#解放
解放
長かった髪を切り、「おしとやかなお嬢様」を演じるのもやめた。
今までの自分にはさよなら。この家を出て、自分の好きなように生きよう。西園が「キズモノ」を不要と判断したなら、私はもう自由なんだから。
きっと『目的』さえ達成出来れば、私は真っさらな自分になれる。
――そう、思ってた。
「うん、ありがとう。またね」
久々に聞いた兄の声。落ち着いた低音の余韻が、不通音に掻き消される。
携帯を握りしめたまま、その場にへたり込む。
「……どうしよう」
口唇から漏れたのは、自分のものとは思えないほど、か細い声だった。
*
「あかりちゃん、何か食べたいものある?」
十一月二十日十一時四十五分。ランチの賭けに負けた上司が聞いてくる。
賭けは頻繁というわけでもなかったが、ここ数日は連続してランチを共にしている。その理由はわかっていた。
「いえ、特に」
無意識に、軽く腹を押さえる。正直、食欲はない。
「そか。じゃあ今日は隣のうどん屋にでもしとこっか」
「はい」
お金には余裕がありそうな上司だが、いつでも高価なランチというわけではない。前回、私が負けたときのリクエストは牛丼だった。おごる側の私に気を使っているのかと思ったが、食べている時の顔はやたら幸せそうだったので、単純に食べたかっただけなのかもしれない。あまりこだわりはないらしく、ランチは幅広い中から本当にランダムに選定された。
「月見うどんセットと、ミニ玉子とじうどんで」
隅っこの小さな席に向かい合わせで腰掛け、手早く注文を済ませる。店員が奥へ引っ込んだのを横目で確認すると、上司はまっすぐに私を見た。
「あかりちゃんさ、」
相変わらず、彼と向き合うのは苦手だった。
「最近、なんかあった?」
「……いいえ? なんでですか?」
ここ数日、上司が私をランチに誘い続けた理由。やっと口に出されたその質問は、私にとって想定内のものだった。眉一つ動かさずに答えられる自信があったし、実際及第点の反応を返せたと思う。
それでも、真正面から問われると、やっぱり少しだけ心がざわついた。
「ここしばらく顔色悪いよ。それに痩せた」
「深夜番組見てて寝不足なんですよ。あと、体型観察しないでください。セクハラで訴えますよ」
冗談めかした返答に、彼は軽くため息を吐く。
「そう。話したくないなら仕方ないけど」
「だから、何もないですって」
「……じゃあ、今はそういうことにしとく。何かあったら、いつでも言って」
そう言って少し寂しそうな顔をする上司へ、心の中で詫びながら、
「はい」
わずかに笑って答える。
運ばれてきた玉子とじうどんは、味がしなかった。
*
「あかりちゃん、今日定時後ちょっと付き合ってくれない?」
契約上の終業時刻まであと十五分。作成中の報告書もラストスパートに差し掛かった時、唐突に上司が言った。
「……はい?」
「なんか用事ある?」
「いえ、特には」
「じゃあお願い。ちょっと調査関係で行きたい店があるんだ」
その店は出来たばかりの小さな居酒屋で、店主ひとりで切り盛りしているため『友達』もいない。今回、その店主がおそらく情報を持っているのだ、と。
「でも、ひとりで行ったほうが動きやすいんじゃないですか? カウンター席だけの店ならそのほうがご主人と話す機会もあるでしょうし」
「俺が酒飲めないの知ってるでしょ? さすがに初めて行く居酒屋にひとりで酒なしってのはちょっとね」
「あぁ、なるほど。そうかも」
「だから、出来れば数日付き合ってくれると嬉しいんだけど。もちろん手当は出すから」
「んー、まぁ、いいですよ。特に予定もありませんし」
仕方なく引き受ける――そんな印象を与えるようなセリフを返しながら、私は確かにホッとしていた。
今は、あまりひとりになりたくない。
「ありがとう」
こちらの思惑も知らずに、彼は短く礼を言い、いつものように笑った。
カウンターに並んで腰掛け、上司の頼んだ胡麻豆腐をつつきながら日本酒を口にする。
オープンしたてであまり知られていないのか、他に客はいなかった。
「あかりちゃん、強いんだね」
ウーロン茶片手の上司が、感心したように、そしてうらやましそうに笑う。
「……いや、まだ半合も飲んでませんよ」
「いや、前に徹から聞いたんだよ。結構飲んでたのに顔色変わらなかったって。うらやましいよ。俺にとってはそれでも十分な量だし」
そう言って、こちらの手元に視線をやる。『それでも』の『それ』がとっくりを指すのか、半分になった中身を指すのか、それとも手に持ったお猪口を指すのかはわからなかったが、どれであっても感想は同じだ。
「城ノ内さん、ホントに半端なく弱いんですね」
からかいながら、私はお猪口を空けた。無理矢理飲ませてやりたい気分になるが、仕事に支障が出そうなのでさすがにやめておく。
「…………」
小さなとっくりから透明な液体を注ぎながら、目の前に並べられた料理を眺める。
白菜のクリーム煮、茶碗蒸し、ポテトサラダ、かぶら蒸し。そして今自分が箸を付けた胡麻豆腐。
「すみません、玉子雑炊お願いします」
