第9話 殺す覚悟

 誰もが躊躇するような断崖絶壁をあっさりと登りきってしまう。


 少女が見せたその能力の高さは青年を驚かせた。


 次の日も、またその次の日も、念のために満潮時に登らせてみたが、毎回墜落することなく見事に登りきってみせる。

 しかも何度も挑戦しているうちに岩肌を登るコツを掴んだらしく、足を滑らせたりするようなこともなくなった。

 まさに完璧。この件について青年は、もはや少女に何の心配も抱かなくていいようになった。


 が、幾ら高い身体能力を持っていても、少女にはやはり難しいのかもしれないと青年は悩み始めてもいた。




(よし、そのまま行くんだ)


 血を髣髴とさせる赤いたんぽぽの花が咲き乱れる長閑な丘で、少女が獲物にジリジリと近付くのを、少し離れたところで青年が見守っていた。


 少女が青年のもとで訓練を受けるようになって、既に与えられていた時間の半分が経過している。

 その間に少女は青年から色々なことを教わって身に付けた。

 かつては失敗してフライパンを駄目にしたと言っていた料理も、今では青年と一日おきに料理番を担当するぐらいに上達している(もっとも失敗しないというだけで、味そのものはまだまだ勉強の余地があるのだが)。


 だが、本当に青年が少女に覚えさせなければいけない能力――少女が暗殺者である青年の、仕事上のパートナーとしてやっていくのに必要な力だけは、なかなか身につけられなかった。


 理由はふたつある。が、実質はひとつと言っていい。


 ――性格的に向いていない。


 単純な話だ。

 例えば今、少女は気配を殺して獲物に近付こうとしているが、当初はこれすらも難しかった。

 猫のようにしなやかに、音もなく動くことが出来るのに、反面、何故か自己主張をせずにはいられない性格が邪魔をする。

 これでは実戦だと青年が動きやすくなる為に、相手の気を引く囮役ぐらいしか使いどころがない。

 それではダメだ。

 青年の狙いは、、だった。


「よーし、今だぁ!」


 しかし、それもようやく半分は解決しようとしている。

 事実、今も獲物に十分な距離まで近付くことが出来た。後は飛びついて、相手に反撃の暇すら与えず速やかにその命を刈り取ればいい。

 そうすればもうひとつの問題も無事クリアになる。

 が。


「わーい。もふもふ。もふもふしてるー! 気持ちいい! カワイイ!」


 少女は襲い掛かるも、腰にぶら下げたナイフを握り締めることすらせず、胸の中でじたばたともがく獲物――ウサギを愛おしげに抱きしめた。


「……ま、またか」


 そんな様子に青年はがっくりと肩を落とす。


 気配を殺して標的に近付く術はなんとか教えることができた。

 野生動物と人間という違いはあるものの、これならば襲撃の際にも相手に見つかることなく、不意を突くことが出来るだろう。


 でも、一番重要な「標的を仕留めること」を教えるのには、今まで以上に骨が折れそうだった。


「ネ、ネコ、何度言ったら分かるんだ? そ、そいつを仕留めろと俺は言ったはずだ」


「むー、こんなにカワイイんだよ? そんなのネコ、出来ないよぅ」


「で、出来ない、じゃない。や、やらなければいけないんだよ」


 何度繰り返したやりとりだろう。


 最近になって少女はようやく獲物に近づけるようになったものの、命を奪うことは頑なに拒否する。

 人間相手ならちゃんとやるからと言うものの、青年はとても信じられない。

 何故なら命を奪い取るというのは、急にやれと言われてやれるものではないからだ。

 だからまずは畜生の類で慣れる必要がある。

 それでも人を殺れるかどうかは疑わしいというのに、どうして少女の主張を信じることが出来るだろう。


 そして青年は気付いていた。

 少女が相手の命を刈り取る際、ナイフに触ることすら躊躇っていることを。


 少女には大きすぎる、青年が使うものと同じ大型のナイフ。

 もっとも青年は今の少女と同年齢の頃から同じタイプを使っていたし、少女だってすでに死んでしまった獲物を料理する際は器用に操ってみせている。

 なのに、こと自分で仕留めるにはナイフを握ることすら出来なくなってしまう。


 ――果たしてどうしたものか。


 少女の心情に関係なく、青年には彼女の力が絶対必要なのだ。

 残された時間はもあまり多くない。

 このままでは最悪少女の育成は失敗、そうでなくても大きな不安を抱えながら事に挑まなくてはならなくなる。


 そろそろどうにかしなければ……。


「わぁ。くすぐったいよぅ」


 と、頭を悩ませる青年の耳に少女の朗らかな笑い声が飛び込んできた。


 見ると先ほどまで少女の胸の中でもがいていたウサギが、いつのまにか懐いて、頬をペロペロと舐めていた。

 野生動物にも少女に殺意が無いのが分かるのだろうか。

 その身を解放されても少女のまわりをぴょんぴょんと跳び回るウサギに、少女も楽しそうに四つん這いになって真似しはじめた。

 一匹のウサギと一人の少女が野原で踊るたびに、たんぽぽまでもが楽しそうに赤い花弁を揺れ動かす。


 長閑で、微笑ましい光景だった。

 

 ――そう、青年が無表情にナイフを構えるまでは。


「え、イヌ? なんでナイフなんて持ってるの?」


 楽しそうにぴょんぴょんとうさぎと一緒に跳ねていた少女が、俄かに身体を緊張させた。


「し、食料を手に入れる。ネ、ネコが出来ないのなら、俺がやるしかない」


「食料って……え、まさかこの子?」


 少女は前足を持って一緒に踊っていたパートナーのウサギに視線を戻す。が、すぐに再び青年を見上げた。

 表情はきっと引き締まり、睨みつけるかのようだった。


「そんなのダメだよっ! 絶対ダメッ!」


「ど、どうして? ネ、ネコも好きじゃないか、ウサギ鍋」


「ウサギ鍋のウサギとは別だよっ! この子はネコの友達だもん!」


 少女は立ち上がると、ウサギを自分の背に隠す。


「そ、そこをどいて、ネコ」


「どかない! イヌこそナイフをしまってよ!」


「……し、仕方ない」


 青年の目から光が消える。

 代わりに顔の前で構えるナイフが妖しく光った。


「と、盗賊団の掟は前に教えたな。だ、団員同士の揉め事は――」


 青年が音もなく、ナイフを突き出した。

 咄嗟に少女が自らのナイフを抜いて軌道を逸らしたから良かったものの、青年の攻撃は正確に少女の急所を狙っていた。


「し、死闘で決めるしかない。さ、さぁ、そのウサギを守りたかったら、俺を倒してみせるんだ、ネコ」


 刃物を嫌がる少女に抜かせるにはこれしかなかった。


 少女は自分の牙に怯えている。その怯えを無くしさえすれば、本命である命のやり取りに進むことが出来るだろう。

 ならば強引で、ともすれば少女に嫌われることにもなるが、青年はこうするしかないと考えた。

 生と死の境界線は、いつだってほんの些細なところで揺れ動いている。そこに甘えは決して許されない。


「ほ、ほら、俺を『まいった』って言わせない限り、せ、せっかくできたお友達を救うことはできないよ? だ、だからネコ」


 青年は冷たく言い放つ。


「お、俺を殺すつもりでくるんだ」

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