第五章 イヌの人生
第19話 過去Ⅰ
青年がまだ幼い頃。
彼にも家族と呼ばれる者たちが存在した。
父は厳格な性格で、息子に人として正しき道を指し示した。
母は優しく穏やかな性格で、彼に人を愛する人生の素晴らしさを教えた。
さらには年が離れた兄や、孫が可愛くて仕方がないとばかりにいつも彼のためにお菓子を作ってくれる祖母など、ありきたりながらも温かい家族ですくすくと育った。
が、国が突然隣国に攻め込まれ、その混乱の中でまだ十歳にも満たなかった青年は家族と離れ離れとなってしまう。
街は焼かれ、父や母たちがどこへ行ったのか、あるいは生きているかすら分からないまま、幼かった青年は行く当てもないまま彷徨った。
そして空腹で行き倒れになりそうなところを教会に保護され、同じような境遇の子供たちと共にしばらくそこで育てられることとなった。
教会での生活が一年ほど経った頃だろうか。
戦争はすでに終結し、青年の祖国アガルトは地図から姿を消していた。
ただし各地ではまだアガルトの残党たちが激しく抵抗を繰り広げており、治安は不安定。そのような状況下ではまともな農作業などが出来るはずがなく、人々の施しで日々の糧を得ている教会はとても苦しい運営を余儀なくされていた。
一日の食事がこぶし大の硬いパンと、具のないしょっぱいスープだけということも珍しくなかった。
そんな中、とある人物が孤児たちを引き取りたいと言ってきた。
なんでも海を越えた先にある農業国家パーラの地主で、アガルトの状況を見かねてせめて子供たちだけでも救いたいと申し出てきたのだ。
もちろん引き取ると言っても養子などではなく農園での使用人という立場ではあるが、戦火で見るも無惨な状態にされてしまった今の旧アガルト領に残り続けるよりかはずっと明るい未来がある。
それになにより農作物が豊富なパーラならば、使用人であってもここよりずっと良い食事が提供される。
子供たちの中にはいつかきっと両親が迎えに来てくれると信じて居残る者もいたが、多くは苦しい生活の日々に希望も失い、それならばパーラに行った方がマシだと決断した。
一年が経ち十歳になった青年もその中のひとりである。
かくして二十名ほどの少年たちが荷馬車に揺られ、教会から巣立って行った。
さすがに出発時には泣き出す者も少なくなかったが、希望を胸に少年たちは海を渡り、新しい生活が始まる……はずだった。
が、本来ならばベアダの帝都を経由して港町モッセへと行くはずが、何故かどこか見知らぬ森の近くで馬車から降ろされ、そこから徒歩で森の中を歩くよう命じられた。
おかしいなと思いながらも馬車を運転していた、がっつりとした体型の男が「ベアダに捕まったら子供と言えども殺されてしまうからな。見つからないよう秘密の入り江から海を渡るんだ」と言うので、子供たちは信じて深い森の中をついていった。
そして子供たちの疲れもピークになった頃、不意に視界が開けた。
そこに広がっていたのは夕日に照らされた、黄色い花弁が海風でそよぐたんぽぽ畑。
海へと続く丘陵の頂上には大きな木と、小屋が建っていた。
「今夜はここで休むぞ。明日の朝にはパーラから船がやってくる」
男に言われて子供たちは疲れも忘れてたんぽぽ畑を走り回り、日が暮れると男が作ってくれた具の入ったシチューを貪るようにしてお腹一杯に食べた。
戦争が起きてから久しくなかった、満腹での一夜。
小屋はさすがに二十人で寝るとなるとやや窮屈だったが、それでも少年たちは幸せだった。
パーラでは使用人として働くことになるも、今夜と同じかそれ以上の食事が提供されると聞いて、早く明日が来ないかなと皆ワクワクして眠りに就いた。
しかし、青年はこのことを覚えていない。
何故なら食べたシチューにはこれまでの人生にまつわる記憶を消してしまう薬が入っていたからだ。
だから青年が覚えているのは、次の日、皆が自分の名前すら思い出せなくてぼんやりと立っている中、次々と新しい名前――イヌやネコ、サル、オオカミ、クマなどの到底人間に付けるような名前ではないものを与えられるところからだった。
名前を付けてくれた男――教会からたんぽぽ畑の小屋まで連れて来た男だ――は、自分のことは頭領と呼ぶよう言いつけると、まずは少年たちに大木に繋いだロープを伝って崖下へと降りるよう命じた。
身も縮むような高さの断崖絶壁を、少年たちは順番にロープへしがみついて懸命に降りる。
一人を残して、なんとか無事に崖下の岩場へと降りることできた。
だが、どうしても怖がって降りることが出来ない少年がいる。
崖下から怒鳴っていた頭領は焦れて、自らロープを登っていった。
きっと頭領が少年を担いででも下に連れてくるのだろう。
その場にいる誰もが皆、そう思った。
が。
「うわああああああああ!」
少年たちが見上げる中、頭領は件の少年を崖の上から蹴り降ろした。
空中で絶叫しながら、手足をジタバタと動かしてもがく少年。
でも、その行為も虚しく、どんどん岩場は近づいてきて――。
ドンっ!
