第2話 5月16日 たぶん11時 晴れ 

 相変わらず、バスは止まったままだった。

 

 僕には暇をつぶす手段がなかった。本ぐらい持ってくれば良かったかもしれない。だが僕には読書をする習慣がない。マンガすら読まない。そのため本を持ってくるという発想自体がなかったのだ。

 読書と同じぐらいありきたりな趣味として、音楽鑑賞が挙げられるが、こちらに関しても僕の態度は全く同じだ。僕には好きな音楽もない。

 今になって考えてみると、僕は娯楽というものに縁がなかった。唯一の例外は映画だが、僕が見るのは暴力的な映画に限定されていた。

 人を殴ったり、刺したり、撃ち殺したりする映画を見ていると、僕の心は不思議と和み、表情筋が緩んだ。僕にとっての暴力映画は、泣いている赤ん坊にミルクを与えたり、オムツを取り替えるようなものなのだろう。

 暴力は好きだった。でも僕はヨハネスブルク市民ではない。僕の日常生活に暴力と呼べるものはなかった。だから僕が好きなのは、映画を通して見れる『フィクションの暴力』だ。『本物の暴力』が好きなのかどうかは、現時点ではハッキリと分からない。それを知るには暴力を振るったり、振るわれたり、目撃したりと、暴力を様々な方面から経験する必要があるだろう。

 僕は以上のような思考活動をしていたが、一連の禅問答が終わると、本当に何もすることがなくなった。しょうがないから、今度は眠ろうと努力してみたが、急にやったって、何事も付け焼刃ではうまくはいかないものだ。

 今はただ、時が過ぎるのを待つしかない。いつまで待てばいいのかは分からないが、修行僧のように心を無にしよう。そうすれば、この時間の無駄と言う苦しみにも耐えきれるはずだ。いや、無理だって分かっているけれど、僕に他に何ができるのか。神に祈るのか? 馬鹿馬鹿しい。脳が腐る。


 運転手はまだ帰ってこない。落ち着け、朝倉歩あさくらあゆみ。無になるんだ。あの糞親父に女の子みたいな名前を付けられた恨みも、今はまず忘れるんだ。とにかく寝ろ。

 突然、叫び声と怒号が聞こえた。大きな音を立てられるのは好きではない。うるさいのは迷惑だ。それに、この騒ぎは何やら変な感じがする。これはおそらく、いや絶対に『事件』だ。という事はだ。僕が望んでいたもの、『本物の暴力』の開幕時間が、なんの前触れもなくやって来たのかもしれないってことだ。ああ、なんということだ。神は実在していたのか。別に実在しなくてもいいけどさ。僕はなんてラッキーなんだ。僕は声のする方に視線を向けた。しかし、そこにあったのは、何とも奇妙な光景だった。

 見たものをそのまま文字にすると、服を着たゴリラにしか見えない連中が、縄で手足を縛られた芋虫状態の人間を神輿のように持ち上げて、このバスの中へと運び込もうとしていた。

 このSMチックなカーニバルは、非常にまずい絵面をしていた。第三者の僕には集団レイプの準備作業、拉致誘拐にしか見えない。もしかすると、同意を取った上での特殊なプレイの可能性もあるが、もしそうであっても人目の触れないところで、こっそりと身内だけでやるべきだろう。見物客、じゃなくて目撃者に通報されたらどうするつもりなんだ。しかも僕があまり視力のよくない目を、しっかり凝らして見てみれば、縛り上げられ、おまけに猿轡まではめられているのは、とても華奢な体つきをした少年だった。

 つまり、屈強な男達が小柄な少年を縛り上げて、襲っているというわけだ。やめるんだ。変態共が大喜びするぞ。そう思いながらも僕は手に汗を握って、黙って見ていることしかできなかった。うん。これは面白い。素晴らしいエンターテイメントだ。

 バスの通路内を舞台に移して、少年の激しい抵抗運動は続いた。少年は死に物狂いで暴れ、顔は完熟トマトのように真っ赤になっている。しかし、手足が縛られているため、体をくねらせ、揺り動かすことしかできないようだ。

 バン、ドン、バン、バスの座席に少年の手足がぶつかる音が、祭囃子の和太鼓のように鳴り響く。少年はまるで水揚げされた魚か、頭を切られた蛇のようだった。その様子は滑稽で、僕は危うく笑いだしそうになる。少年の必死な姿がひどくシュールに見え、下劣で下種な笑いを誘うのだ。

 哀れなチャップリンと化していた少年は、バスの一番後ろの座先へ、ゴミ袋のように投げ捨てられた。そのままゴリラたちは少年にのしかかり、顔面を殴り、肘鉄をかまし、蹴りを入れている。これぞまさに『本物の暴力』だ。ただ肉と肉がぶつかり合い、骨が軋む音だけがある。正義とか教育とか、思想じみた物は一片もない。この楽しいフルーツバスケットにより、少年はまったく動かなくなった。それを確認したゴリラ達は少年のもとから離れていき、バスの座席に腰を下ろし始めた。全員が不機嫌そうな表情を浮かべているのは、バナナがもらえなかったからに違いない。

 乗客を増やし(もしかすると一人は死んでいるかもしれないが)、ようやく旅は再開した。移動中に何か面白いことはあったかって? ああ、何もなかったよ。


 ありきたりな詩にあるように、人生は旅だ。退屈な旅だ。本当に。

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