第7話 初恋


「ほんと言うとね。一時期、とっても妹がきらいできらいでしょうがなかった。それで……ほんのちょっとだけど、イジワルしちゃったこともある」


 ずっと淡々と事実を語ってきていたしのりんは、少し言葉を切ってからそう言った。

 目の前の飲み物がすっかりなくなって、次の飲み物を注文してからのことだった。


「でも……やっぱりそんなの、いつまでもできなかった。ママがそのことに気づいたときの顔を見ちゃったら、なんか……。なんか、もうさ――」


 そう言うと、しのりんの目からまた違う意味の涙があふれだした。

 それを見て、僕は暗澹あんたんたる気持ちになった。


 優しくて思慮深い人であるしのりんの母親は、兄であるしのりんがときどき妹の大事にしているおもちゃを隠してみたり、好きなお菓子を勝手に全部たべてしまったりすることに気づいたとき、しのりんをすぐに、ひどく責めるようなことはしなかったんだそうだ。

 でも、二人きりになったとき、しのりんを抱きしめてその胸にそっと手をあて、こう聞いてくれたのだと。


「どうしたの、カズくん。もしかして、なにかここがとっても痛いことがあるんじゃないの……?」

 と。

 母親の声には、やさしさと一緒に、悲しみがいっぱいにあふれていた。


 それだけで、しのりんはもうだめだった。

 こんな優しい家の中で、自分ひとりがどうしようもない、汚い生き物になってしまった気になった。

 自分がこんな気持ちになるのが、厳密には妹のせいなんかじゃないことなんて、子どもだから言葉にするのは難しかったけれど、ちゃんとしのりんだってわかっていたから。


 しのりんは自分の部屋に駆けもどって、壁にしたたかに、何度も何度も頭をうちつけた。自分の拳で、自分を殴った。

 床に転がり、大声をあげ、大暴れして、部屋のなかをめちゃくちゃにした。

 とくに、「男の子」のためにと準備された文房具だの、おもちゃだのバットだのグローブだのを、投げつけ、ばらまき、蹴り飛ばして大泣きした。

 でも、小さな野獣みたいになってどんなに暴れまわっても、しのりんの胸の中の台風は、まったく去ってはくれなかった。


 そしてそこから、しのりんはぴたりと妹へのいやがらせをすることはなくなった。

 そうしてそれまで以上に「いい子」でいようと、両親に心配を掛けまいとして生きて来た。勉強だって、スポーツだって、「男の子として」頑張ってきた。

 やがて、もちろん親にはみつからないように、書店や図書館でこっそりとLGBTや性同一性障がいの本などを読みあさり、しのりんは自分がどういう人であるのかをようやくはっきりと知ることにもなった。

 こういう人が、実際はかなりの割合で「普通の」ひとたちの中にいるのだということを、小学校の高学年にしてようやくしのりんは知ったのだった。


 その状態に名前があることを知ったのは大きかった。

 今までずっとひとりぼっちで空中を漂っていたような自分の姿が、それでやっときちんと地面に降りてきたような、不思議な嬉しさのようなものがあった。

 もちろん、だからといって苦しみが減ったかと言えば、そんなことはなかったけれど。




 しのりんの初恋は、小学六年生のころだった。

 相手は同級生の少年で、いつも休み時間にはドッジボールや各種のおにごっこなどをして、一緒に遊んでいた子のひとりだった。彼はほかの女の子からもけっこうもてる男子だった。

 本当は学校に持ってきてはいけないことになっていたけれど、クラスの女子たちの間ではバレンタインデーが近づくと「誰にあげるの」「どんなチョコにする?」と、その話に花が咲いているようだった。

 でも、しのりんはただ、世の中がそういう方向へ動いているのを、はたで指をくわえて見ているしかできなかった。

 相手の男の子は、しのりんを本当に単なるクラスメートの遊び友達としか見ていない。気さくで活発な少年だったし、気持ちの優しい子だったから、もししのりんが勇気をふるってほかの女子と同じことをしたとしても、みんなに言いふらしたりはしなかっただろうと思うけれど。

 でも、やっぱりそんなこと、しのりんにできるはずもなかったのだ。


 その彼は、何年も前から準備していた私立中学の受験をし、無事に合格して、卒業とともにそちらの中学に行ってしまった。

 しのりんの学力では、到底いけるような学校ではなかった。

 彼との連絡も、それっきり途絶えてしまった。

 それであっけなく、しのりんの初恋は終わりを迎えてしまったのだ。





「今ではもう、両親はボクがすっかりそんなはなかったもんだって信じてる。『そんなこともあったよね』なんて言って、ときどき笑ってるよ。ほんとはまったく、それの反対だっていうのにね――」


 ひとくさり話し終えて、しのりんは少し自嘲ぎみな笑みをうかべながら、かつらである長い髪の毛をそっと撫でるようにした。

 こういう格好をすることも、腐った同人界に手を出していることも、ご両親も妹さんもいまだに何も知らないでいるのだ。


「ありがと、ゆのぽん。聞いてくれて。あんまり面白い話じゃなかったよね。ごめんね……?」

 僕は少しむっとして、すまなそうな顔でそう言うしのりんの額を指先で軽くこづいた。

「なに言ってるの。……こっちこそ、ありがとう。つらいこと、話してくれて」


 しのりんはそれを聞いて、ほんの一瞬だけくしゃっと顔をゆがめたけど、きゅっと唇をかみ締めて、それ以上泣くのはこらえたようだった。

 僕は彼女の頭をぽすぽすたたいた。


「僕も……って、まあ、まだちょっと無理かなと思うけど。きっといつか話すね、僕のこと。しのりんに――」

「うん。……でも、無理しないでいいよ。いつでもいい。ゆのぽんが本当に『話したい』って思うんだったら、ボク、いつでも聞くからね」

「うん。ありがと……しのりん」



 僕らはその後、せっかくだからとちょっと歌を歌って、そのカラオケボックスを出た。


「無事に入稿は終わったけど、あとはプレゼントでアクキーとか作りたいなと思ってて。そんな、たくさんは作れないけど。それと、やっぱりもうひとつ、このあいだ言ってた話、コピー本にしようかなって……」


 アクキーというのは、アクリルキーホルダーの略である。

 最近では、絵のデータを送るだけでマグカップだとかクリアファイルだとかいった小物を作ってくれる、便利なサイトがけっこうあるのだ。

 しのりんの描く絵は華やかで、二頭身のちびキャラなんかもとても可愛いので、読者さんたちに人気があるのだった。


「そうなんだ! さすがしのりん、アクティブだなあ。僕も負けてらんないね。でもまあ僕のとこは、グッズ作るほど人気なんてないからアレだけど」

「なに言ってるの! ゆのぽんのグッズなら、すーぐ完売に決まってるじゃない」


 僕らはそんなことをひとしきり、笑いあいながら話して歩いた。

 駅でしのりんが元通りの男の子の服装に着替えてから、僕らはまた反対方向へわかれ、それぞれ別のホームへとあがっていった。


(さて……どうするかな)


 電車の入り口付近に立って窓外の夜の町並みを眺めながら、僕は考えていた。

 しのりんの話を聞きながら、次第に固まってきたその決意について、僕は彼女に話すつもりはなかった。


(うん。やっぱり、そうしよう)


 そして、少し遅くなったことで恐らく落ちてくるのであろう母のあてこすりめいたお小言への言い訳を脳内に展開しつつ、家へと向かう夜道を足早に戻っていった。

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