002 贄の歴史



「あなたは…………とても良い子だから」

 遠くから、優しい声が聞こえる。

 それが誰のものなのか、少女にはわからない。けれどその声を聞いただけで少女はとても幸せな気持ちになり────同時に、何故か泣き出したくなるような気持ちになった。

「あなたは、優しくて、可愛くて、良い子だから。私の誇り、私の希望、私の宝物。誰よりも誰よりも誰よりも、あなたのことを愛しているわ。大好きよ」

 声の主がどんな人なのか、少女は知らない。

 いつもそうだ。白い光が彼女の視界を遮って、声の主の影しか見えなくなってしまう。

 影に向かって手を伸ばしても、少女は声の主に触れることができなかった。

 声の主の方から触れてくれるから、それで満足だった。

 優しく少女の髪に触れ、頬に触れ、そこに彼女がいることを確かめるようにそっと手を握ってくる。

 少女は精一杯、その手を握り返した。

「あなたが生まれてきてくれたから、私はこの世界が好きになった。あなたがいるから、私は幸せ。本当に幸せなの」

 何度も何度もくり返して、声の主は少女に言った。

 あなたは優しくて、可愛くて、とても良い子な私の宝物と。

 あなたが大好きで、あなたがいるだけで幸せなのだと。

 何度も何度も。自分に言い聞かせるように。

「だから、だから…………ね? 他の誰があなたを憎んでも、罵っても、私はあなたのことを愛しているの。ううん、わたしだけじゃないわ。きっと、あなたが大人になる頃にはもっとたくさんの人があなたを愛してくれる…………」

 優しい手が、ゆっくりと消えていく。

 慌てて手に力を入れても、少女にはそれが止められなかった。

「幸せになって。幸せになるのよ、絶対に。あなたには幸せになる権利がある」

 声が遠ざかっていく。

 少女は影を追いかけて手を伸ばした。あと少しで手が届くというところで、手のひらに鋭い痛みが走る。続いて、顔や手足にも。

 足元に落ちた小石を見て、少女はようやく誰かが自分に向かって石を投げているのだと理解した。

「化け物め!」

「この疫病神が!」

「あんたなんかがいるから…………! あんたなんかがいるから!」

「死ね! 死ね! 死んじまえ!」

 石を投げつけてくる者の姿は、優しい声の主と同じように、影にしか見えない。

 だが、あの人とは違う。

 悪意や憎悪、殺意に溢れた叫びだった。

 ────この影は邪魔だ。私が幸せになるためには、こいつらを消さないといけない。

 顔を庇うように小さくうずくまりながら、少女は唇の端を吊り上げた。

 幸せにならなければならないのだ。優しい声の主が、そう望んでくれたから。

「死ぬのはお前たちだ」

 低い声で囁いて、少女は立ち上がった。それだけで短い悲鳴が上がる。それまでの威勢もどこへやら、一目散に逃げようとする者もいた。

 一人も逃すつもりはない。逃げる影の背中に向かって、少女は右手を伸ばした。

 右手の先の空間が渦を巻くように歪んでいく。やがてそれは黒く染まり、急激に大きくなった。

 人影は無様に悲鳴を上げて逃げ惑ったが、黒く渦巻く魔力の塊はあっさりと彼らを呑み込んだ。

 耳障りな断末魔をあげて人影がねじれていく。千切れてばらばらになった身体は渦の中に消えていったが、そこから流れた血が地面に赤黒い染みを残していた。

 悲鳴と断末魔と人の身体が千切れていく音の中、少女は哄笑する。

 そうだ。これで良い。これで私は幸せになれる…………!




 目覚めてみれば。

 少女の周りには、優しい声の主も悪意に塗れた人々もいなかった。彼女が殺した人々の血も残っていない。

 人間が足を踏み入れることがない、森の奥深く。雨風が防げるからちょうど良いと、大木の洞の中に潜り込んだ。枯葉を毛布代わりにして、そのまま眠ってしまったようだ。

 先ほど見たあれは夢だ。過去の夢だ。まだ少女に何の力もなく、ただ無邪気な子どもだった頃の。

「…………なんて」

 胸が切り裂かれたように痛い。痛みを堪えるように身を丸めて胸元を抑えるが、そこには何の傷痕もなかった。

 夢の中では影にしか見えなかった声の主が誰なのかも、少女に石を投げつけた人影のことも、はっきりと思い出している。

「人間、なんて」

 喉が焼けるように熱い。瞼が勝手に痙攣する。

 掠れた声で呟いた拍子に、口から嗚咽が漏れてしまった。

 声の主は、少女の母親だ。

 石を投げつけてきたのは、かつて少女が住んでいた村の住人たちだった。



 魔物と人間の間に生まれた娘は魔女となり、魔女の娘も魔女となる。

 人間を遥かに凌駕する魔力を持ち、その血を舐めた魔物は理性を失い狂うという。

 魔物でも人間でもない。どちらからも疎まれ拒まれている存在だ。

 少女の母は、魔女だった。

 村の片隅でひっそりと薬を売って、少女と二人で暮らしていた。

 村の人々は少女と母を毛嫌いしていた。それでいて、村の近くに魔物が出れば討伐を頼み、疫病が流行れば母の薬を求めにきた。

 都合の良い時だけ猫なで声で擦り寄ってくる村人たちのことが、少女は大嫌いだった。

 母が何故あの村に住み続けたのかは今でもわからない。

 村の男と恋に落ちたらしいという噂────「可哀想に。あのイヤらしい魔女が色目を使って、純朴な若者を騙したんだよ」「子どもさえ孕んじまえば男は言いなりになるとでも思ったんだろうさ」────は聞いていたが、その男は少女が生まれた直後に妻と娘を捨てて村を飛び出していた。