上司がメニューを見ながら、また店主に声を掛ける。
――……気付かれてるな。
推理は苦手、とは言うものの、これでも探偵事務所の所長だ。情報収集能力には及ばないにしろ、観察力に関しても、彼は申し分ないものを持っている。『友達』を作り続けてきたこともあってか、鋭いところは本当に鋭い。
テーブルにあるのは、弱った胃には優しそうな料理ばかりだった。
酒は望ましくないけど、頼まないわけにはいかないから、一合だけ。飲み足りないが、まぁ体調を思えば正しい判断なんだろう。
結局、店主とはひとことふたこと会話しただけで、私たちは店を後にした。
暗い通りをふたり並んで歩く。
「あんまり話せませんでしたね」
「いいんだよ。ふたりで何回か通ってから、ひとりで行ったら、『今日はおひとりですか』なんて会話のきっかけになるからね。ふたりで来てるときにあんまり話しかけてもおかしいでしょ?」
「あぁ、なるほど」
「それより、あかりちゃん」
「はい?」
「よく出来ました」
唐突に、頭を撫でられる。
「……なんですか」
これ、癖になってないか、最近。
「ちゃんと食べられたね」
「…………何がですか」
無駄だとわかっていても、思わず抵抗してしまう。
「お昼のうどんも吐いたでしょ。ゼリー飲料だけじゃそりゃ痩せるよ」
「…………っ」
ランチから戻ってトイレに立った直後、こっそりゼリー飲料のパッケージを捨てたのをしっかり見られていたらしい。そこまで材料が揃っていれば、いくら推理の苦手な上司でも、正しい答えに辿り着く。
何も言わない私に、彼がまた少し寂しい顔をした。
「家まで送るよ」
お互いひとことも話さないまま、タクシーは自宅まで辿り着く。
タクシーを待たせて、アパートの部屋の前まで、彼は付いてきた。
鍵を差し込み、玄関のドアを開ける。
「じゃあ、おやすみなさい」
笑顔で挨拶する私に、ん、と軽く頷くと、
「あかりちゃん、もう一回言うね」
ゆっくりと、言い聞かせるように言うその言葉は、静かに強く響く。
「何かあったなら、いつでも言って」
「ありがとうございます。でも、私は大丈夫ですよ」
――彼は、おそらく勘付いている。
ただ、確信が持てる情報がないから、口に出さないでいるだけ。
でも、それなら大丈夫だ。
今回の答えも、彼のネットワーク上にはないんだから。
ドアを閉めて数分。また、携帯が振動する。
結局、食べた食事は排水口に消えていった。
*
翌日、午後十三時。今日のランチは珍しく、ふたりともコンビニ謹製だった。
ゼリー飲料のゴミを鞄にしまい、目に入った携帯を代わりに取り出す。
ロック画面を確認して、不在着信の表示がないことに安堵した。この時間に鳴るわけないのはわかっているはずなのに。
身体が限界に来ているのか、朝からずっと目眩がする。
「…………」
何か言いたそうな目でこちらを窺う上司。携帯を気にしていることを気付かれたのかもしれない。
――持ってたほうがよさそうだ。
カーディガンのポケットに滑り込ませるも、大きすぎる服の弊害で重心が下過ぎて気持ち悪い。悩んだ末、携帯はシャツの胸ポケットに移した。出来れば見えないほうがいい。
「…………っ」
顔を上げると、窓からの光に目が眩んだ。午後の陽射しもこの事務所ではそれほどきつくないはずなのに。それに加えて、強い眠気。夜は眠りたくても眠れないのに、なんで仕事中に。
「城ノ内さん、お茶には早いですけど、紅茶いりませんか?」
「ん? 珍しいね」
「はい。でも、なんか、眠くて」
夜更かしのせいかな、と付け加えて、苦笑する。
「じゃあ俺が淹れるよ」
笑いながら席を立とうとする上司。
「いや、それは駄目です。私が飲みたいんだから私が――」
慌てて立ち上がろうとした瞬間。
「あかりちゃん!!」
世界が、真っ白になった。
*
覚えているのは、自分の名を叫ぶ上司の声。
意識が途切れたのは、おそらくほんの数秒。
上司に抱えられて、仮眠室まで連れてこられる。ソファに寝かされ、ふくらはぎの下に置かれる折りたたんだタオルケット。そっと前髪に触れられる感触に目を開けた。
「救急車呼ばなきゃね」
「……めて、ください。だい、じょうぶです」
仰向けの身体を彼のほうへ傾け、首を横に振って、精一杯拒否する。
彼は、またひとつため息を吐いた。
「じゃあ教えて。何隠してる?」
「……っ、別に何も」
「嘘だね。寝られないのも、食べられないのも、そのせいでしょ?」
「違、」
「そんなボロボロになってんのになんでなんも言わないの?」
「私は……っ、」
「あぁ、もういいや」
彼は心底面倒くさそうにそう言うと、脅すように私の顔の前に手をついた。
「あかりちゃん――襲われたくなかったら、話して」
見下ろしてくるその表情は、冷たい笑み。
「……何、馬鹿なこと言ってるんですか」
「本気だよ」
今度は場違いなくらい優しく微笑んで、私の髪を弄ぶ。
「抵抗出来るならしてもいいけどね。どうする?」
言葉とは裏腹に、到底本気とは思えなかった。その言葉に怯んで、私が話すことを期待している。今、この場で私が話し始めれば、すべては冗談で済むんだから。でも、――それでも言えない。
