患者と医者③

 嫌なことを思い出した――いや、思い出したというより、ねじ込まれた、という表現に近い。水分を含んだタオルから、水分がじんわりと床に滴り落ちるようにゆっくりとした調子で歩み寄り、私の心を逆撫でする。気付けば、仄かに首筋に汗をかいていた。背筋に一滴垂れ落ち、不快感が増す。

 ふうっとため息をついた。この思いは胸のうちに秘めておかなければならない。感情は人に悟られる。ひいては患者の心理にも左右されてしまうからだ。

 老人の苗字があの彼と同じ苗字だったからといって、彼の親族とは限らない。

 しかし……と私はあの時を振り替える。

 私のもとへ謝罪をしにきた時、確かに母親しかいなかった。あの時は怒りと憎しみで気に止めなかったが、実の息子が他人を自殺に追い込んでおいて、父親が謝罪の一つも来ないのは確かにおかしい。しかし、そんなことより重要なのは、私が彼の父親を認識していないことにあった。

 老人の名前を聞いた時、もしかしたら、という疑念が私の頭をよぎった。直感に過ぎないが、それでも確信に近いものが、私の心に描かれる。それでも医者の矜持を持って、治療にあたった。しかし、美濃さんの口から飛び出したのは、「手術は受けない」との声。その声を聞いたとき、私は怒りに震えた。人の息子を殺しておいて、自分は生きようとしないのか、と。生きる術が残されているのに、それを放棄することは、息子の命を軽んじていることと同義のようにも思え、思わず強い口調になってしまった。

 悲しむ家族はいない。美濃さんは確かにそう私に告げた。それを文面通りに受けとるならば、美濃さんは彼とは赤の他人なのだろう。逆に何かを隠していたとするなら、思い出したくない過去があったのか、と勘繰ってしまう。それを知る術がないか、考えを巡らせると、一つの答えに帰結した。

 ――カルテだ。私はパソコンを起動し、パスワードを打ち込む。病院のロゴが入った背景に並べられたショートカットの中から、この病院専用のネットワークに繋いだ。その中から診療記録を選択し、美濃さんのIDを打ち込むと、過去の診療記録がドミノ倒しのように印字されていく。法律で病院では五年間の保管が決められている。しかし、それより長く保管する分には問題ないため、患者の治療の道筋でもあるカルテの保管を重要視し、当病院ではサーバの容量を鑑みながら、削除する方針をとっており、更には削除したデータも紙面として倉庫に保管して大切に残している。

 美濃さんの診療記録は最も古いもので十年前のものが存在していた。私はそれを印刷し、中身を確認する。

 もう一つ、別のIDで診療記録を呼び出し、古い診療記録を印刷し、同じように中身を確認すると、美濃さんの記録と照合する。

 ――なるほど。私はここで合点がいった。

 診療記録には、診断された病名や投薬した薬の詳細はもちろん、個人情報の記載も一部ある。そして、美濃さんの自宅の連絡先と彼の自宅の連絡先、そして住所が見事に合致した。

 つまり、美濃さんは彼の父親であることがここで証明された、というわけだ。

 私は近くにいた看護士にコーヒーを頼んだ。手早く運ばれたコーヒーを息で冷ましながら、印刷したカルテを並べて眺める。運命、という医者には似つかわしくない言葉が頭の中で木霊する。運命というものがあるとするならば。これはまさしく運命というものなのだろうか。そしてこの運命に対し、神は私に何を求めているのだろうか。

 その答えはそれから一月後にわかることになるのだが、今の私には気づく術は、無い。

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