Scene7 恋心

 ここへ来て、どれほど時間が経っただろう。

 海から吹く風が少し強くなってきたようだ。

 いつの間にか僕たちは、闇夜の静寂しじまに、すっかり呑み込まれている。


 コラードに戻って、2つのシートをめいっぱい下げて、窓とサンルーフを開け放す。

 夏美がウエットシートでメイクを落とした後で、僕はワインのキャップを取り、お互いの紙コップになみなみと注ぐ。

 カマンベールチーズとチェダーチーズの封も切る。酸味の効いた香りが車内にふわりと漂い、潮風に巻かれる。

 僕たちは改めて乾杯し直し、ワインに口を付ける。封を開けたばかりで渋みが目立つが、だからといって飲めないワインではない。


「先輩」

 ワインの味を口の中で確かめているところに夏美が話しかけてくる。両手で紙コップを持ち、前を向いたままだ。

「じつは私、ほんとうにこのまま結婚していいのか、今になって分からなくなってるんです」


僕にどんな言葉を返してほしいのだろうと考えてみる。しかし、見当がつかない。

 海に目をやると、水平線上の漁り火はさっきよりも少なくなっている。


「私、焦りすぎたんですかね?」

「さっきも言ったけど、夏美は正しいと思うよ。自分の決断に誇りみたいなものをもっていいと思う」

「決断、ですか?」

 夏美はまたもや意外な言葉に反応してくる。

 彼女はシートにもたれ、フロントガラス越しに広がる星空を見上げながら話を続ける。

「これまでの人生を振り返ってみると、自分のために生きてこなかったように思えるんです。中学生の頃にすごく尊敬できる先生がいて、その先生の薦めで生徒会に入ったんですね。で、先生がおっしゃったんです。『人のために頑張らなきゃいけない。それがやがては自分のためになるんだ。自己犠牲の精神だよ』って。私、まだあの時は思慮分別もついていなくて、あー、いい言葉だなって思って素直に感動したんです。それに、その先生に恋心を抱いてたから、余計に心に染み込んだんです。考えてみれば、その言葉はこれまでの私の人生の指標みたいになっていたんですね」

 夏美はそう言った後で上体を少し起こし、ワインを飲む。

 それから軽くなったコップをカップホルダーに置き、再びシートにもたれて宝石のような星に目をやる。


「大学に入ったのも、自分のためじゃなかった。ほんとうは美容師になりたかったんです。でも父が、どうしても大学には行っとけってしつこく言うんで、その期待に応えようと頑張ったんです。自分を産んで育ててくれたのは親なんだから、親孝行しなきゃって。父にしてみても、一番上の姉は外国語の専門学校に入ってそのままアメリカに行っちゃったし、次の姉も医療系の短大でしょ。だから私には、4年制大学に入ってほしかったんでしょうね」

「なるほど」

 僕は言う。


 ワインをあおりたい衝動に駆られるが、これ以上酔うと夏美の話を理解できなくなりそうなのでほどほどにしておく。

 いや、これ以上酔うと、余計なことを口走りそうで、じつはそっちの方がはるかに怖い。彼女は僕にとって、大切な後輩なのだ。


「お父さんがあんな病気をして家に帰ったのも私。上の2人は看病する気なしですよ。どうせ私がやるだろうってはなから決めつけてるんです。もちろん私はほんとうにお父さんが心配だったから、実家に帰ったことは全く後悔してないんです。ただ、このままずっと家にいても何かが大きく変わるわけでもないし、チャンスが来るわけでもない。時間だけが経って、私はどんどん歳をとっていく。そんな未来予想図を描くと変に焦りはじめてきて、それで思い切ってお見合いしたんです」

「間違ってないよ。すべてが夏美らしい判断だと思う」

「でも、結婚を控えた今になって、これは言っちゃいけないことかもしれないけど、私、父に対して不信感をもつようになったんです。この人がいなければ、結婚を焦ることはなかったのかなって。自分の子供を産むことじゃなくて、私は親に孫の顔を見せたいと思ってるだけじゃないかって、最近はそんなふうに思うようになったんです」

 そう言って夏美は、どこまでも深いため息をつく。


 窓から入ってくる潮風が彼女の髪をなびかせる。連動してヘアリンスのかすかな香りが立ちこめる。

 外から漏れるほんのかすかな明かりが、夏美の横顔と白いワンピースを浮き上がらせている。

 静けさが彼女の息づかいをも伝える。

 僕はラジオでも聞きたい気分になる。


「あの時家に帰ってなかったら、私、中澤君と結婚してましたかね?」

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