第九章 行方不明の宏明

 ひどく動揺している自分を、あの勘の鋭い愛美に感づかれないように、部屋の前で深呼吸をして心を落ち着かせてから、ゆっくりと部屋の鍵を開けて中へ入った。

「ただいま」

 啓子の声に、愛美がすぐにリビングから出てきた。

「遅かったじゃないの?」

「ごめんね。食事を済ませてきたから……」

 愛美に文句を言われるかと、小さな声で言うと……。

「お母さん、大変なことになってるのよ!」

「えっ?」

「お父さん、会社を辞めたんだって!」

「えぇー!」

 愛美の言葉に思わず耳を疑った! まさか、そんなの嘘でしょう?

 定年まであと三年の宏明が、どうして急に会社を辞めたのか、啓子には理解できなかった。


 夕方、バイトが休みだった愛美が家に居ると、宏明の会社の人が訪ねてきた。父は不在だと告げると「これは今まで部長にお世話になった部下たちからの心ばかりはなむけです」と分厚い餞別袋せんべつぶくろの束を手渡された。

 愛美にはなんの事だかさっぱり分からず、会社の人に事情を訊ねたら……十日ほど前、部長は『一身上の都合』を理由に突然会社を退職してしまった。――と言うのだ。

 誰が訊ねても詳しい事情を説明せず、とにかく一身上の都合だと言い張っていたらしい。社内には「もしかしたら、部長は重い病気にわずらっていて、それで急に辞めるのではないか?」という噂もあったが、本人がいっさい口を閉ざして喋らないので、事情が分からない。一週間ほど仕事の引き継ぎで出社していたが、送別会も辞退して、ひっそりと退職してしまった。

 ……というのが、会社の人の説明だった。

 それで父に世話になった部下たち、有志で集めた餞別を家に持って来てくれたらしい。


 寝耳に水というか? ビックリして言葉も出ない!

 慌てて、思わず夫の携帯に電話をかけたが案の定でない。夫の友人や知り合いにも啓子は、娘のフリをして電話をかけまくったが、誰も宏明の所在を知らないと言う。

 それで最後に宏明の親戚といっても、実家の両親は亡くなっているので、妹の所へ愛美めぐみのフリをして電話をかけてみた。

 ――宏明の妹は郷里に住んでいる、ごく普通の主婦である。いきなり姪(愛美)からの電話に驚いていたが、できるだけ自然に聞こえるように。

「マンションに帰ったら、両親が旅行みたいでいないんですけどぉー、そっちへ行ってませんか?」

 と訊くと、

「兄さん夫婦は来てないわ」

「そうですか。スイマセン……じゃあ……」

 ガッカリして電話を切ろうとすると、

「あぁー、ところで愛美ちゃん、もう就職は決まったの?」

 うっ! 痛い処を突いてきた。

「えーと、未だ。今はフリーターやってまーす」

「そうなの? 早く就職口を決めてご両親を安心させないとダメよ」

 フン、大きなお世話だよう。うちの娘のことでアンタに文句言われる筋合いないわ!

「分かりました。ではっ!」

 ガチャン!

 これ以上話すと長くなりそうなので受話器を置いて電話を切った。

 今は、そんなことより宏明の行方が心配なんだから……イライラして啓子は腹が立った。


 まさか、宏明が会社まで辞めてしまうなんて考えてもみなかった。

 たぶん宏明は愛人と暮らしているのだと思うけど……なにも会社まで辞めなくてもいいじゃない。それに長年連れ添った自分にひと言の相談もなく、こんな大事なことを自分勝手に決めてしまうなんて、あんまりだわ!

 それまで啓子は宏明の頭が冷えて自分に詫びを入れてくれたら、浮気を許してもいいとさえ思って、寛大な気持ちで待っていたが――状況は変わった! こんな無茶なことをした夫を到底許せるはずもない。

 ――初めて、夫の宏明に深いいきどおりを感じた。


 このところ自分自身に起こった。目まぐるしい事件に……完全にキャバオーバー気味の啓子だった。

 どう対処すれば良いのか分からない状態である。とにかく宏明の所在を突き止めなくては……。

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