#薄闇の中で

薄闇の中で

 リビングで住宅情報誌をめくりながら、髪が乾くのを待つ。

 テレビからはバラエティのエンディング曲。BGM代わりだったが、なんだか面白くなくて電源を切る。真っ暗になる画面と、訪れる静けさ。時計の針は夜九時を指そうとしていた。

 広い部屋にひとり。よくあることではあるが落ち着かない。自室としてあてがわれている部屋に引っ込めばいいのだけれど、上司の帰りがよっぽど遅くならない限りは出迎えるようにしていた。どうせ寝るにはまだ早いんだし。


『今日、友達に会いに行くから遅くなる』

 そう言った上司は、それでも晩ご飯は食べると付け加えた。友達と食事をともにしないなら、帰りはそれほど遅くないはずだ。予想が当たれば、多分そろそろ。


 カタン


 案の定。

 小さく小さく、玄関のほうから音がした。


――さて、給仕はご主人様のために食事を温めることにしましょうか。


 立ち上がってIHの電源を入れる。玉ねぎスープの鍋はすぐに音を立て始めた。

 けれど。

 リビングのドアは一向に開く気配がなく。

 玄関からは、なんの物音もしなかった。


 気のせいだったか?

 ひとまずIHの電源を切り、なんだか気持ちが悪いので、玄関の様子を見に行くことにする。


 薄暗い通路を少し歩くと、玄関ドアの前に影が見えた。

「……城ノ内さん?」

 明かりもつけずに座り込んでいるその影は、当たり前だけれど、紛れもなく上司のもの。

 とりあえず、ほっとしたけれど。

「ただいま」

 私に気づくと、そう短く言葉を口にする。立てた片膝に腕をのせて、顔も上げずに。

「……気分でも悪いんですか?」

「まぁ、ちょっとね」

「お水持ってきましょうか?」

「いや、いいや。ありがと」

 そう答えた彼は、うなだれたまま。


 なんとなく拒絶する空気を感じながら、それでも一歩、足を進める。

――あぁ、

 そして、気づいた。この、微かな匂いは。


 ひょいとのぞき込めば、やっぱり襟元には、仕事中にはなかった、黒いネクタイ。

『友達に会いに行く』

 それはおそらく、最後のお別れに――


――そうか。

 初めて気づく。

 友達が多いということは、それだけ失うことも多いということなのだ。


「…………」

 かける言葉が見つからなかった。

 だって私には、友達を亡くした経験がない。


 どうしたらいいのかわからなかった。

 慰めの言葉なんて思いつかない。

 様子を見に来たことを少し後悔する。こんなところで座り込んでいるということは、放っておいてほしかったんじゃないのか。けれど、だからといって今さらこの場を離れることも出来ない。


 傍らに腰を下ろす。彼は何も言わなかった。

 息苦しさと歯がゆさに、小さく息を吐く。

 この人なら、こんな時にも相手に合わせた最良の対応が出来るのかもしれないけれど。


――無理だ、私には。


 だから。


「……何やってんの」

「慰めてみようかと」


 だから私は、上司の真似をした。

「泣いてもいいんですよ?」

 手のひらに触れた髪の感触は、意外と心地よいものだった。

 くすりと息を吐き出して、彼が顔を上げる。

「泣かないよ」

 困ったような顔で笑う彼に、

「遠慮しなくても」

 からかうように笑い返してみせると、

「そう?」

 悪戯っぽい声とともに、ふわりと空気が動いた。


「――っ」

 とん、と。

 肩口に当たった彼の額。

 驚いていると、見えなくなった表情の代わりに、静かな声が言った。


「じゃあ、二分だけこうしてて」


 結局泣くつもりはないらしいけれど、通常モードに戻るには、少し時間が必要らしい。

 背中へ添えられた手には、逃れようと思えばすぐにでも出来るくらい、力が入っていなかった。

 距離が近くなって、ほんの少しまた違う匂いがする。

 お酒の匂い。通夜振る舞いで断り切れなかったんだろう。

 珍しく気弱なのはそのせいもあるのかもしれない。


「――いいですよ」


 彼が顔を上げるまでの二分間、私はただゆっくりと目の前の髪を撫で続けた。


     *


「あー……ごめん、ありがと」

 バツの悪い顔に、再び笑顔を返す。

「大丈夫ですよ」

 無意識に、ふふ、と声が漏れた。

「あぁ、ごめんなさい」

 友人を失って傷ついている人相手に、不謹慎だと思われたろうか。

「……でも、なんか安心しました」

「安心?」

 身体が離れると、彼に続いて立ち上がる。

 パタパタとスカートをはたいて、一度傍らの彼を見上げた。

「んー、なんて言うか、……城ノ内さんも人間だったんだな、って」

「なんだそれ」

「言葉通りですけどね」

 苦笑する顔に背を向けて、

 まだ少し元気のない表情には、気づかないふりをする。


「城ノ内さん、もう眠いでしょう? ご飯どうします?」

 問いかけは、出来るだけ、いつもと同じトーンで。

「食べる」

「……温めてる間に寝ないでくださいね」

「努力する」

 薄闇の中、光に向かって足を進める。

 重苦しい空気は既になく、なんでもない、軽い会話が日常に導いてくれる。


「あ、そういえば」

 リビングのドアを開けた瞬間、思い出した。

「ん?」

 眩しさに目を細めながら、振り返る。


「――おかえりなさい。城ノ内さん」


 言い忘れていた言葉を差し出すと、きょとんとした顔はゆるやかに、いつも通り優しい上司の顔に変わった。


「ただいま、あかりちゃん」


 くすりと漏れる息と、頭に感じた手のひらの重み。

 ――これが、日常の象徴だ。

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