004 少年の夢

 心を壊すためには、より苦痛を伴う死が必要だ。

 そう気付いたのは、何度目の自殺に失敗した時だったか。もうすっかり忘れてしまったが、その後に旅に出ようと思ったのは覚えている。

 あちこちを巡って、夜の女神の祝福を────呪いを解く方法を探したが、見つからなかった。

 そもそもこれは、夜の女神が成したことなのだ。人間の時を止め、たとえ死んでも心さえ壊れなければ生き返ることができる────時を止められた時点まで巻き戻すなど、神でなければ不可能だろう。

 人間の間で伝わる魔法や言い伝えなどを調べても、手掛かりなど見つかるわけがなかった。

 夜の女神の国は、神聖教会によって徹底的に破壊されてしまった。夜の女神に関する資料は全て焼き払われ、各地に伝わる言い伝えは封印され、夜の女神の名を記すことや口に出すことさえ、神聖教会は禁止した。

 全てを赦し全てを受け入れる夜の女神は、神聖教会によって、正義の神アスタに刃向かう愚かで淫靡な売女となった。彼女に従う黒騎士たちは、女神の色に溺れた哀れな傀儡なのだという。

 神聖教会が行ったあの虐殺は、邪教に溺れた人々を浄化するための聖戦だったのだと、今は伝えられている。

 歌劇の題材としてもよく取り上げられており、正義に満ち溢れた神聖教会の使者が目に涙を浮かべながら邪教に溺れた人々を救う姿は、演技だとわかっていても感動の涙が止まらないのだそうだ。

 その正義に満ち溢れた神聖教会の使者たちに、全身を切り刻まれたり骨を砕かれたり首を締められたりしたセレネから見れば、とんだ茶番の喜劇だった。

 夜の女神についての記録は、神聖教会によって歪められたものしか残っていない。

 仲間たちの後を追って、夜の女神の元へ行くためには、心を壊すしかない。とにかく死に続けて、そのまま眠りにつける日を待つしかなかった。

 神聖教会のおかげで大体の死に方は体験しているセレネだが、その中で最も苦痛を伴ったのは、強化魔法を解いた後の死だった。

 骨がゆっくりと軋みながら折れ、内蔵が少しずつ潰れていき、筋肉がひとつひとつ引きちぎられる。

 そんな死に方は、強化魔法を使わなければ体験できないだろう。

 より苦痛を伴うために、強化魔法を使ったまま長時間活動する必要があった。魔物の討伐は、それにうってつけである。

(巨人は正解だったな)

 口元を歪ませて、セレネはそんなことを思った。

 巨人と遭遇した時はまだ高い位置にあった太陽だが、今は西の空を赤く染めている。辺りはもう薄暗くなっていた。

 巨人の動きは単調で読みやすく、攻撃を回避するのは簡単だった。戦闘開始から数時間は経過しているが、セレネはまだ小さなかすり傷ぐらいしか負っていない。

 対する巨人は、主に下半身や腕を斬りつけられて血塗れになっていた。

 傷が増えるたびに冷静さを失っているらしく、今は駄々っ子のように拳を地面に打ち付けていた。セレネが既に回避しており、そこにはもういないことに気付いていないようだ。

 だが、セレネも巨人に致命傷は与えていない。

 人間なら命に関わるような傷でも、巨人にとっては少し深い引っ掻き傷だ。数が多いので血塗れになっているが、出血多量で死ぬことはないだろう。

(さて、そろそろ本気で殺しにいこうか)

 時間は充分に稼いだ。そろそろ潮時だろう。

 引き際を見誤り、強化魔法を解く前に巨人に叩き潰されて即死するような羽目になったら意味がない。

 巨人の背後に回り込み、セレネは軽く助走をつけてから垂直に跳び上がった。狙いは首だ。大木のような首の中央に、剣を突き立てる。

 巨人が絶叫した。前のめりに倒れ込みそうになる。

 その背中を蹴って、巨人の首から剣を抜いて着地する────つもりだった。

「…………っ」

 セレネをぶら下げたまま、巨人が地団駄を踏んで暴れだした。

 咄嗟に剣にしがみついたが、堪えきれずに空中に投げ出される。

 受け身を取ろうとしたところで、巨人が振り回した拳がセレネの左肩を掠めた。体勢を崩され、背中からまともに地面に叩きつけられる。

 首から剣を生やした巨人が、ゆっくりとセレネの方を振り向く。片足を持ち上げているのが見えた。

 セレネは動けない。

(まあいいか。これでも)

 少し掠っただけだが、左肩の骨にひびが入ったような気がする。そろそろ痛みを無視するのが難しくなってきていた。

 潮時だ。もういいだろう。即死できない程度に、中途半端に踏み潰してくれたら万々歳だ。

 それとも万が一のことを考えて、今強化魔法を解くべきか?

