第陸話

 はなは、吃驚して声も出せない様子のシンを見上げた。

 大怪我をしたのは自分なのに、なんだかシンのことが心配になってきた。だって、彼の顔。真っ青を通り越して、真っ白だ。


「あの……シンさん? 大丈夫ですか?」


 シンの肩が、びくんと跳ねた。

 そして、不安そうなはなを振り返り、そっと溜息を吐く。


「すみません……動揺しました」

「それは私にも分かります」

「……はなさん」

「はい」


 一瞬でシンから動揺が消えた。

 冷静な眼差しに射抜かれる。彼が神の眷属というのも頷ける。畏怖、だろうか。畏れに近い感情が込み上がってきて、蟀谷こめかみから冷や汗が噴き出す。

 そんなはなに、シンは苦笑した。


「固くならないでください。我が君もそう仰っていたでしょう」

「あ……」

「私は巫覡です」


 シンは静かに切り出した。


「神の命には、従わなければなりません。貴女も同じように。……これから、貴女はここに通うことになります」

「……はい。異論はありません」

「そうですか」


 はなに応じる声音は少し、安心したようだった。


「貴女は、いつまで麓に滞在されているのです?」

「毎年夏は、麓にいますよ。……夏の間、何度かここに来ればいいですか?」

「そうですね。夏中毎日登山は酷でしょうし、最低一回でしょうか」

「私、運動は好きです。何回でも来ますよ!」

「それでまた遭難しては意味がありません」

「う」


 そうだった。

 自分は遭難してここに……

 そこまで思い出して、はなは、はっとした。

 お静は。小父様は。村の皆は。


「もうすぐ、夜明けです」


 シンが手を伸ばし、はなの髪を撫でた。


「きっと我が君も、今年は構わないと仰せになられるでしょう。今は無事な姿をご家族に見せてください。心配されているでしょうから」

「……はい」

「麓まで送ります。怪我については安心してください。手当をしておきましたから。大して痛むこともないかと」


 シンはそう言って、はなの肩と膝裏に腕を回し、軽々と抱き上げた。

 新緑のような爽やかなシンの匂いが鼻孔をくすぐり、はなは気恥ずかしくなって俯く。シンは不思議そうに首を傾けた。


「はなさん?」

「あの!」


 はなは恥ずかしさを誤魔化すように、ぱっと顔を上げた。


「敬語、やめませんか?」

「え?」

「これから毎年会うんでしょう? なら、友達みたいなものです! 友達は敬語を使わない、そうでしょう?」

「友達、ですか……」

「はい!……あ、もしかして……嫌ですか?」


 そのことに思い当たり、はなは恐る恐る問う。

 しかし、シンは首を振った。


「いえ。友人ができたのが本当に久し振りで……嬉しいですよ。すみません。不安にさせましたか?」

「敬語」

「あ」

「ふふ。じゃあ、友達ね。私たち」

「……うん。よろしく、はな」


 はたから見れば、兄妹のようにも見える二人。

 だが、二人は友人になった。種族と時代の垣根を超えて、今。二人は友人になったのだ。


 その後、シンに送られて屋敷に戻ったはなは、静からこっぴどく叱られた。

 そして、その年はもう山には入らなかった。

 その翌年、はなは静を半ば無理矢理説得して山に入った。山の入り口までシンが迎えに来ていて、その年は山の地形や道筋、生息する動植物について教わっただけで終わった。

 一日山を歩き回っただけで、はながくたくたになってしまったためだ。

 そして今年。

 また静に心配をかけてしまっていることを気にしながら、はなは聖域に足を踏み入れたのだ。

 今年こそ約束通り、外界の話をするために。


「ちゃんと迷わず来られたようだね」

「今年は平気だったよ」

「……はな」


 シンが、はなの頭に手を置いて視線を合わせるように屈み、黒いはなの瞳を覗き込んだ。


「それにしては、暗い顔をしているね。……家族にうまく説明できないのかい?」

「……うん」


 シンは何でも見通してしまう。はなの隠していること、隠したいと思うこと、全部。ずるいくらいに。そして、見通して優しく助言してくれるから、なおずるい。


「お参りに行っている、と言ってごらん」

「え?」

「はなは、我が君の元に参っている。そうだよね?」

「うん」


 直接話す相手はシンだが、その原因を命じたのは紛れもなく山神だ。


「なら、命を助けてもらったお礼に、山神様にお参りをしているんだと、家族に告げればいい。無理矢理ここに来ていては、心配させてしまうだろう?」

「……分かった」

「よし。帰ったら、きちんと話すんだよ。ここに来る理由」


 そう言って笑いながら、はなの頭をくしゃりと撫でる。シンの癖だ。

 こうされると、ほんの少し。はなの胸はきゅっとする。優しい撫で方で安心するのだが、なんだか少しだけ落ち着かない。落ち着かないのも、なぜか嬉しい。はなは、まだこの感情を解っていない。


「さ、立ち話もあれだ。おいで、はな」


 転ばないようはなの手を取って、シンは洞窟へ導く。

 この大きくて温かい手が、はなは大好きだ。

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