下りて来た。僕の部屋は、2階の南端にある。だから夕方頃になると夕日が窓から飛び込んできて気分が悪くなる。夕日の柿色は、僕にとっては、何か気分を害する特性を持っているようだ。あの柿色の光が僕の中の何かが呼び覚まされるようで気分が悪くなる。気分が悪くなるのには、耐えられない。故に一階に下りてきた。居間に入ると誰か居間のソファーに座っていた。後ろ姿しか見えないが黒く腰までのびた髪は、従姉の佐倉曜子その人だと理解するには、さほど時間がかからなかった。佐倉曜子の姿を認識した僕は、思わず「しまった」と声をあげそうになる。今は、佐倉曜子の両親が不在な時間である。こんな時間に佐倉曜子と二人だけと言うのは、とても危険であるのだ。佐倉曜子の両親が居れば、佐倉曜子の奇行を止めてくれる。その存在が居ないのは、僕の身がとても危険にさられると言う事だ。だが、もう遅い。佐倉曜子は、こちらに気づいていないフリをしているがおそらくその獣並の感覚で僕の存在に気がついているはずだ。


 佐倉曜子は、スラリとした長身の美女である。その鋭い吊り上った目は、獣のそれを思い浮かばせる。今時めずらいストレートのロングヘアーは、とても手入れが大変だと思うのだ。動物に例えるのなら黒豹と言ったところ。歳は、17歳。僕より1歳年上である。そんな佐倉曜子だが少し問題点が存在する。僕は、佐倉曜子によく苛められている。心を持たない人形が人間のふりをしているのがとても滑稽だと佐倉曜子は、笑うのだ。心ある人間を演じるのは、疲れる。感情が理解できないから、想像で空洞を埋めるしかない。だから、誰かの意見に従うのは、僕にとって楽である。感情を演じる必要もない。ただ、従っていればいいのだ。しかし、僕の周りには、僕を支配しようと思っている人間は、一人も存在しない。僕を心ある同じ人間のように扱うだけだ。だが、佐倉曜子だけは、僕を人形の様に扱う。僕を支配しようとする。そして、結局は佐倉曜子の命令に従ってしまうのだ。

「賢治、ちょっとこちらに来なさい」

あくまで静かに言う佐倉曜子。佐倉曜子は、ソファーの中心に座って僕に背を向けたまま何かの雑誌を読んでいる様子だった。僕は、ただ黙ったまま佐倉曜子の方へと近づいていく。ソファーの前に回りこみ佐倉曜子と対面する形を取った。

「なんですか?」

「こちらに座りなさい」

佐倉曜子は、ソファーの上で自分の右横を叩きそう言った。僕は、それに逆らう理由が無かったので佐倉曜子の指示に従った。

「賢治……彼女ができたんだって?」

佐倉曜子のその言葉に僕の条件反射が驚いた表情をする。

「どうして……それを知って……」

「後輩がら聞いたのよ」

佐倉曜子は、何の感情も載せずにそう言った。佐倉曜子の後輩と言えば……同じ学校の一年だろう。と言う事は、僕の同級生にあたる。佐倉曜子と僕は、同じ高校に通っている。高校受験の時、特に行きたい高校も無かった為、佐倉曜子に同じ高校を受験するように言われたのだ。僕は、それに従った。

「……告白されました。同じクラスの同級生です」

「それで……OKしたんだ?」

「ハイ、恋愛感情と言うものがどんなものなのか興味がありました。つき合えば、何か情報がえられると理解しました」

その機械的な回答に佐倉曜子は、渋面な顔を僕に向けた。

「賢治、あんた解ってんの? 心がないあんたが人を愛せるわけがない。それを理解する事も不可能。お互い不幸になる前に別れなさい」

「……それは……命令ですか?」

「……いいえ。これは、私の一意見です」

佐倉曜子は、そう冷淡に言って僕を睨みつけた。

「姉さんは、人を愛する事ができるのですか?」

「……出来るわ」

「狂っているのに?」

僕がその言葉を吐いたとたんに僕の右頬が鈍い痛みを感じた。バチンと佐倉曜子に平手打ちを喰らったのだ。

「狂っているって? 狂っていても心が在るのよ。心の無い、あんたとは、違う!」

佐倉曜子は、僕の胸を掴みにかかりそう叫んだ。そのまま僕の身体は、佐倉曜子に引きずられ床に叩きつけられた。そして、何処に隠し持っていたのか佐倉曜子は、ナイフを取り出していた。佐倉曜子は、危険人物。それが最初に出会った時の印象だった。佐倉曜子は、他人の血を見る事が大好きである。何かの拍子にスイッチが入ると人の血を見るまで止まらない。今の状況は、まさにそうである。佐倉曜子は、床に倒れたままの僕の腹の上に馬乗りになり、右手にナイフを構えた。

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