過去の章

001 女神の国


 その国は、小さな街がひとつあるだけの、本当に小さな国だった。

 宗教と言えば、大抵の人間は正義の神アスタを信仰する神聖教会を思い浮かべる。だが、その国では違っていた。

 その国では、夜の女神を信仰していた。全てを赦し、受け入れる夜の女神を。罪人すら見捨てずに受け入れる暖かさに、その国の人々は魅了されていた。

 正義の神アスタは、というよりも、神聖教会は当然それを許さなかった。

 彼らにとって罪は裁かれ滅ぼさなければならないものである。罪人さえ腕に抱く夜の女神を、受け入れられるわけがなかった。


 異端だ邪教だと言われ弾圧されても、女神の国の人々は沈黙していた。

 全てを赦し受け入れることこそが正しいというのが、夜の女神の教えだった。

 だが、神聖教会は武力で彼らに改宗を迫った。

 夜の女神の言葉を伝える巫女の一人を、見せしめに惨殺してみせたのだ。

 ────これが、正義の神アスタの成すことか。

 いくら寛容な夜の女神であっても、それを赦すことはできなかった。

 怒り狂った夜の女神は、殺された巫女の身体を借りて地上に降り立った。

 その場にいた神聖教会の使者たちは、夜の女神の裁きを受け、滅ぼされたのだという。


 夜の女神は神聖教会と戦うことを決意した。

 それまで従えていた巫女だけではなく、女神の剣となり盾となる騎士を求めるようになった。

 夜の女神への敬愛と忠誠を示すために、騎士たちは黒い鎧とマントを身につけた。その姿から、騎士たちはいつしか黒騎士と呼ばれるようになった。

 セレネは、その黒騎士たちのうちの一人だった。


☆☆☆


「あなたたちに、わたくしはとても酷いことをしようとしています」

 夜の女神を身体に降ろした巫女の前に、黒騎士たちは片膝をついた姿勢で一列に並んでいた。

 聞こえてくるのは十代半ばの少女の声だが、それが夜の女神の言葉であることはその場にいる全員が知っていた。

 少女の声は苦しそうに震えている。夜の女神が苦悩していた。

 黒騎士たちは、じっと次の言葉を待っている。

「あなたたちを時の縛りから解放します────これが祝福だとわたくしは言えません。無力で愚かな女神の呪いだと、そう思ってくださっても構いません」

 時の縛りから解放される────セレネがその意味を理解するよりも早く、黒騎士たちの中で最も年長の男が口を開いた。

「我らは最期まで、女神様と共に在りましょう」

 他の黒騎士たちも、次々とそれに続いた。

「女神様と共に」

「最期まで忠誠を」

「女神様と共に在りましょう」

「息絶えたその後も忠誠を誓います」

 迷いはなかった。

 その時はそれが一番正しいのだと、信じて疑わなかったのだから。


☆☆☆


 戦うための剣と盾を手に入れても、夜の女神が不利であることは変わらなかった。

 そもそも圧倒的に数が違う。

 倒しても倒しても湧いて出てくる神聖教会の使者たちに対応するため、黒騎士たちは自らに強化魔法を掛けることを思いついた。

 だが、本来武器に使用するはずの強化魔法は、魔法の効果が切れた後の反動が大きく、無理をした黒騎士が次々と殉職した。

 それを嘆いた夜の女神が、彼らに提案したのである。

 時の縛りから黒騎士を解放すると。


 その時から、黒騎士たちの肉体は時間を止めた。

 老いることがなくなり、負傷してもすぐに元の状態まで回復する。万が一死ぬようなことがあっても、心さえ折れなければ何度でも蘇生できるようになった。

 守るだけで精一杯だった彼らが、神聖教会と互角に戦えるようになったのはそれからである。

 死ぬ恐れのない黒騎士たちは、襲い来る敵を次々と葬っていった。首を跳ねられても心臓を突き破られても、黒騎士たちは蘇った。

 それが神聖教会を恐怖させ、また同時に決意させてしまったとも言える。

 ────異端者たちに裁きを、と。


 何度目かの襲撃が失敗に終わった後、神聖教会は全力で夜の女神の国を滅ぼしにかかった。

 黒騎士たちは善戦したが、どんな犠牲も厭わない神聖教会の凶刃に、一人また一人と倒されていった。

 剣と盾を失った夜の女神の国は、神聖教会によって蹂躙された。

 巫女はもちろん、女や子ども、もう先の短い老人まで、容赦なく虐殺された。

 異端者に裁きを! 異端の神に滅びを!

 歌うように叫びながら、神聖教会の使者は夜の女神の国を破壊していった。

 黒騎士たちは全員捕らえられ、蘇る度に殺され続けていた。

 心を殺すために、より苦痛を伴う方法で、何度も何度も何度も。

 爪先から少しずつ切り刻まれた。生きたまま火炙りにされた。首を締められ、窒息死する寸前の状態を保ったまま、剣で身体のあちこちを突き刺された。

 その苦痛も絶望も、狂ったように叫ぶ使者たちの声も、セレネは全て覚えている。


 だから、セレネは自分だけが生き残ったことが不思議で仕方なかった。

 目覚めた時には街は既に廃墟になり、腐りかけた死体がいくつも道端に打ち捨てられていた。

 神聖教会の使者の姿はない。

 傷一つない黒騎士が一人、セレネのすぐ近くで倒れていた。

 セレネは墓を作り続けた。

 眠ったままの黒騎士たちは、唯一雨風が凌げそうな教会の跡地へ移動させた。

 黒騎士の誰かが自分と同じように目覚めてくれないかと、ずっと待ち続けた。

 だが、いくら待っても誰も目覚めなかった。

 時の縛りから解放されている黒騎士たちの身体には、傷跡すら残っていない。呼吸もある。触れると暖かかった。ただ眠っているだけのように見えた。

 だが、彼らの心はもう壊れていた。もう蘇ることはない。

 時の縛りから外れた黒騎士は、朽ち果てることすらできなかった。

 一人だけ生き延びてしまったセレネは、この時初めて死ぬことができない自分を呪った。後を追うために、何度か自殺を試みたこともある。だが、その度にセレネは蘇った。

 やがて、彼女は女神の国を出ようと決意した。自分に掛けられた女神の祝福を────呪いを解く方法を探すために。

 セレネは、死ぬための旅に出た。

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