鈍い音を立てて、先に降りていた少年たちの目の前で地面に叩きつけられた。
人間がまるで人形のように岩でバウンドし、折れた骨が皮膚を突き破り、体中から血が噴き出すのを、イヌと名付けられた少年はこの時初めてみた。
「ひいいいいいいー!」
少年たちが悲鳴をあげる。
イヌも同様だった。
中には吐き出す者もいた。それぐらい壮絶な光景だった。
イヌはそれでも勇気を振り絞って件の少年に近付こうとする。
あまりにも酷い有様だが、まだ呻き声をあげている。
何が出来るかは分からないけれど、今ならまだ助けることが出来るかもしれない――。
「そいつに構うんじゃねぇ!」
そこへ再びロープで降りてきた頭領の怒鳴り声が飛んできた。
あまりに大きく、そして怒りに任せた声だったのでイヌはビクリと体を震わせて足を止める。
少年たちの悲鳴も一斉に鳴り止んだ。
「いいか、おめえら。よく見とけ。俺様の命令に逆らったり、付いてこれねぇヤツはどうなるかよ」
そう言うと頭領は蹴落とした少年の片足を持つと、痛がって悲鳴をあげるのも構わず岩場をずるずると引っ張り、海へ向かって投げ捨てた。
酷い怪我を負った少年がまともに泳げるはずもない。
それでもしばらくはバシャバシャと水面を叩いていたが、やがて静かになって海の底へと沈んでいった。
「おめえらもこうなりたくければ、俺様の命令には絶対に逆らうな。いいな?」
ただでさえ少年たちと頭領とは親子ほどの年齢の差がある。
そこにこんな光景を見せられて、果たして誰が逆らうことが出来るというのだろう?
かくして地獄の日々が始まった。
頭領はまず断崖絶壁をロープなしで登るよう少年たちに命じた。
とんでもない高さの上に、波で侵食された岸壁はこちらに倒れこんでくるのではないかと思うぐらい傾いており、おまけに滑りやすかった。
それでも少年たちは死にたくない一心で、必死になって断崖絶壁を登り始めた。
何人も途中で手足を滑らせたり、体力が限界になって墜落した。
岩場まで潮が満ちた状態で行い、また最初のうちはそれほど高くまで登れなかったので、落ちても先の少年のようにはならない。
しかし、運悪く岩礁に落ちて骨折した者を頭領は容赦なく切り捨てた。
午前の崖登りの訓練が終わり、簡単な昼食を摂ると、午後からはたんぽぽ畑や森の中にいる獣を仕留めてこいと頭領は少年たちにナイフを渡した。
と言われても、少年たちのほとんどは狩りなんてやったことがない。
仮に経験があったとしても、先に飲まされた薬のせいでぼんやりとしか思い出せなかった。
だから初日は誰も成果を上げることが出来ず、頭領にしこたま殴りつけられた。
「狩りの仕方を……せめてナイフの使い方を教えてください」
殴られながらも、ウサギと名付けられた少年が申し出た。
「ナイフの使い方だぁ? そんなもんはなぁ」
頭領が腰にぶら下げた自分のナイフを抜く。
と、やにわに目の前で生意気なことを言ってきた少年の首もとを薙ぎ払った。
「う……くはっ!」
ウサギという名の少年が驚いた顔を浮かべると、自分の喉から噴水のように噴き出す血を慌てて堰き止めようと必死になって首を押さえつける。
「こうすればいいんだ! 簡単だろうがっ!」
頭領が苛立ちながら今度はナイフを少年の胸に突き刺した。
やがて少年が物言わぬ肉塊になるのを見届けると、頭領は「お前ら、何か獲ってくるまでメシ抜きだ!」と怒鳴って小屋へと戻っていった。
午前は崖登り。
午後は狩猟。
そんな日々が何日も続いた。
空腹で朦朧とし、崖登り中に落ちて命を失う者がいた。
与えられたナイフで自ら命を断った者もいた。
それでも生き残った者たちは皆で協力し、なんとかこの地獄の日々を生き抜いた。
そしてある日のこと。
「やったー! やったぞー!」
ついに一人の少年が崖を自力で登りきった。
ネコと名付けられた少年は誰よりも身軽で、誰よりも崖登りの訓練に取り組んでいた。
いくら高いところから落ちて体が悲鳴をあげても諦めず、何度も何度も諦めずに崖を登り続けた末に辿り着いた快挙だ。
「おう。よくやった!」
珍しく頭領も御機嫌でネコという少年を褒め称え、崖下の他の少年たちにロープで上がってこいと命じた。
なんだろうかと崖の上に登り、たんぽぽ畑に集合すると、これからネコの少年以外は崖登りの訓練をしなくてよいと頭領は告げる。
わぁと少年たちは歓声を上げ……たりはしなかった。
頭領の言葉を素直に信じられるほど、少年たちはもう幼くない。
むしろ一度喜ばせておいてから叩き落す頭領のやり方を知っている少年たちは、嫌な予感がどうか的中しませんようにと祈るばかりだった。
「ネコも含めて生き残ったのは十人か……多すぎるな。よし、おまえら、組み合わせはどうでもいいから殺しあえ。生き残った五人は次の訓練に、死んだ五人はここでさよならだ」
だが、神は少年たちの願いを聞き入れてはくれなかった。
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