第十六章 すれ違う、心とこころ

 宏明が〔離婚届〕の用紙を啓子に送ってきて半月ほど過ぎたが、あれから一度も家に連絡を寄こさないし、催促もしてこない。たぶん病人の世話で、そんな余裕もないのかもしれない。

 病気の女性を献身的に世話している宏明に、今すぐ家に帰れとは言えない。啓子は天然だけど、病人に嫉妬するほど人間は小さくない。

 先日、スーパーで少しだけ宏明と話すことができたが、目の前の二十代の女の子をまさか妻だと気づく筈はない。軽い挨拶だけで何も訊き出せなかったが、宏明の事情をもっと知りたい。そのために他人のフリをして近づいて、親しくならなければいけない。

 おそらく夫婦という枠を外れたら、客観的に見られる。《この男を人生の伴侶に選んだことが間違いだったか、どうか?》二十歳の啓子の目で見てやろう!


 毎日、ショッピングモール街や宏明のアパート周辺を探偵みたいに見張っているが……あれから宏明と遭遇できなかった。ここ数日、外出もしていないようだ。

 まさか? 病気の女性と心中したのではないかと心配になってきた。

 啓子は今〔若返りカプセル〕という怪しい薬を飲んで、若くなっているが……自分だって、いつどうなるか分からない身なのである。これから、どう行動すべきか、啓子自身できるだけ早く判断しなければいけない――。

 そして今日もショッピングモールの入口やアパートのドアばかりを睨んでいる。

 わたしってば、探偵というより……あきらかに《ストーカー女だわ!》自分の今の行動を苦笑する啓子だった。


 外出しない宏明が心配だったので、啓子は午前中から様子を見にいこうとショッピングモール街を抜けて、宏明のアパートへ向かった。

 道すがら、いろいろ作戦を考えながら……、《奈緒美さんの部屋に遊びに来たけど、お留守なので待たせてください》とか言って、強引に部屋に上がらせて貰おうかしら。それともトイレ貸してくださいって頼んでみるのも有りか、こんな時、五十五歳のおばさんなら幾らでもずうずうしくなれる生き物から大丈夫だ。

 よしっ! 上がり込んだらこっちのもの。そんな悪徳セールスマンみたいなことを考えながら歩いていたら――小さな児童公園のベンチに見覚えのある男の背中が……。


「あなた?」

 まぎれもなく夫の宏明の背中だった。

 先日着ていた紺のブルゾンと同じ格好だったから、それにしても午前中のこんな時間に、公園のベンチで何をしているんだろう? 

 小さな公園には滑り台、ブランコ、砂場があって、幼児を連れたママたちのグループが五、六人で子どもを遊ばせていた。

 何をするでもなく……宏明はその光景をぼんやりと眺めているようだった。そっと近付いて、啓子は後ろから声をかけた。

「こんにちは」

 ギクッとして肩をすぼめ、驚いたように宏明が振り返った。

「あぁー、君は!」

「こんな所で何してるんですか?」

「うん、たまには日なたぼっこだよ」

 見れば手にスーパーの袋を提げていた。たぶん買い物の帰りに、ここで休憩していたのだろうか? 看病疲れか、少しやつれて痩せたようにも見える。《早く家に帰って来てくれたらいいのに……》と心の中で啓子は呟いた。

「子ども好きなんですか? さっきから砂場の子どもたち見てるけど……」

「……娘がふたりいるんだけど。小さい頃を思い出してね」

 そういえば、娘たちが小さい頃よく家族で公園に遊びに行ったものだった。季節が良い頃にはお弁当を作ってピクニックをしたり、楽しそうに遊具で遊ぶ娘たちの姿を、夫婦で笑顔で眺めていたなぁー。二十歳の啓子は二十年前を思い出していた。


「今は娘さんたちと暮らしてないんですか?」

 思わず痛いところを突いてしまった。宏明は、しばらく黙りこんでいたが、

「……事情があって。俺が家を出ているからね」

「そうなんですか? 家族の方は寂しがってるかもしれませんよ」

「…………」

 つい本音で詰問してしまったが、その問いに宏明は何も答えなかった。

 あなたの事情で打ち捨てられた、わたしたち家族のことをどう考えているのだろう? 今ここで宏明に答えて欲しい啓子だった。

「さてと、そろそろ帰るか。買い物してアパートに帰ったら、病人が寝てたので起こさないように……ここで時間を潰して居たんだよ」

「――そうなんですか?」

「うん」

「優しいんですね」

「そうかなぁー」

「今度、お見舞いに行ってもいいですか?」

「えっ? 別に構わないけど……」

「じゃあー、きっとお伺いしますから……」

 宏明はベンチから立ち上がって、啓子の顔をマジマジと見た。――そして不思議そうな顔で、

「君、名前は?」

「あっ! あの……えっと……ケイです」

 ふいに名前を訊かれて啓子は焦った。偽名までは考えてなかったのだ――。まさか夫に自分の名前を訊かれるなんて想定外だった。

「ほぉ、ケイちゃんって言うのかい?」

「はい、ケイです」

「君は俺の妻の若い頃にそっくりなんだ」

「そ、そうですか。あははっ」

 誤魔化し笑いしながら《だって、本人だもんね》と啓子は心の中で舌をだす。

「うん。若い頃の妻は君みたいに華奢きゃしゃで抱きしめるとポキッと折れそうなくらいだったんだ」

「そうですかぁー」

 それって……今は華奢じゃなくて、メタボな中年女ってことか? 一瞬、ムッとする啓子。

「学生時代に知り合ってね。彼女と一緒になれないくらいなら死んでもいいとさえ思っていたのに、それが……月日が人も心も変えてしまったんだ」

 宏明のその言葉を聴いて《違う! 違う! わたしの心は変わっていない。変わってしまったのはあなたの方よ!》そう大声で叫びたかった。

「それじゃー、またね」

「はい……」

 変なことを言い出した自分を恥じるかのように、ふいに宏明は行ってしまった。

 その後ろ姿が見えなくなるまで啓子は見送っていた。もう自分ものではなくなってしまった夫の心を取り戻すすべが見つからない……今の宏明にとって、わたしたち家族は過去のものになりつつあるのだ。

 それでも、あんな風に家族のことも思い出すことだってあるんだ。完全に忘れられていたんじゃなく、宏明の心に少しでも引っかかっているだけでも、啓子は嬉しかった。《わたしは、まだ彼を愛してるんだ》その気持ちだけが自分でもよく分かった。

 真実を明かすこともできず、すれ違う、ふたりの心であった。

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