第拾壱話

 はなは屋敷の敷地から一歩出た途端、駆け出した。走った。駆けた。全力を以て、山へと続く舗装されていない田舎道を走り抜けた。

 胸に迫る嫌な予感に駆り立てられ、はなはどんなに体が悲鳴を上げても足を止めるどころか、減速もしなかった。

 慣れ親しんだ険しい山道を登っていると、不意に周囲の空気が変わった。澄み渡った湖の畔の空気に似ていて、朝靄を身に纏う感覚に近い、神聖さを髣髴とさせる気配が、はなを包む。山神の神通力が、こんな麓にまで降りて来ている。聖域があるのは、ここからもっとずっと山頂に近いところだというのに。それにも関わらず、山がざわめいている。その理由は、はなにだって察せられた。


「シン……!」


 あの拒絶の言葉。この異様さ。無関係なはずがない。

 行かなければ。一刻も早く。彼の元へ。

 はなが再び歩みを進めようと、手頃な木の根に手をかけたとき、その手の上に仄白い手が重ねられた。

 顔を上げれば、見知った精霊たちが悲しげながら確固たる意志を以て、はなを見下ろしている。はなは彼女らを無言で見上げていたが、その顔に退く意思が浮かぶことはなかったので、口を開いた。


「退いて」

「だめ」

「退いて」

「だめよ」


 無駄だった。

 彼女らも、きっと同じことを思っている。こちらとあちらでは、立場が逆。真逆、なのだ。そして、お互いに譲り合うこともできない。


「……どうしても」


 精霊の一人が、呟く。


「どうしても、行くの……?」


 澄んだ声音は切なさと悲痛な内面を映して、普段より一層、心地よい響きを生んだ。しかし、はなはそれに心が惹かれもしなければ、揺るぎもしない。


「話している時間なんて、ない。それは、貴女たちの方が分かっていることでしょう?」


 はなの固い声が、全てを物語っている。

 精霊たちは深く嘆息し、そしてはなから手を離した。分かってくれたのか、諦めたのか。どっちでもいい。早く、上へ行かねば。

 更に歩みを進めようと足を持ち上げた刹那、突如視界が黒く染まる。


「っ」


 ひんやりと冷たい、たくさんの腕、手。それらが視界を、自由を、思考をも、奪う。


「何を……っ」


 混乱と麻痺の中、かろうじて口にできた言葉への返答は、不気味なくらいに明るかった。


「連れて行ってあげるだけよ」

「心配しないで」

「貴女が苦しむことのないところへ行くのよ」

「ねぇ、行きましょう?」

「そうよ」

「巫覡様のところよ」

「貴女の望む場所」

「だから――」


 私たちに、身を任せて。


 はなは抵抗すらできなかった。

 囁きの一つ一つにかけられた――呪い。呪いだ。耳と脳が、それらを欲し、意志を失う。

 人はただ堕ちるしか、ない。

 精霊たちに抱き締められ、その甘い匂いが鼻孔を擽る。その匂いさえ、脳を痺れさせ、狂わせる。人外の誘惑。それに勝てる人間は、ほぼいないに等しい。だって、そうだろう? 昔話や童話。その中では、みんなみんな惑わされ、踊らされているではないか。彼らの手の中で。

 はなの意思も遠く彼方へ追いやられ、意識すら、間もなく暗転した。

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