第17話 終わりの時

 青年がロープを登り終えると、少女が呆然とした様子で立ち尽くしていた。

 いまだ砦は落ちておらず、しばらくすれば巡回兵がやってくる。褒められた状態ではない。

 が、


「よ、よくやった、ネコ!」


 青年は少女の頭を優しく撫でると、その体を労るようにぎゅっと抱きしめた。

 胸の中で脱力する少女。反面、抱きしめた体から伝わってくるいつもより高めの体温、激しく波打つ心臓の鼓動が少女の状況を物語っている。


 無理もない。少女はそれだけのことをしてみせたのだ。

  

 青年は少女を抱きしめたまま、登ってきたロープは海へ切り落として処分し、扉のひとつから砦の内部へと身を隠した。

 中の通路は等間隔に松明が燃えていてゆらゆらと周囲を照らしていたが、静寂そのもので、近くに人の気配も感じられなかった。

 やはり見張り以外は全員寝入っているのだろう。


 やがてコツコツと外の回廊を巡回兵が歩いてくる音が聞こえてくると、扉越しに「異常なし」という言葉が交わされるのを耳にした。

 塔の上では見張りがすでに息絶えているのだが、回廊を巡回するふたりは知る由もない。

 やがて再び遠ざかる靴音が聞こえた。


 その間ずっと少女は震えていた。


「よ、よくやった、よ、よく頑張ったね、ネコ」


 青年は巡回兵の気配が完全に消えるのを確認すると、再び少女に労いの言葉を掛ける。


「あ、あの、イヌ。ネコ、ネコね……」


 少女がいまだ震えながらも、何かを伝えようと必死に口を動かす。でも、


「い、いいんだ、ネコ。ネ、ネコは自分の仕事をしっかりとやったんだ」


 青年は完全肯定の言葉で、少女の煩悶する心を断ち切ってやろうとした。


 かつて青年も同じ苦難に襲われた。

 いくらそれまで人が殺されるところを見ていたとしても、自分の手で他人の命を殺めるということは想像以上に心を蝕む。

 自分が生きるためとは言え、本当にそれで良かったのかと答えの出ない問いを延々と繰り返してしまう。

 立ち直るには自分で克服するか、誰かに許してもらうしかないのだ。


 と、不意に青年は、少女の腰に得物のナイフが無くなっていることに気付いた。


 どうやら塔の見張りに突き刺したままにしてしまったらしい。

 取りに戻らせても良かったが、現状では今夜これ以上少女に仕事をさせるのは難しいように思えた。

 かといって青年が取りに行くにも今は時間がない。

 計画ではこれからの数分で回廊の巡回兵ふたりと、正門の開閉を司る門番も無力化しなければならないのだ。


「ネ、ネコ、ここにいて」


 青年は少女の体を離すと、腰にぶら下げた愛用のナイフを確かめた。


「あ、イヌ……」


 行っちゃヤダと少女は瞳で訴える。が、青年は聞き入れなかった。


 この砦を監視できる近くの森に、頭領たちとダビドが青年からの合図はまだかと気を急かして待っているのだ。いくら上手くいったとしても、待たせたら待たせた分だけ頭領の機嫌が悪くなるのは目に見えている。

 その結果、例の約束を反故にされてはたまらない。


「だ、大丈夫、す、すぐに戻るよ。あ、それから」


 青年はズボンのポケットから取り出したものを少女の頭にそっと乗せた。


「さ、さっきロープを登りながら、俺も見つけたんだ。ネ、ネコにあげるよ」


 黄色い小さな花弁が可愛らしい、一輪のたんぽぽの花だった。

 血染めのたんぽぽが多い中、珍しく普通のたんぽぽだ。

 しかも普通夜には花を閉じているはずなのだが何故か開いていて、それは何処かどんな時でも明るい少女の笑顔を彷彿とさせた。


 たんぽぽのような笑顔が早くネコに戻りますように――。

 