 身体は動かないのに、思考だけは妙にはっきりとしていた。やけにゆっくりと近づいてくる巨人の足の裏を、ぼんやりと眺める。

(解くなら、早くしないと────)

「審判の時嘆く人々の前に現れし夢の跡」

 どこからか、聞き覚えのある少年の声がした。早口に何かを唱えている。

「赦しを乞う罪人を前にして神々へ捧ぐ祈りと願いをここに!」

 誰かに襟首をつかまれ、セレネは後ろへと引きずられた。その直後に、巨人の足が降ってくる。

 セレネは潰されなかった。

 目の前に、黒衣を着た少年の背中があった。彼の両手から、白い光が零れている。

 魔力を光に変え、攻撃や防御、回復に用いる魔法────神聖教会の使者がよく使用する、神聖魔法。

 かつて夜の女神を滅ぼし辱め、黒騎士たちを何度も何度も殺した神聖教会の使者の一人が、何故かセレネを助けようとしていた。

「白き刃に望むは罪の浄化と聖なる祝福!」

 少年の手から溢れた光が、巨大な鎌になった。身体全体で振り回すようにして、少年は光の鎌を巨人の足に叩きつける。

 巨人の右膝から下が、あっさりと切断された。

 片足を失った巨人が咆哮をあげた。姿勢を崩し右側へ傾いていくその腹を、光の鎌が裂く。

 巨人はそのまま崩れ落ち、悲鳴や咆哮の代わりに血を吐いた。しばらくぴくぴくと痙攣していたが、やがて動かなくなる。

「…………これで、やっと」

 掠れた声で、少年がぽつりと呟く。

(子どもだ。今にも泣きそうって感じだな)

 巨人の返り血を頭から浴びた少年の背中を眺めて、セレネはそんなことを思った。彼が振り返ったらどうしようとも。

 どうするべきかセレネが決める前に、少年は振り返ってしまった。とりあえず苦笑を浮かべてみる。

 予想に反して、少年は泣いてはいなかった。何かに怒っているような、不機嫌そうな顔をしている。

「お前、強化魔法を使ってるな? 剣じゃなくて、自分の身体に」

「…………それがどうかした?」

「今すぐ解け」

「今は、勘弁して欲しいな」

 強化魔法の効果が切れたら、セレネは間違いなくのたうち回る羽目になる。助けてくれた少年に、そんな醜態を晒したくなかった。

 少年は顔をしかめたままため息をついた。それまで両手で抱えていた光の鎌を放り出し、セレネに向かって手を伸ばしてくる。

 セレネは反射的に身を引いて逃げようとしたが、

「治してやるから、逃げるな」

 少年の手が、セレネの左肩に触れる。

「────ッ!」

 あまりの痛みに、セレネは思わず悲鳴をあげそうになった。

 左肩だけではなく、全身の骨が軋んでいる。大きな手に内蔵を鷲掴みにされ、ゆっくりと時間を掛けて握りつぶされているような感覚があった。喉の奥に血の味が広がる。

(解かれた…………っ!?)

 強制的に、ただ肩に軽く少年の手が触れただけで強化魔法の効果が切れた。呪文を唱えずにそんな真似ができる魔法使いなど、初めて遭遇した。

 彼に抗議する余裕もなく、セレネは身を丸めた。

 酸素を求めて喘いでいるのに全く肺に入ってこない。地面の上にいるはずなのに、水などどこにもないはずなのに、溺れているようだった。

「慈悲の神傷つき飢えた獣の嘆きに────」

 少年が早口に唱える声が聞こえていた。回復魔法か。ほんの少しだけ、苦痛が和らいだような気がする。

 目を開けているはずなのに、辺りは真っ暗で何も見えない。少年の声がどんどん遠くなっていく。これは、もう────

 呪文の詠唱が止まった。息を呑むような音がする。誰かがセレネにすがりつくように、その両肩を掴んで揺さぶった。

「駄目だ…………駄目だ、駄目だ! 死ぬなよ! 死んだら駄目だ!」

 あの少年だ。どうやら泣いているらしい。呼び掛けの中に涙声が混ざっている。

(なにも泣くことないだろうに────)

 苦笑して───少なくとも苦笑したつもりになってから、セレネは意識を手放した。

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