第8話 本気の告白

 数週間後。文芸同好会の部会の日。期末テストは一週間後に迫っている。部室には、俺を含め、五人の部員全員が集まっていた。


「えっと、じゃあ、批評返答会を始めたいと思います」


 部長がそう宣言し、批評返答会は始まった。

 批評返答会とは、互いが書いた作品に行われた批評に対して作者なりの回答を行う会合だ。互いの作品はあらかじめ読みあっており、それに対する批評も先に相手に渡してある。この場でお互いの作品を読んで、批評しあっては時間もかかるし、深い読み込みはできない。だから、指摘は先に済ませておいて、作者が批評に対して返答する、というのが、この部活のスタイルらしい。合理的で悪くないやり方だと思う。

 部長の言葉に応じたのは、日下部先輩だった。


「結局、今回もひびきさんは書かなかったの?」


 そう言う日下部先輩の言葉に険はない。いつものようにおっとりとした調子だ。

 その言葉に部長はへらへらと笑って応える。


「あはは。やっぱ、無理だよ。私、そういうの苦手だしさ」


 この人は本当になぜこの部活に居るのだろう……。


「まあ、ちゃんと批評はしたでしょ? それで許してよ」


 確かに部長はちゃんと人の作品は読んでいるようだった。俺の作品に対して行われた批評もそれなりに的を射ていたと思う。少なくとも手を抜いているという印象はなかった。だからこそ、余計に彼女が頑なに書こうとしないことは不思議に思えた。


「まあ、私の話はいいよ。それより、さっさと始めよう。順番は春ちゃんからでしょ」

「わかった」


 部長は無理矢理話を打ち切って、日下部先輩に返答を始めるように促す。日下部先輩の方もさほどこだわりはなかったのだろう。あっさりと引き下がり、用意していたレジュメを配り、返答を開始する。


「批評、ありがとうございました。まず、冒頭の書き出しですが、解りにくいという指摘が多かったので以下のように改稿したいと思います」


 こうして、返答会は始まった。




「以上で、俺からの返答は終わりです。何か追加で指摘はありますか?」


 部長を除く三人の返答の見よう見まねで、俺は返答をこなした。俺の返答に対して、何か追加で指摘があるのではないかと身構えたが、誰も何も言わなかった。


「何もなければ、俺の返答を終わりますが」


 俺はもう一度確認して、全員の顔を見る。誰も特に異存はないようだった。


「では、これで終わります」


 そう宣言した後、俺は思わず安堵の息を吐く。やはり、いつまで経っても人に自分の作品を批評されるというのは慣れない。そして、顔を突き合わせて互いの作品に対して議論をするということに対する緊張もあった。だからこそ、平穏に自分の番が終わったことを俺は素直に喜んだ。


「いやあ、でも今回はみんな結構いいできなんじゃない?」


 部長がいつものあっけらかんとした調子で言う。


「特に夏樹少年。君の作品は一段とレベルが高い気がしたよ」

「え?」


 自分の作品に対する批評は既に終わっていると思っていたから、部長の言葉は完全な不意討ちだった。


「あ、これは批評っていうか、感想ね。面白かったよ。ヒロインの子が実は死んでるっていう展開、私は読めなかったし、意外性があってよかったし、ラストのあたりもドキリとさせられたしね」