 そんな青年の想いを込めた贈り物だった。




 青年が砦の廊下を物音ひとつあげることなく走り抜ける。


 塔の見張りは少女が無力化した。

 残りの標的はみっつ。

 ただし、巡回兵はわずか二分の間に、正門の門番はその後の三分内に殺らなければならない。


 何故なら彼らは定期的にお互いの存在を確認しながら、見回りを続けているからだ。


 門番が立つ正門真上の回廊で三人は一堂に会すと、ふたりの巡回兵はそれぞれ東と西の回廊を見回って、再度四分後に北の回廊で落ち合う。

 もしこの時にどちらかのひとりでも見当たらなければ、もう片方の巡回兵は相方の異変を知ることになる。何事かと相方の担当方面へと様子を伺いに行くぐらいならばいいが、もしここで即座に騒ぎ立てられては非常に拙い。

 

 だからまず巡回兵を、彼らがそれぞれ東と西の回廊を見回りしている間に殺す。


 そのために青年はまず正門上の南回廊で三人が「異常なし」と確認し合う声を扉越しに聞くと、急いで通路を東の外回廊に出る扉に向かって走った。

 音もなく扉を開いて東の回廊に出ると、まだ南の回廊を歩いているであろう巡回兵が角を曲がって姿を現すぎりぎりまで南へと走った。

 そしてその姿がチラリと見えた瞬間、青年は回廊の外へとその身を投じる。


 もちろん下は打ち寄せる波の飛沫が舞う断崖絶壁だ。

 落ちれば作戦失敗どころか、下手すれば波間から突き出す岩で体を強かに打ち、命を落とす可能性もある。

 

 だが青年は凪の水面のような穏やかな心でそれらの恐怖を克服し、じっと外の城壁に指をかけて踏ん張った。

 やがて巡回兵がまさかすぐ傍の城壁に青年がへばりついて隠れているとは露とも思わず、通り過ぎていく。

 完全に気配を消している青年にとって、巡回兵がわずか数歩通り過ぎるだけで良かった。

 素早く、音も気配も感じさせず外の城壁から回廊へと登ると、無防備な後ろ姿を見せている巡回兵に近寄り、その喉もとへナイフを薙いだ。


 兵士の首からぴゅーと噴き出す血飛沫が、東の回廊をたちまち赤く染め上げる。

 青年は血の噴水をまともに浴びるも気にした様子もなく、ナイフを右手に持ったまま、左手に掴んだ兵士の首をその場に置き捨てて、再び砦の中へ入っていった。


 次は西の回廊を巡回している兵士の番だ。

 砦の内部は至って単純な作りをしており、青年が西の外回廊へと出る扉前に走りつくのにさほど時間はかからなかった。


 さらに東の回廊の巡回兵を思っていたよりも早く倒せたのも功を奏した。

 扉に耳を当てて外の様子を窺うと、しばらくして巡回兵がコツコツと靴音を響かせて扉の前を通過する音が聞こえてきた。


 少しでも時間を稼ぐ為、一度城壁の外へ身を隠さなければいけなかった東の兵士の時と違って、扉の向こう側でやり過ごした後に始末すればいい西の兵士の処理は楽だった。


 新たに噴き出した血飛沫はますます青年の姿を壮絶なものとしたが、順調に事が進み、自然と心が躍る。


(あとひとり、あとひとり殺れば俺は――)


 青年は三度砦の中へと戻った。

 ふたりの巡回兵を倒してもまだ、中はしんと静まり返っていた。日の出までまだかなりの時間がある。いつもと変わらない、何も起きるはずがないと誰もが信じ込んで、じっくりと寝入る腹なんだろう。 