「…………」
ゆっくりと目を閉じる。ひどい眠気がまた思考能力と意識を押し流していく。
混濁していく意識の中で思いついたのは――
「あかりちゃん?」
静かに答えを求めるその声に、目を開く。
思いついたのは、とんでもなくひどい解決策。
彼を見上げ、微笑んで。そして、両腕で彼を捕らえる。
「…………っ!」
自分の口唇を、彼の口唇に押しつけて。
「――いいですよ。どうせなら、めちゃくちゃに犯してください」
かすれた声で口にした、これが最後の解決策。
上辺だけじゃなく、本当にキズモノになってしまえば、問題はすべて解決するんだから。
彼が、眉をひそめる。
軽蔑を込めたその眼差しに、私は本気で彼を怒らせたことに気が付いた。
*
「――――っ!」
頭の上で両手を抑えつけられる。相手は右手一本のはずなのに、まったく動かせなかった。
手首が痛い。乱暴さに、彼の苛立ちが見える。
強く目を閉じる。怖い。けれど、不思議と不快感はなかった。
口唇に再び触れる、彼の感触。
もっとまともな状況なら、この瞬間、私は幸せを感じていたのだろうか。
「……っ」
左胸に、手が触れる。途端に羞恥心が首をもたげ、頬に血が上るのがわかった。
心臓の音がうるさくて、彼に伝わってしまうんじゃないだろうかと不安になる。
「……?」
違和感に目を開く。
彼の口唇が離れ、抑えつけられていたはずの両手が動く。それに何かが――
戸惑いながら、身を起こす。服はほとんど乱れていなかった。
そして、目に入ったのは、難しい顔で手にしたものを眺める城ノ内紘の姿。
「――――
それがなんなのか理解した瞬間、思わず叫ぶ。
彼が手にしていたのは、胸ポケットから抜き取られた私の携帯。
「返してください!!」
取り返そうと伸ばした手は彼に掴まれ、届かなかった。
「キスも乱暴も黙って我慢するけど、携帯見られるのは『嫌』、か。よっぽど見られたくないものが入ってるらしいね」
薄笑いを浮かべた彼のセリフにハッとして、少しだけ冷静さが戻ってきた。
――落ち着け。何取り乱してんだ。
「……ありませんよ、そんなもの」
大丈夫。不都合なメールや履歴はすべて消したはずだ。
「ちょっとびっくりしただけです。見たければ、どうぞ好きなだけ」
「じゃあ遠慮なく、そうさせてもらうよ」
十数秒前まで最低なラブシーンを演じていたとは思えないほど涼しい顔で、彼は笑う。
大丈夫。消し忘れなんてない。それでも緊張感が汗となって、手のひらに滲んだ。
どこまでチェックしたのか、しばらく画面を眺めると、彼は諦めたように携帯をこちらへ放り投げた。
「ないね。抜かりないお嬢様だ」
「だから、最初から何もないんですって」
「あかりちゃん」
彼は静かに、私の名前を呼ぶ。その声は、黙らせるように、いさめるように、どこか冷たく。
それでも、怯むわけにはいかない。黙ったまま、まっすぐに、その目を見つめ返す。後ろめたいところは何もないと主張するように。
その態度をどう取ったのか。くすりと、彼が苦笑する。
「賭けをしよう」
飛び出してきた提案は、想定外のものだった。思わず眉を寄せる。
「……賭け?」
「そう。たった今から俺は全力で君を調べる。調査期間は二十四時間。君の悩みを当てられたら俺の勝ち」
「……駄目だったら?」
「その時は君の勝ちだ。俺はもう何も聞かない。でも、もし俺が勝てたら、」
その言い方には違和感があった。自信のない『勝てたら』という言い方は、彼にしては珍しい。
確信は持てなくとも、想像は付いているはずだ。おそらく、今この場でも言い当てられるくらいに。
それでも、この条件で彼が勝つのは不可能だ。例え彼が正解を言い当てようとも、証拠を掴めない限り、私が否定しさえすればそれは不正解になってしまうんだから。
「その時は、ちゃんと話してほしい」
「……矛盾、してます。正解がわかった後なら、私が何かを言う必要はないんじゃないですか」
「それでも、君の口から教えてほしい」
「……何もありませんよ」
「それなら問題ないよね。何もないなら負けることはないし、負けることのない賭けなら降りる必要もない」
ため息を吐いて、苦笑する。
「……わかりました」
結局、私はソファから立ち上がれず、上司は業務続行不可能と判断した。
急ぎの仕事がなかったのは幸いだった。臨時休業の留守電を設定し、彼と共に事務所を後にする。
「城ノ内さん、いいです。降ろしてください」
病院が嫌なら近くに知り合いの医者が居るから、と彼の背に負われる。
力の入らない身体。わずかな抵抗として、彼の背を叩いた。
「まともに歩けないくせに何言ってんの」
当然のようにびくともせず、彼はカラカラと笑い飛ばす。
エレベーターを降りると、ビルの前を行き来する通行人と目があった。
「でも、だって、恥ずかしい……!」
「あかりちゃん。……あんまりうるさいと、お姫様だっこに変更するよ?」
「……それは嫌です。すみませんでした」
タクシーをつかまえて数分。着いたのはパッと見、医療関係とは思えないような可愛らしい建物。
