第5話 イベント

 そして。

 待ちに待った夏休みがやってきた。

 僕としのりんにとっては「天王山」と言ってもいいような、一年を通じてもとても重要なイベントのある、夏休みが。


 僕らは前日から同じホテルを予約して、もちろん部屋は別々だけど、一緒にそこに泊まることにしている。

 お互いの親を説得するのはとても大変なことだけど、どんなに早く家を出て始発の新幹線に乗ってもサークルの入場時間には間に合わないのだから仕方がない。飛行機なら早いのかと思いきや、実際は飛行場が会場から遠いせいもあって、かかる時間にはたいして違いがないのだ。

 だから僕らは両方とも、「同性の友達と泊まるから」とそれぞれの親に言って出てきている。まあ、ある意味、間違ってはいないのだ。


 僕としのりんはあの赤いロープウェイの乗り口のそばにある駅で前日の昼ごろから合流し、そのまま新幹線に乗った。

 席に落ち着いてから、僕はなんとなしに気になっていたことを彼女に尋ねた。

「どう? 最近、学校の様子とか。茅野とはうまくいってる?」

 しのりんは、茅野の名を聞いたとたんに少し頬を赤くした。

「あ、……うん。とりあえずあの後はだんだん噂も落ち着いてきてさ。ありがと、ゆのぽん。ほづに会ってくれたおかげだよ」

「いや、僕はなにも、たいしたことはしてないから」

「ううん。ほづがボクみたいなやつのこと理解してくれてたって分かっただけでも、どんなに有難いと思ってるかわからない。ほんとに、ほんとに、二人には感謝してる」

 しのりんはきゅっと唇を引き結んだ。とても大真面目な顔だった。

「……そっか」


 あれ以降、僕は茅野には会ってない。

 いちおう連絡先は聞いたけど、別に連絡もしていなかった。もちろん、しのりんを差し置いてそうすることには抵抗があったからだ。


「で、茅野はなんだって?」

「うん。例の子については、やっぱりボクのことをときどき陰から覗いたりとかしてるらしくて。『ストーカーかよ、あの女』って、すっごくイヤそうな顔で心配してくれてる」

「うわ、そうかあ……」

「うん」

 なんだか、そう言った茅野の顔まで想像できる。

「だからここんとこ、あまりこの格好では外に出なかったんだ、ボク」

「それが正解だと思うよ、僕も」

「うん、わかるんだけどさ……。でもこないだなんて、『どアホ。まだまだ気を抜くな』って、ほづにけっこうきつく叱られちゃった。『お前の脇はガバガバだ!』って。ひどいよね? ひどいよね……??」


 そんなことを言ってちょっと頬を膨らませているしのりんは、ただ可愛い。

 今日はもちろん、駅で女の子の格好に変わってきているから余計だ。

 なんか、幸せそうで良かったなあとちょっと安心する。


 それにしても茅野、けっこう過保護なやつだなあ。

 別に彼氏なわけでもないのに、今からこれかよ。


「なに? ゆのぽん。なに笑ってるんだよう」

「あ、うん。いや、笑ってないよ?」

 ちらっとしのりんに睨まれて、僕はゆるみかけた頬を意識的にひきしめた。

 窓の外は、ときどきトンネルを通ると真っ暗になるけれど、そのたびに少しずつあのイベントに近づいているのだと思うと胸が浮き立った。

 幸い天気はよさそうで、だからかなり会場は暑くなりそうだったけれど、熱中症の対策もしっかりしている。


 大丈夫。

 きっと大丈夫。


 ぼくは隣のしのりんの手を軽くぽんぽんと叩いて言った。


「しのりん。いいイベントにしようね」

「うん。気合い入れてがんばろー!」





 夏のイベントは、今年も大盛況だった。

 なんだか最近は、外国人のお客さんも多くなっていてどんどん様変わりしてきている気がする。


 僕としのりんはサークル入場組なので、前日に近場でとったホテルを出ると、かなり早い時間から会場入りした。

 真夏のイベントなので、水分確保は必須だ。いちおう空調はあるはずなんだけど、なにしろ巨大なスペースだし、凄まじい人出になるうえにみんなの熱気がすごいので、熱中症対策には万全を期する必要がある。

