第28話 奇跡

 青年は奇跡を信じない。

 何故なら奇跡とは神に祝福されし者にのみ訪れる祝福だからだ。

 だから多くの人を殺してきた自分なんかに、奇跡なんか起きるはずがないと思っていた。


 だが、それはまさに奇跡であった。


 マクスから聞いた目的地に向かって、馬を走らせてきた青年の目に飛び込んできたのは、絶望的とも言える光景だった。


 馬から降り、地面にうつ伏せになって遠眼鏡を覗き込む。

 深夜であったが夜目の利く少年ならば、それでも状況を正確に判断できた。


 恐れていたことが現実になっていた。


『アガルトの夜明け』はベアダ軍の襲撃に失敗し、次々と返り討ちにあっていたのだ。


 砦に仲間の何人かは残してはいるものの、この失敗は壊滅的と言っていい。

 頭領が奮闘し、仲間を鼓舞してなんとか逃げ落ちようとしているが、おそらくは難しいだろう。


(それよりもネコ! ネコはどうなった!?)


 青年は遠眼鏡をベアダのテントが張られた陣内へと向ける。

 が、いくら目を凝らして探しても少女の姿を見つけられなかった。


 状況から少女が暗殺に失敗したのは明らかだ。

 もしかしたらその場で切り捨てられたかと恐れたが、それらしい死体は見当たらなかった。


 と、なると次に考えられるのは何処かの天幕に捕らえられている可能性だろうか。


 他の団員と同じように何とか逃げようとしていることも考えられなくはないが、少女は団員の誰よりも一番危険なところ、それこそ相手の懐にまで忍び込んでいたはずだ。

 いくら身軽な少女でも失敗しては、簡単に逃げられるはずがない。


 ベアダ軍は捕まえた者は情報を必要なだけ聞き出すと、女、子供でも容赦なく処刑すると聞く。仮に今は生き延びていたとしても、少女の命は風前の灯だ。


(助け出すなら、兵士たちが追撃に出ている今しかないけど……)


 青年はこれまでの道中の中で何度も試してきたように、自分の右肩に力を入れてみる。

 相変わらず、右腕はぴくりとも動かなかった。

 そのくせズキズキとした痛みだけが伝わってくる。


 こんな調子で助け出すことなんてできるのだろうか……。


(ううん、やらなきゃ。ネコは俺のために命を張ってくれたんだ。今度は俺の番……)


 戦況を今一度確かめると、頭領が奇跡的に逃げ延びて、森の中へと走り去っていくのが見えた。

 兵士たちは追いかけるだろうか?

 いや、ベアダ兵は森の中の追撃を不得手としている。ましてや夜の森など、彼らには荷が重すぎるだろう。


 それでも人数をかけて燻り出すことも可能ではあるが、エステバル軍との戦いならばいざ知らず、相手が単なるならず者だとベアダだって気付いているはずだ。これ以上深追いするとは考えられなかった。


(となると、ベアダは兵を引き上げる。時間がない。急がないと)