掲げられた看板の診療科目の欄には「心療内科」の文字があった。
上司が連絡を取ってくれたらしく、診察時間外にもかかわらず、白衣を着た男性が招き入れてくれた。
「時間掛かるから、寝ててください」
点滴の雫がぽたりぽたりと落ちるのをぼんやりと眺めながら、ふと、上司の姿が見えないことに気付く。
わずかに身を起こして辺りを見回す私に、佐藤と名乗った医師は、
「城ノ内ならロビーで電話中だよ」
少し上司と似た、より安心感のある笑顔で言った。
「そう、ですか」
私のことを調べているのか、それとも別件か。
二十四時間後にどんな結果が待っているのか。今はただ、何も考えずに目を閉じる。
*
『昨日は何故出なかったんだ』
電話を取った瞬間、いきなりの威圧的な話し方に、息が詰まる。
「父さん。ごめんなさい。もう少し待ってください」
『いつまでも何をしてるんだ。早く帰ってきなさい。先方を待たせるんじゃない』
「……父さん、私、」
『せっかく、お前みたいなキズモノをもらってやるって言ってくれてるんだ。失礼だと思わないのか』
「……っ、」
手も声も、震えが止まらない。それでも、言わなきゃならない。色んなものを振り絞って口を開く。
「父さん、私、まだ結婚はしたくない」
『お前の意見など聞いていない』
「…………っ」
『今まで育ててやったんだ。少しは役に立ってみせろ』
兄から電話があったのは十日前のことだった。
『また勝手に結婚の話が動いてるから気をつけて』
兄の得た情報では、今度の相手はベンチャー企業の社長で、二十以上も年上だと。
『俺もさすがにそんな弟が出来るのは勘弁願いたいし、阻止したいと思ってる。けど、親父は話通じないし、今度は相手も乗り気だ。正直まずいと思う』
最後は、自分の身は自分で守れ、と。そう言って、警告の電話は終わった。
『あと二日やる。いいな。それまでに帰ってこい』
「……嫌です。帰りません」
震える声で、自分の身体ごと断ち切るように、はっきりと。
『……そうか、なら仕方ない』
「え?」
その言葉に、一瞬、意思が伝わったのかと、錯覚した。
『入籍はこちらでしておく。出来れば自分の手でサインをしてほしかったがね』
「――――」
『もちろんお前もそのうち連れ戻すから覚悟しておきなさい』
「…………ぁ、」
『もう一度言う。二日だけ待ってやる。せめて無駄な手間を掛けさせるな』
言葉にならない叫びは、無機質な不通音に遮られた。
*
ベランダから差し込む朝の光で目を開ける。また、眩しさに目が眩む。
それでも点滴が効いたのか、昨日までに比べれば身体は軽かった。
眠気を振り払うように伸びをして、なんとなくそのまま天井を見上げる。
――逃げられない。
大人しく実家に戻るべきなのか、この体だけでも逃げるべきなのか。
もう、わからない。
残された時間は、あと二日。
せめて、大切な日常を、いつも通りに過ごしたい。
事務所のドアには、まだ臨時休業の札が掛かっていた。
「おはようございます」
「おはよう」
手元の携帯から目を離さないまま挨拶を返し、一通り何かを入力し終わってから、上司が顔を上げる。
「ん。まだ顔色悪いけど、昨日よりはマシになったかな」
「おかげさまで」
「無理しないようにね。寝られそうなら仮眠室使っていいから」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
貴重な時間を睡眠に費やすなんてもったいないことは出来ませんよ。心の中でそう呟く。
「……君の大丈夫は信用出来ないんだよ」
「あなたの妻役としては適任でしょう?『妻はすぐ無理をするので』なんてね」
おどけた口まねに、彼が困った顔で笑う。
「そういえば言ったね、そんなこと」
「私は、一生忘れません」
その言葉は、意図せず、噛みしめるような言い方になった。
「……あかりちゃん」
「はい?」
「いや、なんでもない。臨時休業中だけど、出来る仕事はしてもらっていいかな?」
「そのつもりですよ」
いつもと同じように報告書を作って、いつもと同じように上司と十時のお茶をする。
今日の茶菓子は、上司が冷蔵庫から取り出したコンビニのレアチーズケーキ。
この事務所の空気は、こんなにも穏やかだっただろうか。
初日に飲んだのと同じ、上司の作った牛乳たっぷりの甘いミルクティを少しずつのどに通しながら、辺りを見回す。ファイルが詰まった書類棚、箱買いしたボールペンを仕舞った備品棚、応接スペースのパーティション。もちろんすべてに見覚えがあり、今となっては愛着があった。
馬鹿な感傷に浸って、苦笑する。
「…………」
上司は何か言いたそうな顔で、そんな私を観察するように眺める。
ただ静かに流れる沈黙。
突然、それを打ち破るように、携帯の振動音が響く。
画面に触れてその内容を確認すると、上司は静かに、私の名を呼んだ。
「あかりちゃん」
「……はい」
ついにその時が来たのだと、直感する。
「ちょっと早いけど、賭けの答え合わせ、お願い出来るかな」
「どうぞ」