 お隣のスペースのサークルさんにご挨拶し、指定されたスペースに敷物を広げて店の設営。事前に印刷会社に申し込んで、新刊は会場に直接宅配で届くように手配しているので、それを引き取ってスペースに並べ、既刊の本や値札やPOPなんかをきれいに飾り付けてゆく。

 うちの同人誌は大手サークルさんみたいに何万部も刷ったりするわけじゃないけど、それでも大事な僕らの子どもたちみたいなものだ。


 やがてあっという間に開場の時間が来て、場内アナウンスとともに会場全体のサークル参加者がいっせいに拍手をし、いよいよ一般入場開始。

 お目当ての大手サークルさんへは、しのりんと手分けして店番を交代しながら先に回りはじめる。これこそサークル参加者の特権だ。あとになればなるほど、壁際にある大手のスペース前には長蛇の列ができて、購入できるまでに相当の時間を無駄にしてしまうからだ。

 大変そうなサークルさんのところの新刊やグッズだけはとにかく早めにゲットしておいて、あとはゆっくり店番をしながら周囲のサークルも交代で回る。


「あ! SHINOしのさんの新刊ですね。うれしい〜」

「ありがとうございます。何とか間に合いましたあ」

「楽しみにしてたんです! えっと、二冊ください」

「はい、ありがとうございます!」

YUNOゆーのさんのもあるんですね! やった! 今回、パンフにサークル名がなかったので心配してたんです」

「ありがとうございます。今回はこちらに間借りさせていただいてます」


「コピー本、二冊いただいていいですか? あと、アクキーも……」

「あ、これはプレゼントです。新刊を購入してくださったかた、先着二十名様までなんですけど、良かったらどうぞ」

「わ! 嬉しいです!」

「あのう、良かったら写真いっしょに、いいですか……? お二人とも、お願いできます??」

「ええ、もちろん」

「あのあの、スケブ、お願いできませんか?」

「あ、はい。少しお時間いただきますがいいですか?」


 そんな会話が繰り返される。

 スケブはスケッチブックの略だ。その場でざざっと描くだけの簡単な絵だけれど、ありがたいことに直筆のイラストが欲しいというお客さんもたまにいる。

 そういえば、最近ではみんなデジタルで絵を描くことがほとんどになっていて、それにあんまり慣れてしまうと紙に描くのが怖くなる、という奇妙な現象が起こっている。

 デジタルはいくらでも修正がきくし、右向きの顔が苦手なら反転しちゃえばいいだとか、描いたあとでも色がいくらでも変えられるとかいう便利な機能が多すぎるのだ。

 それはそれで悪いことではないんだろうけど、下手をすると自分自身にほんとうの絵の実力みたいなものがつきにくいことになるかもしれない。労せずして素敵な絵が描けるっていうのは本当にありがたい話なんだけど、それで人の能力が減退するんだとしたら、それも難点ではないのかなあなんて、最近はじじくさいことを考えている。


 依頼された絵を描きながらそんなことを思ううちにも、どんどん時間が過ぎてゆく。

 うちはそんなに忙しくないサークルだけど、それでもあれこれとお客さんの対応をしているうちにあっという間に午後になった。

 僕らみたいなマイナージャンルのサークルでも、こうしてけっこうお客さんが来てくれるのは本当にありがたい。

 なにより、僕らの書いたものを読んで好きになってくれた人の顔を直接みて、お話ができることが嬉しいのだ。


 ちなみに、最近では男性のお客さんも増えているように思う。

 一応「あの、うちBLですけど大丈夫ですか? 絡みありなんですけどよろしいです?」と尋ねるようにはしているんだけど、たいていはちょっと緊張しつつも恥ずかしそうに頷く人が多い。そして、二部、三部と複数で買っていってくれる。

 いわゆる「腐男子」と呼ばれる人なのか、しのりんのような感じの人なのか、はたまた他の店回りでいそがしい「腐」の妹さんにでも頼まれた単なるノーマルのお兄さんだったりするのか。

 まあそんなことまではわからないけれど、こうしてわざわざ会場にまで足を運んで、顔をさらして買いにくるのはかなり勇気の要ることのはずだから、なおさら有難いと思ってしまうのだ。

 うちみたいな弱小サークルじゃ通販なんてまずやらないし、本を手に入れようと思えばこの場に来るしか方法がないんだから仕方がないんだけど。そのレアさを分かって、求めて来てくださるって本当にありがたいことだと思う。