「……そうですね。私もそう思います」


 部長の言葉に乗ったのは彩音だった。彩音がそうやって会話に参加すること事態、珍しいことだった。


「夏樹さんの作品は特に良くできていたかと」


 そう言って、彩音はこちらを見る。そのガラスのような瞳に映る感情を、俺は読み取ることができない。彼女はいったい何を考えているのだろうか。


「そうだね。すごいとおもうよ」


 瀬尾もまた、二人の言葉に乗り、俺を誉めた。


「いや、別に……。そこまでのものじゃないですよ」


 誉めすぎだと思った。俺はこの部では貴重な新入部員。あまりきついことを言って辞められたりしても困るから適当に甘いことを言っているのだろう。そんなことを考える。

 だが同時に誉められて当然だと驕る自分が居たことも否定は出来なかった。

 俺はプロだ。

 たとえ、売れていないとしてもプロなんだ。

 俺は自分がプロであることに間違いなく矜持を持っていたし、俺の作品のことを理解しない奴は何も解らない愚者なのだとも思っていた。

 要するに俺は自分の作品が他の何よりも面白い作品であると信じていたのだ。

 それは創作を志すものならば、誰もが持っている感情だと思う。誰だって自分で書いた方がより良いものができると思うから筆をとるのだ。

 もちろん、その考えを得意げに吹聴できるほど、俺は厚顔ではなかったのだけれど、心の中ではそんな自惚れは確かに存在していたのだ。

 だからこそ、皆からの賛辞は俺にとって、こそばゆくはあったけれど、決して不快なものではなかったのだ。

 皆が俺を褒め称える中、日下部先輩だけは何も言わず黙って俺を見ていたことに、そのとき、俺は気付いていなかった。




「ねえ、夏樹くん」


 批評返答会が終わり、各自が帰り支度をしているときだった。

 俺に声をかけてきたのは日下部先輩だった。


「この後、時間ある?」

「え?」


 俺は言われている言葉の意味が解らず、間抜けな声を漏らす。


「ちょっと二人で話したいんだけど、どうかな?」


 そう言って彼女は俺に微笑みかける。

 日下部先輩の笑顔は不思議だ。どこか浮世離れして、非人間的な微笑み。まるで妖精や天使みたいだと思う。この数週間で部員とは少しは慣れたつもりだったのだけれど、未だに彼女だけは底が知れない。この人はいったい何を考えているのだろう。

 戸惑い、何も言えない俺の返答を待たずに、日下部先輩は瀬尾に向かって言う。


「いいかな? 舞香ちゃん。夏樹くんを借りても」


 そう問いかけられた瀬尾はあからさまに顔をしかめる。


「どうして、私に聞くんですか? 関係ないですよね?」


 その声はとげとげしく、瀬尾が苛立ちを覚えているのは誰の目にも明らかだった。

 ……なぜ、この人はいちいち余計なことを言うのだろうか。前に教室まで来たときもそうだが、この人は瀬尾をからかって楽しんでいるような節がある。確かに、部に俺を連れてきたのは瀬尾なのだけれど、別に俺の保護者というわけではない。いちいち、そんなことを言わなければいいのにと思う。

 日下部先輩は言った。


「じゃあ、行こう。夏樹くん」


 そう言って、日下部先輩は当たり前のように俺の手を握る。

 柔らかく、温かな手の感触に俺はどきりとし、されるがままになってしまう。そのまま、部室の外まで引っ張られる。俺は自分の鞄を手に取るだけで精いっぱいで抵抗することもできない。

 ふと、瀬尾は今、いったいどんな顔をしているのだろう。

 そんな思いが頭を過る。

 だが、俺はなぜか瀬尾の顔を見ることが出来なかった。瀬尾がもし俺を責めるような眼をしていたとしたら……。そんな考えが俺の目を瀬尾から逸らさせたのだ。

 親に手を引かれる幼子のように、俺は日下部先輩に引っ張られていく。


「春ちゃん」


 俺たちの背後にはいつの間にか部長が立っていた。


「部活でそういうの、あんまりやらないでね」


 それだけ言い残すと、部長は部室へと引っ込んでいく。

 部長にしては珍しい、錐みたいにとがった声だった。




「おごりだから、遠慮しないで」

「えっと……なんでラーメン屋なんですか……?」

「ラーメン嫌い?」

「いや、好きですけど」

「ならいいじゃない」


 日下部先輩に連れて来られた場所は意外にもラーメン屋だった。駅前の方まで来た時は、てっきり、カフェ辺りにでも連れていかれるのかと身構えていたので、正直拍子抜けした。


「それとも、カフェとかの方が良かった?」


 俺の思考を読み取ったかのように先輩は尋ねる。

 俺は言う。


「いや……変におしゃれなカフェに連れ込まれるとかよりはいいですけど」

「だよね。そうじゃないかと思った」


 日下部先輩は淡々とした調子で言う。

 ……相変わらず感情が読めない人である。

 日下部先輩がラーメンを選び、俺も同じものを注文する。

 その後、沈黙の時間が訪れる。ここまで連れて来られるまでの間も、ほとんど彼女は無言で、俺は彼女のその態度に始終ひやひやさせられていた。

 ……この人はこちらから口火を切らなければ、ずっと黙っていそうだ。

 仕方なく、俺は腹をくくって問いかけることにする。


「えっと、何故俺はここに連れて来られたんでしょうか……」

「話がしたいと思ったから」


 相変わらず感情の読めない笑みで先輩は応える。


「夏樹くんって今、彼女って居るの?」

「え?」

「彼女、居る?」

「……いませんけど」


 あまりに直裁な物言いに俺は思わず、ひるんでしまう。彼女はいったい何を言おうとしているのだろう。


「じゃあ、私と付き合わない?」

「……え?」


 世界が止まった、と思った。

 あまりの衝撃に俺の魂は肉体から抜け落ちる。俺自身を俯瞰的に見ている別の存在を意識する。何故か他人事みたいに考える。

 俺、告白されてる?