 好都合だった。


 最後の標的である正門の門番を無力化するべく、青年は南の扉へと走り抜ける。

 村を襲う時、門番を殺すのは常に青年の役目だった。

 いつもなら闇に乗じて近付き、一呼吸のうちに敵の急所を斬り裂く。

 が、今日は勝手が違う。すでに青年は砦の内部に侵入しているのだ。

 それは即ち標的の背後を取ったことと同義であった。


 青年はこれまでと同様、音もなく南に回廊へと出る扉を開く。

 数メートル離れたところに、門番がこちらに背を向けて立っていた。

 彼の役目は砦に近づく者がいないか監視することだから当たり前だろう。

 門番のすぐ隣に、馬車の車輪のようなものが見えた。

 あれで砦の門の開け閉めをするに違いない。実際にやったことはないが、仕組みは単純そうだ。青年でも問題なく使うことが出来るだろう。


 一歩。二歩。

 青年は静かに、門番の背中へと近付く。

 これで終わりだと思うと自然と心がざわめき、青年は動揺した。

 ちゃんと気配を殺せているだろうか。

 あれだけ自信があったのに、今は心配で仕方がない。

 出来ることならばここで走り寄って襲いかかりたくなった。

 だがそれでは接近に気付かれる可能性が高くなる。問題なく倒せればいいが、失敗すれば全てが台無しだ。


 三歩。四歩。

 だからゆっくりと歩く。

 大丈夫だ、今は目の前の獲物を仕留めることだけに集中すればいいと自分に言い聞かせて。

 やり遂げた後のことなんか、今は考えちゃいけないと戒めて。


 五歩。六歩。七歩。

 ついに門番の背後に辿り着く。

 後はいつものようにナイフでその首を刈り取るだけ。

 青年はややもすると震えそうになる右手を必死に持ち上げ、そして――。


 しゃああああああああ!


 次の瞬間、青年の目の前で門番の首から鮮血が迸った。




 呆気なかった。

 本当にこれで終わりなのかと、青年は誰かに尋ねたくなった。

 が、門番は何も応えない。

 何故ならその首は切り落とされ、青年が左手に持っているからだ。


 ぐらり、と門番の体が傾く。


 その体を青年は受け止めると、静かに横たわらせた。

 傍らに首を置く。

 ここに来てようやく全てが終わったことを悟った青年はナイフをぶんと振って、その刃の餌食となった者たちの血を払った。

 自分の仕事が終われば心ここにあらずな態度が多い青年にしては、珍しい行動だ。

それだけ今回の仕事が少年にとって特別だったという現われだろう。

 

 後は松明を振って近くの森で待機している頭領たちに合図を送り、その到着を待って門を開けばいいだけ。


 青年は緊張から解放された心地よさのまま、砦の中の松明を取ってこようと振り返る。


 その時だった。


「イヌ、危ないっ!」


「え?」


 どこからか突然、少女の叫び声が聞こえてきた。

 あってはならない大声に青年は驚き、かけられた言葉の意味を瞬時に理解出来なかった。


 それがの命を奪うことになった。


 次の瞬間、青年は恐ろしく強い力でいきなり何者かにぶん殴られた。

 子供の頃、何かあるたびに頭領に顔を殴られたが、それと似た容赦ない一撃だった。


 ただ、違いが三つある。


 ひとつは顔ではなく、右肩を殴られたこと。

 おそらく相手は頭を狙ったのだろう。が、少女の叫び声が耳に入り、彼女はどこにいるのだろうとかすかに顔を動かしたのが青年にとっては功を奏し、頭ではなく右肩への打撃となった。


 もうひとつは殴ってきたのは頭領ではなく、見知らぬ男であったこと。

 どうやらベアダ兵のようだ。

 襲撃に気付かれぬよう気配を消し、物音ひとつ立てずに行動していたつもりだが、勘付かれてしまったのだろうか。

 いや、だとすれば今頃はもっと大勢の兵士に取り囲まれているはずだ。

 おそらくは偶然トイレか何かで目を覚ましたところに、青年の姿を見かけて後をつけてきたのだろう。

 青年からすれば運が悪かったと言うより他にない。


 そして、その男の左手に握られた剣からは鮮血が滴り落ちていた。

 

 そう、最後の違いは受けた暴力の違い。

 咄嗟のことで青年は殴られたと思ったが、実はそうではない。

 力任せに斬りつけられたのだ。

 

「ぐはっ!?」


 右肩にまるで真っ赤に燃えた鉄の棒を押し当てられるような鋭い痛みが走る。

 それでも青年は決してナイフを落としたりはしなかった。

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