 そんなこんなで、あっという間に午後になる。

 売る本のなくなったサークルはすぐに帰り支度を始めてしまうので、午後になると綺麗にスペースが片付けられて人のいないようなところも少なくない。

 そのせいなのかどうなのか、まさに戦場のようだった午前と違い、午後になると会場に少し涼しい風が吹き始める感覚がある。


 僕らは大体、午後二時ごろには店じまいを完了させる。

 の本以外の大きな荷物についてはまた宅配をお願いし、直接家に送ってもらうようにする。しのりんは家のかたのご理解がまだ得られていないのでそうすることは難しく、いつもほぼ売り切れる分しか会場には本をもってこない。

 残部が多めのときには僕のほうの宅配の荷物に一緒に一部を入れてあげているけれど、あとは彼女が例の小ぶりのキャリーバッグに詰めて引いて帰る。

 沢山の「読むたのしみ」をつめこんだ鞄を抱えているこのひとときが、僕らにとっては至福の時間だ。ただし、一般のお客さんの多い電車の中なんかでは広げられないんだけどね。いや、もちろん広げている強い心臓をお持ちの人も見かけるけれど、僕らには到底無理だ。恥ずかしすぎる。


「いまこの瞬間に事故にでも遭って、救急車で運ばれる事態になったら大変だよねえ」

「そうそう。最悪、下着を見られるのは構わなくても、『おねがい、僕の鞄の中だけは見ないでえええ!』って救急隊員さんに叫ぶ羽目になるよねえ」

「あは。ボクはそっちもダメだあ……」

 しのりんが苦笑して、僕は「あ、ごめんね」と彼女の顔をうかがう。しのりんがはっとしたように、慌てて顔の前で手を振った。

「あ、ううん! ボクの方こそごめんね! つまんないこと言っちゃったね。忘れて? ゆのぽん」


 今日はしのりん、一番気合いを入れた可愛い格好だ。

 いつもの街中でも浮かないほうじゃなくて、ずっと派手目の薔薇色のドレス風ワンピ。暑いだろうに、タイツだとかブーツだとかまでしっかり履いてるのはもう、僕なんかからしたら尊敬に値する。

 どこからどう見ても「可愛い女の子」でしかないしのりんが、実は普段は男子の制服を着て学校に通っているだなんて、この場にいるどれほどの人が気づいているのだろうか。


 僕もある意味ではそうなんだけど、彼女は僕よりもずっと、不安定で緊張した世界に住んでいる。

 しのりんはずっと、ぴんと張ったピアノ線の上をゆらゆらと歩いているようなものなんだ。

 少しでもバランスを崩したら、しのりんはその足許に広がる真っ暗な滝つぼに落ちてしまう。

 その滝つぼに渦巻いているものは、顔の見えない周囲の人々からの蔑みや、嘲笑や、後ろ指をさす声やとがめる目つき、馬鹿にした見下す態度。一定の枠からはみだす者を冷淡につまはじきしようとする、この社会そのもののありとあらゆるおり

 真っ暗な滝つぼには、そんなものがいっぱいに溜まっている。

 そして、愛する両親の悲しみの涙。

 その上を、右にも左にも傾かないように気をつけながら、それでもこうして可愛い笑顔を絶やさないで、しのりんは歩いているのだ。


 ゆらゆらと。

 ゆらゆらと――。



 もしも、急に病院に運ばれるような事態になったら。

 そしてもし、親に連絡されるようなことになったら。


 もしも、もしも――。


 そういうことは、考え出したらきりがない。

 だけどそうやっていつ起こるとも知れない事態を怖がってばかりいたら、しのりんはなんにもできないまま、今のこの十七歳という二度と戻らない大切な時間を、ただ身を縮め、息をひそめて過ごさなくてはならなかったことだろう。

 だから僕は、こうして勇気を出せたしのりんを尊敬するのだ。

 だってそうして踏み出した一歩は、世界のどこにだってつながっているんだから。


 僕らはそのまま、地元に帰るための新幹線の中で、久しぶりに会えた他サークルさんの話やら好きな作品のCPカップリングの話なんかをぼそぼそと小さな声で話し、ときどきくすくす笑ったりした。

 そうして飛びすぎてゆく窓の外が夕暮れから夜の風景に変わってゆくころには、いつの間にか互いにもたれ合いながら、うつらうつらと眠りこんでいたのだった。


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