「ダメ?」


 先輩は可愛らしく小首を傾げる。前から解っていたことだけれど、先輩は美人だ。そんな先輩がするその動作は反則だ。それは一瞬で俺の理性を奪ってしまいかねない。

 俺はゆっくりと生唾を飲み込む。

 俺は誘うような目付きの先輩を真っ直ぐに見据えながら、考える。

 何かを言わなくちゃいけない。

 俺の脳味噌はフル回転を始める。一瞬の間にこれだけのことを考えたのは、後にも先にもこのとき以外にないのではないかと思えるほどに。

 俺はゆっくりと深呼吸してから言った。


「ほ、本気で言ってます?」

「当たり前だよ」


 先輩は本当に当たり前だという調子で言った。


「私の愛の告白はいつだって本気なんだよ」


 彼女はそんな台詞を恥ずかしげもなく、言いきる。


「どうかな?」


 駄目押しとばかりに彼女は俺の顔を覗き込むように尋ねる。

 正直、うん、と頷きたい自分がいなかったと言えば嘘になる。こんな美人の先輩と付き合えれば、どれだけ楽しいか解らない。こんなチャンス、俺みたいな人間には二度と訪れないかもしれない。

 だけれど、俺の中に居る冷静な自分が顔を出す。


「……なんで、俺なんです?」


 世の中にはうまい話なんてない。

 大抵のことには裏がある。

 俺は先輩の返答を待つ。


「君が自分の小説を褒められたとき、ちょっと『当然だ』って顔をしてたからかな」


 あまりに意外な解答に俺はまた絶句する。

 先輩は告白をした後とは思えないくらいに、淡々とした調子で言う。


「ひびきさんたちも言ってたけど、君の作品は私たちの中で頭一つ抜けてると思う。私にだってそれくらい解る。君の作品は素晴らしい。でも、それ以上に私には、君は自分の書くものに自信を持っているんだってところが面白いと思ったの」


 それは完全な正解とは言えなかったけれど、誤りとも言えない。俺は確かに自分の作品に誇りを持っていたし、そんな気持ちを皆からの賛辞の中で感じていたことは間違いがなかった。