「君が悩んでいる原因は、――実家で決められた結婚話だね」
新たな婚約者の名前、年齢まで。西園の関係者でも『友達』にしたのか、淀みなく告げられる調査結果は、事実と寸分違わないものだった。でも、手ぶらで語られるそれらには、やはり何の証拠もない。
「……不正解ですね。そんな話があったなんて、知りませんでした」
「いや、君は知らされていたはずだよ」
「何を根拠に?」
「俺に情報をくれた人物が君に直接連絡したから。君の様子がおかしくなったのと時期も合致する」
「……っ」
「昨日、君のお兄さんと会ってきた。彼の証言は、根拠としては十分だと思うけど」
――そうか。
心の中で舌打ちする。ネットワークに欠落部分があるなら補えばいい。至極簡単な方法だ。彼が実行に移すのは計算外だったけれど。
「兄さんが、嘘ついてるかもしれないでしょう?」
「彼にはそんな嘘をつくメリットがない。心配してたよ」
「私は、知らなかった。知ってたとして、家を出た私になんの関係があるんですか? ショックを受ける必要ないでしょう? 放っておけばいいんだから。悩みにはなり得ません」
負けは認められない。支離滅裂な言い訳をしているのはわかっていても。
「まぁ、俺もそう思ってたけどね」
諦めの悪い相手にため息を吐いて、彼は自分の携帯の画面に触れる。
プッ、とボタンを押す小さな音から始まったそれは、事務所内に響き渡った。
『せっかく、お前みたいなキズモノをもらってやるって言ってくれてるんだ』
「――――なっ、」
「これが何か、わかるよね?」
「どう、いう」
「まだ知らなかったって言い張る?」
「なんで、そんなものが」
「盗聴したから」
面白くもなさそうに、彼はあっさりと言い退ける。
「便利な時代だよね。ちょっと携帯に仕込んでおくだけで、簡単に手に入る情報もある」
『ないね。抜かりないお嬢様だ』
昨日のセリフが頭の中で繰り返される。
あの時投げ返された携帯には――
奥歯が軋む。言い逃れは、出来ない。うつむく私に、
「俺の勝ちでいいね」
彼は短く、自らの勝利を宣言した。
「……はい」
*
精神的負荷が掛かったからか顔色が悪いということで、仮眠室へと場所を変え、ソファに座らされる。
教えて、と彼は言った。
「なんで言わなかった? 俺、君にとってそこまで頼りない存在?」
「……だって、城ノ内さんには、関係ないから。実家のことで、迷惑掛けたくなかったし」
「十分掛けてるでしょうが。倒れるわ、誘惑するわ。一番ムカつくのは勝手に居なくなるつもりだったってことだけど」
「…………ごめんなさい」
しおらしく謝りながら、彼が口にした『誘惑』という言葉に今さら恥ずかしくなる。
「それで、どうするの?」
「……わかりません。でも、戻るしかないのかなって。ここにいたらまた迷惑掛けるかもしれないし」
「実家に戻りたい?」
「まさか。けど、逃げたとしても、どのみち結婚はさせられます。私の居ないところで、勝手に」
私の言葉に、上司は、ふむ、と少し考え込む仕草をする。
「じゃあ、単純に聞くね」
「……? はい」
「あかりちゃん、君はどうしたい?」
「……え?」
「可能とか不可能とかそういうの抜きでさ。単純な、君の希望を聞いてるんだよ」
――私の、希望?
息が詰まる。それは実家にいる間、私が持つことを許されなかったもの。
自分の意識を、胸の中に向ける。
自分がどうするべきかではなく、自分がどうしたいか。
その答えは、
あの電話がなければ叶うはずだった、
十日前のあの日から考えないようにしてきた、
ささやかな願いは、ただ。
「戻りたく、ない。――私、ここに、居たいです」
急激に、視界がぼやける。
喉に何かが詰まったように声が上手く出せなくて、私はやっと、自分が泣いていることに気が付いた。
「ん。よく出来ました」
そう言って、また頭を撫でられる。彼はそのまま、私の頭を自分のほうへ引き寄せた。
「よしよし」
そんな言葉と一緒に、背中をぽんぽんと叩かれて。
完全な子供扱いに、嗚咽の代わりに苦笑が漏れた。なんだこの、昨日との差。
顔を上げた私から身体を離して、彼はソファから立ち上がる。
そして、こちらを見下ろして悪戯っぽく笑うと、うやうやしく一礼した。
「園田あかりさん。そのご依頼、城ノ内紘が、確かに承りました」
「……え?」
頭を戻し、ちらりと事務所の方を流し見る彼の目には、初めて見る好戦的な光が宿っていた。
「手段は選ばない。戦闘開始だよ。あかりちゃん、立てる?」
「あ、はい」
もちろん万全ではないが、昨日ほどではない。歩くくらいは出来る。
というか、多少ふらついて転ぼうとも、昨日と同じ思いはしたくない。
彼はまた、私の手を引いて事務所を出ると、鍵を掛け、足早にエレベーターに乗る。
「ちょ、どこ行くんですか?」
「優先順位は、まず役所」
「役所?」
「ったく、何悩んでんだか。一年探偵やってたんでしょ? 婚姻届の不受理申出書って聞いたことなかったの?」
「知りませんよ。尾行要員だったんですから。なんですか、それ」