 青年は立ち上がる。

 その振動で右肩がまた酷く痛み、思わず声を上げそうになった。

 が。


「……ネ、ネコ?」


 呻き声の代わりに口にしたのは、求める少女の名前だった。


 青年は一瞬、自分が痛みのあまりに幻を見たのかと思った。

 それぐらい信じられない。信じられない奇跡だった。

 捜し求めた少女が、ほんの数十メートルほど離れたところに服をボロボロにした酷い姿で倒れていたのだ。


「ネコ!」


 青年は体が悲鳴をあげるのも構わず、草原にぐったりと体を横たえる少女に駆け寄った。


「ネコ! し、しっかりして、ネコ!」


 片膝をついて抱き上げる。

 もしかして死んでいるのだろうか、という心配はすぐに危惧に終わった。


「あ……あれ、イヌ?」


 少女が目をぱちくりさせて、青年を見上げる。


「ああ、お、俺だ。よ、良かった、無事だったんだな」


 安堵に微笑む青年。

 対して少女は、これが夢ではないと分かった途端、目尻に大粒の涙が浮かんでくる。


「イヌ! ごめんね、イヌ! ネコ、ネコね……あっ!」


 そして青年に抱きつこうとして力を入れた途端、足首に走った痛みに顔を顰ませ「うわぁあ!」と呻いた。


「……ひ、酷い、足の腱を切られたのか」


 止血のつもりなんだろう。少女が自分の着ていた服を切り裂いて両足に巻いた布切れに、じんわりと血が滲み出ていた。

 傷はそれだけではない。土にまみれた掌はどちらも擦り傷だらけで、膝に至っては擦りむけて血だらけだった。

 おそらく腱を切られて歩けないから、膝をつき地面を這うようにして逃げ出したのだろう。

 ここまで来て体力が尽きて気絶したのを、偶然にも青年が見つけたのはまさに奇跡と言って良かった。


「ネコ、す、少し染みるけど我慢して」


 青年は少女の足首の布を外して具合を確かめると、自分の胸ポケットから小瓶を取り出して中の液体を傷口に垂らす。


「あうっ! 痛い! 痛いよ、イヌ! なにするのさー!?」


「し、消毒だよ。こ、このままじゃ傷口からばい菌が入って後々大変なことになるんだ」


 足首だけでなく、掌や膝にもかけて消毒をすると、青年は自分の肩に巻かれていた包帯を解いて、代わりに少女の患部へと巻き始めた。


「あ、ダメだよ、イヌ」


「い、いい、もう俺の方は大丈夫だから」


 少女のぎこちない巻きと違い、青年は片手でてこずりながらも奇麗に包帯を巻いていく。


「……ごめんね、イヌ」


 青年に包帯を巻かれながら、少女がポツリと呟くように謝罪の言葉を口にした。


「だ、だから俺の方は本当に大丈夫だから」


「違うよっ!」


 少女が声を荒らげる。

 が、すぐにしゅんとした様子になって、青年に伝えたかった言葉を紡いでいく。


「ネコ、やっぱり人を殺せなかった……」


 ずっと謝りたかった。

 あれだけ青年に言われても、最後の一線をどうしても越えられなかった。


「それでイヌに大怪我をさせちゃって……」


 しかもその代償を自分自身ではなく、青年に負わせてしまったことを少女は心から悔やんだ。

 まさかあんなことになるとは思ってもいなくて、追いかけてきた見張りが青年に斬りかかる瞬間を目撃した時は全身から血の気が引いた。

 後悔して、意識が戻らない青年に何度も心の中で謝って、必死に看病をした。


「ネコね、だから今度こそちゃんとお仕事をして、イヌにお薬を買ってあげようと思ってたんだ。でも……」


「……い、いいんだよ、ネコ」


 少女の声に涙の色が濃く滲み出すのを、青年は包帯を巻きながら感じ取った。

 少女に泣いて欲しくなかった。

 何故なら少女に涙は似合わないと思うからだ。


「だ、だって、それを言うなら」


 だから青年は、少女がしたように、彼自身も伝えようとしていた言葉を口にした。


「す、全ては俺が悪かったんだ。お、俺はね、ネコ、き、君を俺自身の自由のために利用したんだ」


 数々の修羅場を経験してきた青年だ。

 心の水面に波紋のひとつも広げずに、人を殺してみせる青年だ。

 恐怖なんて感情は頭領相手以外には持たない、持つはずがないと思っていた。

 なのに今、青年は怖くて少女の顔を見ることが出来ず、ただ黙々と包帯を巻いては話し続けた。


「ま、前に話したね、お、俺が頭領とある約束をしているって。そ、それは、あの砦を落としたら、お、俺を解放してくれるって約束だったんだ」


「…………」


「だ、だから俺はどうしてもあの砦を落としたかった。……ネコ、た、たとえ君に人殺しという重い十字架を背負ってもらうことになっても、ね」


「…………」


 少女はずっと黙って聞いていた。

 その沈黙が、青年を追い詰めていく。

 むしろ告白を聞いて激怒してくれた方がどれだけ楽になれただろう。

 信じていたのに裏切られたと罵ってくれれば、青年は誠心誠意謝るつもりだった。少女が求めるのならば、自分の大切なものでもなんでも差し出すつもりでいた。

 だけど少女は何も話さない。


 まるで全てを話してと青年を促すかのようだった。


「そ、そう、俺は君を危険な目にあわせたばかりか、人殺しまでさせようとしたんだ。ど、動物一匹だって殺すのが嫌いな、心優しい君に。しかも全部自分のために……。なのに、それなのに、君は!」


 青年の声が震える。

 もう止まらない。

 少女の患部に巻きつける包帯に、ぽたり、ぽたりと熱い雫が零れた。


「ど、どうしてそんな俺を君は救ってくれたんだ? 俺をずっと看病してくれたばかりか、また危険なことにまで足をつっこんで……どうして? どうしてだよ? お、俺は君にあんな酷いことをさせようとしたのに。君にそこまでしてもらう資格なんて、俺にはないのに……」


「だって、イヌ……」


 どうして、と何度も繰り返す青年に、ようやく少女が口を開く。


「守ってくれたもん、ネコを」


「ま、守った……? 君を……?」


「うん」


 青年には少女の言っていることが分からなかった。

 少女を守った記憶なんて青年にはなかったからだ。


「ネコね、知ってるよ」


 少女の手が青年の銀髪へと伸ばされる。


「初めて出会ったあの夜、本当ならネコ、あの時に殺されちゃう運命だったんだよね?」


 少女の掌はすりむけていたけれど、とても温かかった。

 同時に少女も青年のごわごわした髪に、どこか心地よさを感じていた。


「あの時、イヌは何も出来なくてみんなに笑われちゃったけれど、本当はネコの命を守る為に何もしなかったんだよね? 何も出来なければ、きっとみんなはイヌをからかうためにネコを生かしてくれるって、そう思って守ってくれたんだよね?」


 青年の脳裏にあの夜のことが浮かび上がる。

 少女を前に、何故か何も出来なかったあの夜。

 頭の中で獣の自分が餌を欲しがっているのを、よく分からないけれど懸命に抑え込んだ。

 どうしてそんなことをしたのか自分でも分からなくて、戸惑った。


「だからネコはね、イヌに恩返しがしたかったんだ」


 ふっと少女に頭を抱きこまれた。

 先ほど感じた以上の温もりに包まれ、青年はようやくあの夜の答えを見い出したような気がした。

 少女は「守ってくれた」と言ってくれたけれど、正確には少し違う。

 自分と同じように獣の名前を持つこの少女となら、分かち合えるかもと思ったのだ。


 人間らしい、この温もりを――。


 青年は頭を抱かれたまま、包帯を巻くのをやめて、自分も少女の体に左腕を回した。

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