005 魔女の森

 木々の間、道とは呼べないような狭い隙間を、魔王は走り抜けた。

 小枝や枯葉の端で頬や手足を切っても、足を止めるわけにはいかない。背後からは、正気を失った魔物の金切り声が響いている。

 今自分を追って来ている魔物が何なのかを、横目で確かめた。

 人の拳ほどしかない、小さな花の妖精。花弁の中心に女性の顔があり、背中には蝶のような羽が生えている。

 通常であれば人に害をなすことはなく、その美しさから見世物小屋の主人や珍獣好きの貴族に狙われるような無力な魔物だ。

 それが、今は耳障りな金切り声を上げながら、毒の花粉を撒き散らしている。

 赤い花、青い花、黄色い花。魔王を追って来た妖精は三体。元々は瑞々しく美しかったであろう花弁は無惨にひび割れ、茶色に変色している部分もある。

 赤い妖精が魔王の前に回り込んだ。目の前に大きく裂けた口が現れ、思わず足を止める。

 左右には大木の幹。前方に赤い妖精。背後には、青と黄色の妖精が迫っている。逃げ場がない。

 赤い妖精が、羽を震わせながら紫色の花粉を撒き散らした。それと同時に、魔王は右側の幹に拳を叩きつける。

「────! ────!!」

 白い炎が妖精たちの身体を包み込む。目の前と背後から、硝子を爪で掻き毟るような不快な叫びが響いていた。

 炎に包まれた妖精はしばらく両腕を振り回していたが、やがて背中の羽が燃え尽きて地面に落下した。

 湿った地面の上でも炎の勢いは衰えず、花の妖精たちは骨も残さずに焼き尽くされた。残ったのは、黒い灰だけだ。

 小さな灰の塊をまたいで先に進む。のんびりしていられないのはわかっているつもりだが、どうしても走ることができなかった。

 視界がぼやけ、足元から悪寒が這い登ってくる。赤い妖精が正面に回り込んできた時に、その毒を吸い込んでしまったのかも知れない。

 重い身体を引きずるように歩いていくうちに、少し開けた場所に出た。

 周りは木々に囲まれているのに、そこだけ背の低い草や花ばかりで、頭上を遮るものが何も無い。

 天気の良い日であれば、そこだけ日の光が差し込んで、まるで舞台のように見えたかも知れない。

 だが、今日の空は分厚い雲に覆われており、その場所も他と変わらず薄暗いままだった。

 木の幹に背中を預けるように座り込む。空を見上げると、不気味な紫色の雲と青白い稲光が見えた。

 今にも雨が降り出しそうな気配がするが、とりあえずまだ曇りのままだ。

(あと、どれくらいいる?)

 頬の傷に右手を押し当てた。解毒ついでに、あちこちにできた引っかき傷や打ち身なども治してしまおうと回復魔法を唱える。

 ぼやけた視界が元に戻り、悪寒の波が去り、痛みが少しずつ消えていく。

(吸血鬼は倒した。巨人ももういないはずだ。妖精はさっきので最後。どれくらいだ? あと、どれだけ倒せば良い?)

 魔女がリベイラの図書館に現れた時、とにかくここから引き離さなければならないと思った。

 人がいないところでなければ戦えない。魔物が暴れても、派手に神聖魔法を使っても問題のない場所へ行かなければ。

 そう念じていたら、レオンハルトと出会った森に転移していた。

 転移させられるのは、視界に入っているものと、魔法を唱えた本人のみ。転移できる場所は、魔法の使用者が訪れた場所だけだ。

 魔女が率いてきた魔物が、あれで全てとは思えなかった。だからセレネをリベイラに置いて来た。彼女なら、リベイラを守ってくれると思う。

 どこに転移するつもりなのか、魔王はセレネに伝えなかった。だから、セレネがここに来ることはないだろう。自分一人で何とかする必要がある。

 森に転移させられたと気付いた時、魔女は怒り狂っていた。必ず殺すと宣言してきたので、すぐに襲いかかって来るだろうと思ったのだが、魔物をけしかけるだけけしかけて当の本人は森の奥へと消えてしまった。

 魔王は襲いかかって来る魔物を蹴散らしながら、魔女の行方を探している。

 体内から毒が抜けるのを待ってから、魔王はゆっくりと立ち上がった。

 がさりと前方の茂みが揺れる。草木の間から、三つ目の灰色狼が飛び出して来た。

 距離を取ろうと横に跳んだが、すぐに右肩が木にぶつかった。唸り声を上げた灰色狼が突進してくる。太い前足で踏みつけられるように、地面に押し倒された。

 目の前に白い星が飛ぶ。倒れた拍子に、後頭部を地面に打ち付けてしまっていた。獣の唸り声と鋭い牙が、首筋に触れそうな位置まで近づいてきている。

 胸の上にある前足をつかんだ。狼の巨体はびくともしない。肺が押し潰され、呪文を唱えようにもそのための呼吸すらままならなかった。

(舐めるなよ…………!)