「ストーカー対策とかでは使うことあるんだけどね。自分が知らない間に婚姻届出されるのを防ぐ、まさに今の君のためにあるような制度」
「えっ」
タクシーをつかまえて役所へ急ぐ。
役所は混んでいたが、それでも三十分後、つつがなく手続きは終了した。
*
事務所に戻ると、彼は一旦キッチンスペースに引っ込んだ。
数分後、渡されたのは甘めに調整したミルクココア。
「飲んどいて。お昼後回しになるし、これから、ちょっと消耗するだろうから」
「? はい」
勢いに押され、口を付けた液体の熱さに、慌ててカップから口を離す。
その様子を見て、彼がふっと吹き出した。
「あぁ、ごめん。急がなくていいよ。飲み終わるまで待つから」
「……すみません」
自分のために動いてくれている彼の邪魔をしているようで、なんだか落ち込む。
ゆっくりと、表面に息を吹きかけながら、ちらりと彼の様子を窺う。
――次は何をするつもりなんだろう。
あっけなく終わった第一フェーズは、驚くほどの安心感をもたらしてくれた。
彼が言うように、情報は力になる。そして、無知は罪だ。
また、昨日の自分の発言を思い出して恥ずかしくなる。何が解決策だ。
頬の熱を手で覆い、後でちゃんと謝ろう、と心に誓う。
「あかりちゃんさ、」
携帯を眺めながら、彼がこちらに呼びかける。
「はい」
「男運悪いよね」
「……は?」
「俺も含めてだけど。お兄さん以外、周りの男、ろくでもない奴ばっかりだなって」
自嘲気味に笑う彼の顔からは、一体誰のことを言っているのか、残念ながら、読み取ることは出来なかった。
十二時半。ココアを飲み干し、一息吐くと、
「準備、いいかな」
隣に立った彼が、こちらを見下ろして言った。
「……はい」
何が起こるのか想像も付かない、そんな緊張感。
「あかりちゃん、携帯貸して」
「? はい」
彼は、胸ポケットから抜き出して託したそれを、ちょいちょいと操作しながら自席に戻る。
机に置き、手を離した数秒後、切り替えられたスピーカーから流れ始めたのは、呼び出し音。
――まさか。
五回目のコールで、呼び出し音は途切れた。
『なんの用だ』
代わりに聞こえてきたのは、心臓に突き刺さるような、威圧的な声。
『帰ってくる相談なら、迎えくらいはやらしてもいいぞ』
「いや、あいにくそんな話ではないんです」
柔らかく笑みを浮かべながら、彼が口を開いた。
『……誰だ』
「あぁ、直接お話しするのは初めてでしたね。どうも初めまして、――穂積紘と申します」
一瞬、耳を疑う。彼が自分からそう名乗るのを聞いたのは初めてだった。
『……あ?』
「穂積紘です。あなたの義理の息子になるはずだった」
『どういうことだ。どのツラ下げて電話してきた? お前のおかげで娘は、』
「はい、その娘さんの件でお話がありまして」
『……この番号から掛けてきたということは、あかりもそこにいるのか』
「もちろんです。彼女は僕の優秀な部下ですから」
字面的には丁寧だが、その口調は相手を小馬鹿にしているとしか思えないものだった。もっとも、どんなに穏やかな話し方をしても、相手の反応は大して変わりなかっただろうけれど。
激高する相手に対し、彼はあくまでもさらりと話を進めていく。
『娘を返せ。キズモノでもいいという人がやっと見つかったんだ』
「お断りします」
『娘の幸せを邪魔する権利がお前にあるのか!』
叫びだしたい衝動を抑えて、ただ、手を握りしめる。
スピーカーからあふれ出す声が、自分に絡みついてくるような気がする。空気が粘性を帯びたように、息がしづらい。
助けを求めるように視線をやった彼の顔。――静かに、笑みが消えていく。
「……幸せ? あのロリコンと結婚することが?」
『失礼なことを言うな。ちょっと年上なくらいで』
「本気で言ってるんですか? 僕が言っているのは、年齢差とは別の話です」
――別の話?
雲行きの怪しさに、思わず眉をひそめる。
こちらの視線に気付いた彼が、苛立ちを隠しきれずに目をそらす。
「小学生相手に買春を繰り返した男をロリコンと言って何が失礼なんです」
『その件なら、嫌疑なしで不起訴と聞いている』
「えぇ、金にものを言わせて人違いということにしたようですね」
『言いがかりはやめろ。被害者が違うと言っているんだ。なんの問題があるのかね?』
「嘘だからですよ。一度捕まって素人には懲りたんでしょうね、今はそっち系専門の業者を介してますが、児童買春自体は結婚話が決まった後、現在に至っても続行中だ。今度何かあれば間違いなく起訴されます」
――なんだこの会話。
気が遠くなる。これが、新しい婚約者? 私の、幸せ?
「僕が言うのもなんですが、西園の娘婿にするには不名誉すぎるのでは?」
『娘と結婚すればそんな遊びもやめるだろう』
「どうしてそう思うんです」
『独身時代に羽目を外すことくらい誰でもあるものだ』
「いいえ、そんな理由ではありません」
父の回答に、彼ははっきりとそう言い切り、不愉快そうに顔を歪める。
「あの男が遊びをやめるとしたらそれは――娘さんが、自分の理想だからですよ」
――理想?