 だから少女はその男の顔も声も知らない。名前くらいは母から聞いたかも知れないがすぐに忘れてしまった。そんな男など少女には不要だった。

 ただ、その男の帰りを待っているから、母はどれだけ酷い目にあっても村に留まっているのだろうと思った。

 母の薬でも治せない病は、魔女の呪いだと言われた。母に薬を求めておきながら、魔女が毒を村に流したのだと騒ぎ立てた。

 それまでの村人たちの行いは綺麗に棚に上げて、都合の悪いことは全て少女と母のせいにされた。

 魔女だ。魔女の呪いだ。今までの仕打ちに腹を立てた魔女が、仕返しをしたに違いない…………!

(許さない許さない許さない許さない。あいつらさえいなければ、あんな村なんかなかったら)

 もしそれが本当だったら、どれほど爽快だっただろう。

 今まで母や少女を見下し、蔑み、罵倒した村人たちが病に倒れ、一人残らず死に絶えるのを見物できていたなら、どれほど愉快だっただろう。

 だが、実際には違ったのだ。

 母は、石を投げつけ、魔女の呪いだと叫ぶ村人たちのために、薬を作り続けたのだ。

 それなのに。

 ────病で苦しむ村人たちを救うために、村長は魔女を処刑することに決めた。呪いをばらまく魔女さえいなくなれば、村は救われると思い込んでいたのだ。

 母は逃げなかった。命乞いさえしなかった。それで村人たちの気が晴れるならと、処刑されることを受け入れた。

 ただ、娘だけは見逃してくれと言った。

 母は少女の目の前で処刑された。

 夢の中で聞くあの言葉は、母の遺言だ。だから何としても叶えなければならなかった。

(どうして逃げなかったの。なんで人間なんかに殺されてやったの。なんであんな村にいたの)

 母が息絶えた時に、少女は魔女になったのだ。

 村人たちに思い知らせてやった。魔女に逆らったらどうなるかを。母を奪われた魔女の憤怒を。

「人間なんて、世界なんて滅べばいい!」

 胸元をつかみ、嗚咽を漏らしながら叫ぶ。

 あの村から出ても、どこへ行っても人間は皆同じだった。

 人間がいる限り、少女は幸せになれない。

 だから────母の遺言を叶えるために、幸せになるために、魔王になって世界を滅ぼすしかないのだ。

 この世に存在するのが少女一人だけになった時に、ようやく彼女は幸せになれるのだから。



☆☆☆


 最古の魔王は神の末端であったと言われている。

 死と罪を司る彼は他の神々に忌み嫌われていた。絶望と恐怖に狂った彼は、同じく忌み嫌われていた魔物たちと手を組み、「世界を変えるため」に神々と地上を支配していた人間たちに戦いを挑んだ。

 その戦いで、多くの人間が命を落とした。力の限り魔王と戦い、消滅してしまった神もいた。

 魔王の力は強大だった。

 このままでは本当に魔王に支配されてしまう────誰もがそう絶望していた時に、一人の若者が正義の神に願った。

 ────私に、魔王を封印する力を授けてください。

 正義の神は若者の願いを叶え、彼の持つ剣に祝福を授けた。若者はその剣を手にたった一人で魔王に立ち向かい、自らの命と引き換えに魔王を封印したという。

 この時若者に力を授けたのが、現在神聖教会で讃えられている正義の神アスタである。


 次に魔王が現れたのは、その五百年後。

 とにかく凶悪凶暴な魔王であり、近付けば魔物であろうと容赦なく殺した。目的は世界を滅ぼすことであった。

 その時英雄となったのは、剣など握ったこともない無垢な少女だった。彼女は魔物と心を交わすことができたと伝えられている。


 その次は、二百年後。

 魔王は十代半ばの少女の姿をしていた。彼女が殺戮を行ったという記録は残っていないが、この時は魔物の凶暴化が激しく、被害は甚大なものとなった。魔物に力を与え、自らは高みの見物を決め込んだ魔女として知られている。

 この時の英雄は、彼女の恋人である竜の青年である。青年は魔王を倒した後、その亡き骸を抱いて姿を消した。


 その次は、百年後。

 これまでの魔王は人の姿をしていたが、この時は魔物の姿をしていたのだという。

 その力は強大で、たとえ首を切り落とされても滅びることはなかった。魔王による被害の記録はあまり残っていないが、この時代は大国同士の戦争や内乱が多発しており、魔王が裏で手を引いていたのだろうと言われている。

 戦争で故郷を失った青年が英雄の剣を抜き、同じように故郷や家族を失った仲間たちと力を合わせて魔王を封印した。

 平和になった後、彼らの消息は不明である。


 その次は、五十年後。

 何の前触れもなく村や街が蒸発するという事件が起きた。同時に、魔物が異常なほど強力になり凶暴化した。

 この時英雄の剣を抜いたのは、二十代半ばの青年だった。だが、彼は志半ばに倒れ、彼の意思を継いだ従者が魔王を封印した。


 そして、それから十年────

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