第伍話

「お嬢様」


 はなは書物から顔を上げた。


「お静」


 今日は朝から雪が舞っていた。

 例年、初雪は早くても年明け頃。しかし、今年は冷え込みが一段と厳しく、霜月の末に初雪が舞い、師走半ばの今では週に一度は雪が降る。

 はなは冬独特の、どこまでも澄み渡った青空が好きなのに、どんよりと曇った天気ばかりの今年の冬は、なんだか少々物足りなさを感じてしまう。といっても、雪が嫌いなわけではない。寒がりなので外で遊ぼうとまでは思わないが、こうやって読書をしながら、何気なく外を眺めて、灰色の冬空を楽しむことは好きだ。

 音もなく舞い降りる白い花々。それらに美しさよりも、切なさを感じるのは、感傷的になっているせいか。神無月の日々が、今では懐かしく、ひどく恋しい。


 外の騒ぎ声が大きくなった。

 今日は朝から屋敷内が浮き足立っている。朝食後、食堂から自室に戻るとき、使用人たちが焦ったような険しい顔で、忙しなく廊下を行き交っているのを、はなは目にしていた。


「……ずっと気になっていたのだけど、朝から何の騒ぎなの?」

「それが……若様のご帰宅が急に今晩となったらしく、使用人はほぼ全員お出迎えの準備を……」

「なるほど。よく分かったわ」


 兄は報告がぎりぎりで、唐突なのだ。

 留学すると言い出した時も、父から許可をもらった三日後に、既に留学の準備は済んでいたようで、早々に出国してしまった。あんまりにも、とんとん拍子に事が進んだせいで、はなは兄に、行ってらっしゃいの挨拶もできなかった。兄は全く気にしていないようだったが。

 ある意味、兄は効率的で用意周到なのだろうが、その影響を食らう、こちらの気持ちにもなってほしい。感情というものを排除した兄の所業には、はなも少し思うところがあった。しかし、それを口にすることはできない。兄にとって自分は妹ではあるが、兄の為すことに進言することは許されていない。兄に意見してもいつも、妹は兄についてくれば良いのだ、と一蹴されてしまっていた。はなが成長した今も、何か言ったところで聞き入れてはもらえないだろう。兄は、そういう人だ。

 そんな、はなの複雑な兄に対する心境を察してはいたが、静は敢えてその話題から切り替えた。


「お嬢様。今日は帰国される若様のための宴の準備で屋敷内はずっと騒がしいと思われます。ですから、たまには外出されてはいかがでしょう?」

「外出? 構わないけど……どこか良い場所はあるの?」


 はなが瞬きして首を傾げた。

 そんな、はなに、静はもちろんと、頷いた。


「はい」

「どこなの?」

「少し遠いですが……隣街に新しくカフェーができたそうです。霜月の初めに」


 静の言葉に、はなは瞳を輝かせた。


「へぇ! 美味しいの? そこは」

「紅茶の淹れ方が本場英国の本格派で、香りも味もなかなかと……」


 静が言い終わる前に、はなは勢いよく立ち上がった。


「行きましょ! 屋敷にいるより、そっちに顔を出した方がよほど楽しそうだわ!」


 はなの笑顔に、静も表情を綻ばせた。


「かしこまりました。旦那様には既にお伝えしてありますから、用意をして向かいましょう。私も同行いたします」


 静の言い方が硬い。はなは唇をへの字に曲げた。

 そういう意味で一緒に来てほしいわけではないのに。


「お静。……私は、お静と行きたいのよ? そんな畏まった、付き人みたいな言い方しないで。今日は、お静も普通にカフェーを楽しむの。いい?」


 腰に手を当てて、はなが言えば、静は仕方ないと微苦笑を浮かべた。


「……はい。分かりました。お嬢様」


 はなは、よしと頷き、外套を出そうと踵を返した。

 とっさに静がやろうとしたが、はなは手を上げて止める。

 今日、自分は仕事をしてはならないらしい。静は苦笑を浮かべていたが、その苦笑は、どこか嬉しそうだった。

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