 しかし、この人がそれを見抜いていたということに、俺は頭を殴られたかのような衝撃を受けていたのだ。


「私、そういうの、好きなの。意外な一面って言うのかな。君と出会って数週間経つけれど、そんな態度を見せる様なキャラクターには見えなかった」


 確かに普段の俺は自信がなく、おどおどしているという自覚はある。

 小説に向き合うときとの態度にギャップがあることは間違いない。

 小説だけが俺の最後の砦だったから。

 小説だけが、俺を、俺たらしめる何かだったから……。

 俺はそんなことを考える。


「だから、そういう人がなんでそういう風に考えたのか。それを私は知りたい。そのために、私は男の人と付き合う」


 彼女は艶めかしく笑って言う。


「それが私の求める『王子様の欠片』だから」

「『王子様の欠片』……?」

「私は造るの。『王子様』を。そのために私は欠片を集める……」


 はっきり言って意味不明だった。他の誰かが同じことを言い出したら、その人物の正気を疑うような電波的言動だ。

 だが、彼女のその言は、不思議と彼女が持つ浮世離れした雰囲気と溶けあい、幻想的とも言えるような空気を醸し出していた。

 彼女はいったい何者なんだろう。

 俺にはまるで彼女が宇宙から船に乗ってやってきた遠い異星のプリンセスであるように見えた。


「………………」


 俺はやはり何も応えることはできなかった。

 どれくらいの時間が経ったのか。日下部先輩は言った。


「それとも、他に好きな人がいる?」

「………………」


 そう問われたとき、俺の心にさざ波が立つ。


「ねえ、今、誰の顔が浮かんだ?」


 彼女は先程までの笑みとは違う、楽しげな笑みを湛えて言った。


「とっさに問われて最初に浮かんだ顔が、君が本当に好きな人だよ」


 俺はやっぱり何も答えられなかった。




「じゃあ、告白の返答は保留だね」

「……すいません」

「いいよ、よくあるパターンだから」


 二人、無言でラーメンを食べて、外に出たとき、日下部先輩はあまりにあっさりした調子で言った。

 よくあるパターン……。

 そんな言葉がひっかかって、俺は思わず問いかける。


「よくあるパターンってどういう意味です?」


 すると、彼女は平然とした調子で言った。


「私、告白するときは結構唐突だから。結構きょとんとしちゃう人多いしね」

「………………」


 俺は先輩の言葉の意味を咀嚼して、再び問う。


「そう言えば、先輩、彼氏いるんじゃ……」


 以前、一度俺は先輩の彼氏を目撃している。そのことを思い出した。


「幸人のこと? もう別れたよ」


 彼女はあまりにあっさりと言いきる。


「あれ、君が見たのは、もう一個前の彼氏の直行の方だっけ?」

「………………」


 そう言えば、この人はこういう人だって、瀬尾が言っていたな……。

 俺は一気にしらけた気分になる。

 要はこの人は誰でもいいのだろう。

 常に彼氏がいないと満足できないタイプなのか、ただ単純に惚れっぽいのか……。実際のところは解らないけれど、あまり彼女の言うことを鵜呑みにしない方が良さそうなことは確かだった。

 また俺の考えを察したのだろうか。

 彼女は何もかもを包み込むような優しい笑みを見せて言った。


「でもね、どれだけたくさんの人と付き合ったことがあっても――」


 彼女は俺を覗き込むようにして言った。


「私が今好きなのは君だよ、夏樹」


 遠く響く駅前の雑踏の音。

 俺はやっぱり何も言えなかった。




 帰り道。

 思ったよりも遅くなってしまった。夏だから日の入りの時刻も遅いはずなのに、太陽は既に沈んでしまって、世界は闇に染まってしまっていた。

 俺のゆく道を照らす電灯を見上げながら、俺は考える。

 なぜ俺は日下部先輩の告白を断ったのだろうか。

 確かに先輩は男にだらしないのかもしれない。たとえ、俺と付き合うことになっても、あっさりと俺を捨てて、別の男に走るようなことになるのかもしれない。

 それでも、俺は彼女の告白を受け入れるべきだったのではないか。

 俺の目的は取材なのだから。

 俺はそもそも青春を取材するために瀬尾の誘いに乗ったのだ。青春の中には当然、恋愛が含まれて然るべきだ。であれば、日下部先輩からの告白は、渡りに船とでも言うべきものだったのではないか。

 仮に彼女が恋愛に対して不誠実な人間であったとしても、その経験だって決して無駄にはならないだろう。むしろ、彼女のように男にだらしないくらいの相手ならば、こちらが取材のために利用したとしても、胸は痛みにくいという考え方もできる。

 考えれば考えるほど、俺には彼女の誘いを断る理由などない様な気がするのだ。


「結局は逃げか……」


 うだうだと考えながらも、その実、交際を断った理由は最初から解っていた。

 要は怖かったのだ。

 恋愛にもちろん憧れはあったけれど、それ以上に怖いと俺は思っていた。自分が曲がりなりにも恋愛小説家であるからこそ、恋愛に畏敬の念を抱いていたと言ってもいい。恋愛とは尊くも、恐るべきものなのだ。

 部活のメンバーのことを考える。


 ――そもそも、俺は友人関係というものをきちんと築けているのだろうか。


 そんな疑問が俺の中でそっと立ち上がる。一度、存在を見つけてしまったその疑問は、一足飛びで俺へと近付き、俺の首元に刃を突きつけた。


「おまえは、あいつらと仲良くできていると本当に思っているのか?」


 俺の背をつと冷たい汗が伝う。

 ――できているはずだ……。

 きちんと会話はしている……そのはずだ。


「言うべき言葉をいつも呑み込んでいる癖にか?」


 俺は思わず息を呑む。


「おまえはいつも遠慮をして、言葉を口に出さない」


 そうだ……。いつも他の誰かの言葉に、俺は無難な言葉を返すことしかしていない……。部長のくだらない冗談に言葉を返せず、日下部先輩のからかいにたじろぎ、彩音には、まともに声をかけることすらできていない。

 俺は自分がどこかまともな人間になれたようなつもりでいた。

 だけど、それは幻想だったのかもしれない。

 そして、中学時代のことが頭を過る。

 あのときの足枷を、俺は未だに外せないでいる。

 やっぱり、俺は臆病でつまらない人間だ。

 そうやって自嘲して笑う。

 俺の行く先を照らす電灯は調子が悪いのか、燃え尽きようとする星のようにちかちかとまたたいた。

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