ハルカ 十四年前

 雨に濡れない人っていると思うの。


 いつだったかな。リサさんと一緒に暮らしてた頃、バス停まで迎えに行ったことがあったよね。


 あの日は予報が外れて夕方から大雨が降りはじめた。わたし、リサさんの傘を持ってバス停まで迎えに行ったんだよね。でも、途中で強い風が吹いて傘が裏返っちゃったんだ。一瞬でずぶ濡れになっちゃったよ。


 仕方なくリサさんの傘をさしてバス停まで走ったんだ。きっと、リサさんが困ってると思ったから。でも、リサさんたら折りたたみ傘を差してこっちに歩いてくるんだもん。びっくりしちゃった。リサさんも驚いてたよね。迎えに来たわたしの方が濡れてたから。


 リサさんはいつもそうだった。忘れっぽくてどんくさいわたしと違っていつだってちゃんと備えがあって、にわか雨に打たれそうになっても顔色一つ変えず鞄から傘を取り出せるような人だった。


 だから、今日は本当にびっくりしたんだよ。だって、絶対に雨に濡れないはずのリサさんがびしょ濡れでうちの玄関に立ってるんだもん。


 それに、リサさんってばとてもおかしなことを言うんだから。ねえ、どうしてあんなことを言ったの?


 自分のお母さんを殺して逃げて来ただなんて。


 そんなの嘘だよ。そうに決まってる。どうしてリサさんがそんなことをしなきゃならないの。


 わたしにはわからない。


 わたしにはずっとお母さんがいなかった。お母さんが生きてた頃の記憶だってほとんど残ってない。かろうじて覚えてるのが、膝枕のこと。このソファね、けっこう年季が入った感じでしょ。わたしが生まれた頃からずっとあるんだよ。母さんはよくここでわたしに膝枕してくれた。いま、リサさんがそうしてくれてるみたいに。


 ねえ、なんでかな。お母さんはいつも右側に座ってた。お母さんは右側に座るものなんだって。お箸を握るのも、本のページを開くのも右からでしょ、だからお母さんは右側なんだって。


 照明? ああ、そうか。いままで全然気づかなかった。そっか、じゃあ右側に座るのはお母さんの優しさだったんだ。


 リサさんはいつからそのことに気づいてたの? そっか、あのときからもうリサさんはわたしのお母さんだったんだ。でも、それなら余計にわからないよ。どうしてリサさんは何も言わずに出て行っちゃったの? 


 リサさんのことは恨んだし、忘れたと思ってた。その意味ではわたしもリサさんを殺したって言えるのかな。でも、いまここにいるリサさんを殺したりできないよ。そんなこと、考えただけで悲しくなる。


 ねえ、どうしてなの。教えてよ、リサさん。


 どうしてリサさんは出て行ったの。


 どうしてリサさんは自分のお母さんを殺しちゃったの。


 ねえ、どうして。


 答えてくれないんだ。それってわたしが子供だから? 傘を持ってても雨に濡れちゃうようなのろまだから? 


 わたしだって、いつまでも雨に濡れてるわけじゃないんだよ。いまは予報だってしっかり見てるし、風で傘を折ったりもしない。本当だよ? それはたまに失敗しちゃうこともあるけど……でも、今日のリサさんみたいにずぶ濡れになっちゃうようなことはないんだから。


 ねえ、いつまでも子ども扱いしないで。わたしだっていつかは雨に濡れない大人になるんだから。


 だから……


 あ、どうしよう、ミコトが来ちゃった。そうだね、リサさんは裏口から出た方がいいかも。


 ねえ、リサさん。また会えるんでしょ。いつかわたしの質問に答えてくれるんでしょ。約束して、お願い。


 本当に? 絶対だよ。


 じゃあ急いで。鍵は開きっぱなしだし、ミコトが入ってきちゃう。


 うん、それじゃあね。


 さよなら、お母……リサさん。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る