綺麗なはずの言葉に、何故か嫌な響きが宿る。
「もう少し若いうちからそれなりの資産があって、言い寄る女性も、見合いの話も少なくなかったはずです。それでも幼い子ばかりを相手にしてきたロリコンがなんで今になって顔も見たことのない成人女性との結婚に同意したのか。あなたはわかっているんじゃないですか」
彼のその質問に、相手の口調が変わる。
『……何が言いたい』
「どうして、娘さんが一年半も前に家を出ていることを、相手に伝えていないんですか」
『お前には関係ないことだ』
それは、相手をごまかす口調ではなく、既に答えを知っている者を黙らせる口調。父は音の響きからか、おそらく自分の声が、穂積紘だけでなく私にも聞かれているのに気付いている。
「彼の性癖はその筋では有名です。『遊び』の時は相手に必ず同じ演技を要求する。長い間、演技で我慢していたところに、降って湧いたのが今回の結婚話です」
怒気をはらんだ彼の言葉は、
「大切に育てられた深窓の令嬢。病気がちで恥ずかしがり屋だと父親はごまかしているが、いつまでも姿を見せないところをみるとどうやら自分との結婚を嫌がっているらしい。普通なら断るなりなんなりします」
私に対し、ほんの微かな躊躇を見せながら、
「けれど、彼はそれをしようとしない。それらはすべて彼の理想と合致するからです」
『黙れ』
核心へ、辿り着く――
「――ファーストキスもまだのような相手を無理矢理穢すことこそが彼の願望なんですから」
「…………っ」
吐き気を堪えて、口元を押さえる。手が震えていた。
抑えつけられた手首の痛みが蘇る。相手が彼でも怖いと感じた。もし、あの相手が、見ず知らずの男だったなら?
――理想の、『玩具』。
私は、言われるまま、そんな男と結婚しようとしていた――?
『だからなんだ』
「ここまで聞いても結婚を取りやめる気がないということは、わかっていたということですよね?」
『……お前に言う必要はない』
「新規事業に失敗して資金繰りが大変だという話は風の噂で聞いていましたが、まさか結納金欲しさに娘を売り渡すほどとは思いませんでした」
『黙れ』
「彼女は渡しません」
『あかり、そこにいるんだろう。どうなるかわかってるんだろうな』
無意識に身体が跳ねる。何か言おうと口を開くけれど、声にならない。
「あかりちゃん」
小さく、彼が名を呼ぶ。視線をやると、彼はいつかと同じように、人差し指を静かに口元へ添えた。
「彼女の意思を無視して書類上の結婚をさせるつもりなら無駄ですよ。婚姻届の不受理申出書を役所に提出済みです」
『そんなもの、どうにでもなる』
「役所に圧力をかけて届出をなかったことにするつもりですか?」
『役所には知り合いが大勢いるのでね』
「奇遇ですね。僕もなんです。例えば、賄賂が大嫌いで有名な、先日就任したばかりの新しい市長とか」
初めて電話の声が、言葉に詰まった。彼は静かに、続ける。
「西園さん、引いてください」
『……断ると言ったら?』
「このことを世間に公表します」
彼の言葉に、息を呑む。
「この電話もすべて録音しています。証拠には事欠かない」
『強請るつもりか』
「いいえ。取引ですよ」
『乗ると思うのか』
「本人の承諾無しに勝手に婚姻届を提出すれば有印私文書偽造同行使。立派な刑事犯罪です。相手の特殊な性癖も調べればすぐにわかる。スキャンダルとしては申し分ないでしょうね」
『馬鹿が。それが脅しになるのは、マスコミがその情報を公開する場合だけだ』
「ほう。西園の力なら、簡単にもみ消せると?」
『そういうことだ』
「積み上げるだけの金もないでしょうに、強気ですね」
『これでも代々続いてきた名士なのでね。世間知らずの若造にはわからないかもしれないが、名前だけで人を動かせる力くらいは持っているんだよ』
電話の声には、威圧感が戻っている。
見下した物言いに、彼はくすりと息を漏らした。
「――それ、誰に向かって言ってるか、理解していますか?」
『……何?』
「確かに、この街で西園はまだ影響力が大きい。西園っていうだけで尻込みする人間も居るでしょう。でも、その情報を持ち込んだのが、西園より影響力の強い家の者だったら?」
手段は選ばない、と彼が言ったその意味を、私はその時、初めて理解した。
「勘当されたとはいえ穂積のひとり息子が持ち込んだ確実な情報と、事業失敗で落ち目の西園の名誉。この街のすべてのマスコミ関係者が、自分たちの利益になるのは後者だと判断してくれたらいいですね、――西園さん」
薄く笑みを浮かべた彼がそう言う。
時間としてはほんの少し。それでも息が詰まりそうな沈黙の後、
『……何が望みだ』
スピーカーから聞こえてきた敗北の声は、怒りと屈辱で震えていた。
「先ほどから言っている通りですよ。俺は、優秀な部下を失いたくないだけです」
対照的に、非常に穏やかな口調で彼は答え、
そして、
「――今後一切、西園あかりに手を出すな」
恐ろしく冷たい声で、命令を下した。
*
彼が携帯の画面に触れると、事務所内に静寂が訪れる。
「…………ぁ、あの、」
