018 お願い事、一つ

 「それにしても」


 岩を登るお仕事なんて、そんなものが有るのですね。フォクシィはそう言った。

 ジェイムズは、着替えて。準備運動を始める。最近、岩の掃除はしていなかった。フォクシィはそう言ったが、一先ず登るのに苦労は無さそうだ。


 「いえ。山の登頂を目指すクライマーは其れなりに居ます。でも、こういう岩登りでスポンサーが付いているのは、多分僕くらいしか居ません」


 未だ学生で、半人前ですが。ジェイムズはそう、返した。

 フォクシィは驚いたように、そうなんですか、と呟いて。


 「よろしければ、見せて頂いても構いませんか?」


 ジェイムズに、聞く。




 ジェイムズさんは、構わないよと言って、靴を履き始めた。不思議な靴だ。私は、裸足の方が未だ登れると思ったけれど。ひょっとしたら、私の方が登れるかも。そんな期待も、少しだけ。


 「下地が良くて助かる」


 ジェイムズさんが呟く。私はここの岩しか知らないけれど、ジェイムズさんは、もっと石とかが有って。足場が悪いところでも登るという。

 そんな危ないことが良く出来ますね――。そう聞いたら、


 「此処でも十分、危ないんだけどね」


 そう返された。

 それにしても、ジェイムズさんと話すのは、嫌いじゃない。きっと、自分の仲間を見つけ様な、そんな感覚かもしれない。

 ジェイムズさんは、幾つか岩を見て、其の一つの前に立ち止まった。


 「此れを登るよ」


 そう言った。

 でも、可怪しい。その岩を登るのは、反対からじゃないと。垂直に立つ壁には、指が掛かるところは無くは無さそうだ。でも、高い。上の端まで4メートルはあるかも。

 私は少し見て、登るのは諦めた。


 「――――」


 ジェイムズさんが、岩に触れて。そして。




 ――空気が変わる。

 何か、ひりつく様な、そんな感覚。ジェイムズさんの体が、岩に一体化して、溶けていく。未だ、登りはじめてもいないのに。永遠にも感じる様な一瞬の末、ジェイムズさんが体勢を取る。

 ああ、一瞬でも、自分の仲間と思ってしまったのは、間違いだった。この人は、私とは別モノ・・・だ。

 そうして、ジェイムズさんは一手目を切り。




 「ふっ――」


 ああ、違う。やっぱり違う。自分の登りを傍から見たことは無いけれど、それでも絶対に違う。こんな、美しさも、怖さも、私には無い。

 一手、一手。緩慢な動き。それでも、落ちる気配なんて、微塵も見せない。

 岩肌に吸い付くような手。僅かな取っ掛かりも離さない靴に、其れを完璧に使いこなす技量。何処にも置かれていない方の足だって、時に広げ、時に逆へ振り。意味なんて分からないけれど、それが正しいんだと、納得させられてしまう。


 「うん。こんな感じ」


 そう言って。岩の縁に両手と片足を掛けて。恐ろしく滑らかに、ジェイムズさんは立ち上がった。

 ああ駄目だ。何も言えない。凄かったとか、そういう一言でも良いはずなのに。口を動かすことが出来ない。


 ジェイムズさんが後ろに回った。降りて来るらしい。

 そんなときに、自分の中に、感情が一つ湧いてくる。自分でも何を考えているのか、そう思うけれど。さっきまでは、そんなこと思ってなかったのに。


 「次は、どれを登ろうか――」


 ジェイムズさんが呟く。やっぱり。駄目。この人なら、この場所の、尽くを登ってしまうだろうから。あれだけは――




 「ジェイムズさん!」


 それで。口に出してしまった。自分が思ってたよりも、大きな声が出て驚く。

 ジェイムズさんは、どうしたの、と優しい口調で聞いてくれて。だから。

 お願い事を一つ。


 「あの岩だけは、登らないで頂けないでしょうか――」


 そう言って、指した先は、一つの岩。今日私が登っていた岩。いや、ずっと前から、登ろうとして、登れなかった岩。

 ――今の私の、全て。

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