 遠く掠れていく意識を無理やり引き戻しつつ、狼の前足をつかむ手に力を入れる。その手のひらから、少しずつ白い炎が漏れ出していた。

 花の妖精たちを焼き尽くしたものと同じ炎だ。前足を焦がした狼が悲鳴を上げて飛び退く────そのはずだったのだが、不意に狼は大きく身体を震わせて硬直した。

 前足から力が抜ける。白目を剥き、口の端から血混じりの泡を吹いた灰色狼が崩れ落ちた。

 狼の真下にいた魔王は、その巨体に押しつぶされることになった。

「あっ、あの、大丈夫…………ですか?」

 何とか狼の身体から這い出し、空気を求めて咳き込んでいるところで、幼い少年の声が聞こえた。ぎょっとして顔を上げる。

 レオンハルトだ。灰色狼の背中に突き刺した剣を引き抜こうと苦労している。

「なんでここにいるんだ」

 感謝よりも先に、掠れた声が出た。

 ここには魔王と魔女、魔女が率いていた魔物しかいないはずだ。セレネさえリベイラに置いて来た。

 それなのに、何故ここにレオンハルトがいるのか。

「それはそのー、僕が英雄だからでしょうか」

「はあ?」

「えーっと、なんて言いますか…………あの時、君が何をしようとしているのか、わかったんです」

 剣を引き抜いた英雄がへらりと笑う。

「ここにいるみんなを助けるために、何かやろうとしてるなって。それも一人で。それなら、僕は君を一人にしちゃ駄目だって…………だから、咄嗟に君の足首をつかんじゃったんです」

 あの時、レオンハルトが揺れに耐えきれずに転倒したのは覚えている。魔女が現れてからは、そちらに夢中でレオンハルトのことはすっかり忘れていた。

 揺れが収まった後、レオンハルトが起き上がったのか、それとも倒れたままだったのかもわからない。

 ────幼い英雄は、魔王が何をしようとしているのか察知したというのに。

「気がついたら森の中だし、君は見つからないし、魔物はうじゃうじゃたくさんいるし、一時はどうなることかと思いましたけど。でも、間に合って良かったです。無事で良かった」

 剣を鞘に納めたレオンハルトが、魔王に向かって手を差し出した。

「魔女を倒すんですよね。僕にも協力させてください。魔女には敵わないかも知れないけど、ある程度は剣も魔法も使えます。魔女は無理でも、他の魔物なら」

「もう一度転移する。リベイラで良いな?」

「なんでそうなるんですか。僕の話聞いてました?」

 レオンハルトが頬を膨らませる。魔王はその顔を睨みつけた。

「お前、弱いじゃないか。足手まといだ。邪魔だ。あっちに行けだ!」

「よ、よわ…………そこまで弱くないです! だって、ほら! さっきの灰色狼倒したの僕ですよ! なんですかあっちに行けって!」

「灰色狼は何とかなっても、吸血鬼や巨人は無理だろう!?」

 吸血鬼は普通の剣では倒せない。巨人は一人で倒すのは不可能だ。ここまで言えば、レオンハルトも流石に言う事を聞くだろう。

 そう思ったのに、幼い英雄は魔王の言葉にむしろ冷静になったようだった。

「そういうのは、もう君が倒してるでしょう? さっき巨人の死体を見ましたよ。吸血鬼も」

「あれで全部とは限らないぞ」

「じゃあ強そうなのは君に任せて全力で逃げます。僕でも倒せる魔物だけ相手します」

「言うじゃないか。セレネにいじめられてたくせに」

「いじめって…………そう思うなら止めてくださいよ」

 軽口は返せても、差し伸べられた手を握ることはできなかった。自分は魔王で、彼は英雄だ。

(それでも────それでも、あの魔女を倒すまでなら)

 差し出された手を見つめて、魔王はゆっくりと頬を緩めた。笑っているように見えたら良いと思う。

「いいだろう。大物は俺様がやる。雑魚は任せた」

「はいっ、任されました!」

「無茶はするなよ。無理だと思ったらすぐ逃げろ」

 レオンハルトは大きく頷いた。まだ、手は差し伸べられたままだ。

「魔女を倒して、二人で帰りましょう」

「…………ああ」

 ゆっくりと頷いて、幼い英雄の手を取ろうとした、その時に。

 黒い魔力の塊が、レオンハルトの身体をさらって行った。

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