言葉が出てこない。頭が混乱して、言いたいことも、言わなきゃいけないこともたくさんあるはずなのに、何から口にしていいのかわからなかった。そのまま、また、口を噤んでしまう。
チラリとこちらに視線をやって、彼はひとつ、深呼吸のような大きなため息を吐いた。
「あかりちゃん」
人差し指で、ちょいちょいと手招きされる。その表情からは感情が読み取れない。けれど少なくとも、彼は笑ってはいなかった。
「……はい」
ビクビクしながら、彼の机に歩み寄る。
私が机の前に辿り着くと、彼はゆっくりと立ち上がって、またため息を吐いた。
こちらを見下ろす不機嫌な顔。息を吸い込む短い音に、怒鳴られる予感がして、思わず目を閉じる。
次の瞬間、怒鳴り声の代わりに聞こえたのは、眉間に何かが当たる音。
「痛たっ!」
思わず手をやって、目を開ける。まず視界に入った上司の手は、すぐに机の向こう側へ引っ込んでいった。
「自分がどれだけ危なかったかわかった?」
「…………はい」
「俺のデコピンくらいで済んだことに感謝しなさい」
「……はい」
衝撃の余韻が残る眉間に、もう一度手を触れる。頭がくらくらするのはどれが原因だろうか。
「やっぱり顔色悪いね。あまり聞かせたくはなかったけど、でも聞かないと、君はわかんないだろうから」
彼は、切ったばかりの電話番号に勝手に着信拒否の設定をして、携帯をこちらへ返してきた。
「任務は完了だ。念のため、しばらくはひとりで出歩かないようにして」
「……はい」
ただぼんやりと短い返事を繰り返すだけのこちらに、上司はまた、くすりと笑う。
「何か言いたいことは?」
「…………ごめんなさい」
「それは、どれに対しての謝罪?」
「……っ」
頬が熱くなる。謝るべき項目がありすぎて、恥ずかしい。
うつむいてしまった私の頭に手を置いて、上司はまたくすくすと笑った。
「これに懲りたら、自棄になる前にもうちょっと頼ってくれる? 君の周りのろくでもない男のひとりだけど、これでも君の上司なんだから。部下のひとりくらい守ってみせるよ」
「……ごめんなさい」
「失踪した俺が言うのもなんだけどさ。居なくならないって約束した相手が居なくなったら、俺はどうすりゃいいんだっての」
「……ごめんなさい」
今度は謝罪を繰り返すようになった私に、苦笑して。
「あかりちゃん、約束して」
上司は、穏やかな口調で、いつもの微笑みを浮かべながら、まっすぐにこちらを見た。
「君も、勝手に居なくならないで」
口に出すとなんだか女々しいね、なんて付け加え、ごまかすように、私の頭を撫でた。
「……はい」
手のひらの重みに与えられる安心感に、私は逆に、笑顔を作ることが出来なかった。
*
連れ出された先で取った遅めの昼食は、なんだか高級そうな中華粥だった。
事務所に戻り、一通り軽く説教をした後で、今回の件に関して私にペナルティを科す、と上司は言った。
それは仕方ない。自分のせいで臨時休業までさせているんだから。
しかし、そのペナルティの内容は――
「今日これから、この前の佐藤クリニックに行くこと」
「……は?」
思わず、眉を寄せる。
「三時から予約してあるから」
「……別にいいですけど、なんでですか?」
もちろんまだ体調は良いとは言えないが、彼の『仕事』によって、精神的な重圧からは確かに解放されていた。着信拒否しているとはいえ、あのやり取りの後で携帯も沈黙を保っている。先ほどの食事も落ち着いて出来たし、今度は吐き出さない自信すらあった。
「君はちょっと親の呪縛が強すぎる」
「……。あぁ、カウンセリングもやってるんでしたっけ?」
「うん。今回ちょっと精神的に負荷掛けすぎた気がするしね。あ、俺も付いていくから」
「逃げませんよ、別に」
「それもないとは言わないけど、言ったでしょ? ひとりで出歩くなって」
「…………」
「今、面倒くさいって思ったでしょ?」
心の中で舌打ちする。こういう時は鋭い。
「……もう、わかりましたよ」
「じゃあ準備して」
「……はい」
臨時休業の札が掛かったままの事務所のドアに鍵を掛けて、エレベーターに向かう。
下向き三角のボタンを押してエレベーターを待つ間、ふと、隣の上司を見上げる。
「城ノ内さん」
「ん?」
上の階に着いたところらしく、エレベーターはすぐには降りてこなかった。
「ろくでもなく、ないですよ」
「……?」
呟くように口にした言葉。意味がわからないと寄せられた彼の眉間に、笑いかける。
「男運の話です。確かに、私、男運は悪いのかもしれません。けど、」
一呼吸置いて、言葉を選ぶ。
まるで愛の告白でもするかのように、緊張した。
「あなたのことは、信頼出来ます」
まっすぐに、彼の目を見る。
この言葉に嘘はない。心からそう思っていると、彼に伝わるように。
「頼らせてもらいますね、これからは」
ポンと音がして、エレベーターが開く。
面食らっている上司の顔に、照れ隠しの笑顔を向けた。
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